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“まける” 相手に生かされる道をさぐる|中西進『日本人の忘れもの』

万葉集研究の第一人者である中西進さんが執筆し、2001年の刊行以来いまも売れつづけているロングセラー日本人の忘れものがついに電子書籍化されました。ここでは、特別にその内容を抜粋してお届けいたします。

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日本の悪口を言うのがインテリの証?

 今まで日本はおかしかった。とにかく日本の悪口を言っていればインテリなのである。反対に日本に味方するとすぐ国粋主義者のレッテルをはられ、極端になると特別な組織の人間にさえみなされてしまった。

 だから私など、むかしから日本の良さや美しさをはやし立ててきた人間は、ダサい頑固者扱いだったにちがいない。

 ところが近ごろ、風向きがすこし変わってきた。日本はそんなに悪い国じゃない。日本の良さを見直そうという声が聞こえはじめた。

 ただ、それじゃどんなところがいいのかというと、まだまだ名案が登場しない。なにしろ何かをもちだしても、現代人にとってはあいまいなことばかり言うことになる。やっぱりいまの世の中には合わないよ、という声も聞こえてきそうである。

 しかし、何といわれようと、もう一度日本の良さを思い出して、元気を取り戻したい。

 そこでまず人間とのつき合い方を考えてみよう。

 人間同士のつき合いのなかで、最もシビアなのは金銭関係だろう。貸し借りの関係、ものの売買、そんななかにさまざまな悲喜劇が起こり、哀切な人間模様もできる。江戸時代、十七世紀大坂の作家・井原西鶴は、そんな商人のようすを生き生きと描いてみせた。

 ところで商人はいまでも「まけときます」という。ディスカウントしますという意味だ。ところが「まける」というのは、勝ち敗けの「まける」と同じ意味だから、彼は「あなたとの勝負にまけておきます」というわけだ。

 このせりふを、日本語をよく知らない外国人が聞いたら、どう思うだろう。値引きのことを敗北というのは、ピンとくるだろうか。

 英語で敗けるといえば「lost(ロスト)」とか「defeat(ディフィート)」とかいうことになろうが、さてロストが同時に値引きするという意味をもっているか。そうではないだろう。

 それどころか勝つためには攻めて攻めて、ついに勝利を手中にするまで戦うのがヨーロッパふうな近代人の割り切り方だ。いささかも引いてはいけない。

 もちろん欧米人にだって駆け引きはある。しかし、もうけを目的とする勝負に「敗けておきます」という理屈はどうも異質である。

 敗ける伝統をもつ日本人は、近代ヨーロッパふうに頑張って外国人相手の取引をしてみても、ついつい及び腰になって徹底攻撃ができないから、ほんとうに敗けてしまう。お人好しの日本人と陰口をたたかれて、じだんだを踏んでくやしがることになる。

 日本人だって取引に勝ちたいのである。しかし敗ける。

 いったい、これはなぜだ。間尺に合っているのか。

まけるが勝ち

 ここでちょっとむずかしいことをいうが、柳の枝がしなったり、運動選手の体がしなやかだったりする。この「しなう」という日本語の「しな」は死ぬときの「しぬ」と仲間である。つまり折り曲げられるといっぺん折れそうになりながら、ぴんと元へ戻る、あの「しなう」運動は、死ぬことによって弾力をたくわえながら、いっそう強く生きることなのである。

「しなう」という日本語は「しのぶ」という日本語とも仲間だ。「堪えしのぶ」というと、じっと我慢することになる。我慢などまっ平というのが現代人だろうが、辛棒映画の主人公・おしんではないが、むかしは美徳だった。そこで大竹しのぶさんなどと人名にも登場する。世の中、悪徳を人名にすることはないのだから。

 どうして堪えしのぶことが美徳なのか。「しなう」ことがいっぺん死ぬことで弾力をたくわえ、いっそう力が強くなったように、堪えしのぶことで力は内部に凝縮する。たくわえられたエネルギーは、ついに大きな力となって爆発するだろう。

 力をたくわえるといえば、その最たる日本の象徴はお能である。お能は見ていても、よくわからない退屈な仕ぐさが延々とつづくから、眠っている人も多い。それこそ外国人にわかりにくいのは、あの動作がきわめて日本的だからだ。

 何しろお能は徹底的に動作を省略する。抑える。手を目の前にもっていけばそれで泣いたことになる。舞台をひとまわりすれば京都と東京の間を歩いたことになるのだから、700系の新幹線だって顔まけである。

 いったい、なぜあれほど動作を節約するのか。いや、ケチをしているわけではない。すべてを抑えおさえて振る舞うから、力が役者の体の内へ内へと入り込む。名人を見ていると、体全体が力のかたまりになっている。

 お能の美しさは、この抑制にある。私はその美学に、よくうっとりする。

 動作を抑制して力をたくわえるお能。それはしなやかに死んでは弾みをつける運動選手の体、堪えしのぶことで大きな力をたくわえる生き方と、すべて考え方が一致している。それがじつは、勝つためにいったん敗けるということらしい。その勝負には敗けても、大きな勝負には勝つ。その手段が「まけときます」というせりふになるのである。

 ところがいまや日本人も、小学生のころから「敗けるな」と教育されている。国語の時間はディベート(討論)の練習をさせられる。「思ったことははっきり言いなさい!」と叱られる。

 一方で思い出してみると、反対のことわざはいっぱいある。

「口はわざわいの門」「言わぬが花」「以心伝心」「物言えばくちびる寒し秋の風」――。

 こうしたことわざのなかで教育されてきた日本人の美質は、それこそ力の蓄積にあったのに、いまはもう表現しないのは悪徳で、自己抑制など不健康きわまりない。

 一時「男は黙ってサッポロビール」というコマーシャルが流行した。ウケた理由はノスタルジーにあったとしか考えられない。

 たしかにそうだ。考えてみるといい。何でもかんでもしゃべりたいことをしゃべり、したいことをする。どこに人格の美しさがあるか。

 いやいや、人格なんて持ち出さなくてもいい。100%しゃべったあとで反撃されたら、もう力のたくわえはないのだから、こなごなにうち砕かれてしまう。しなやかにはね返すべき力の貯金はないから敗退するしかない。

 取引の勝負だって、力のかぎりをつくしてもうけることはできる。しかし一時の勝負には勝ったにしても、すぐ次に対応できる力がないから、次はもろくも大敗してしまう。

 それよりいったん敗けておいて力をたくわえ、大勝負に勝つことをもくろむ方がよい。敗けるが勝ちとは、よくいったものだ。

 敗けるが勝ちといえば、私は兎と亀の話を思い出す。二つを競走させると、必ず兎が勝つ。そう決まっている。ところがすべてを終えてみたら、亀が勝っているではないか。局地戦(Battle)の勝利は戦争(War)の勝利と一致しない。

 もっともこの寓話はイソップという古代ギリシャ人のつくったものだから、日本ふうな知恵だとはいえない。むかしは地球上、西も東もかしこかったのである。

 ところが近ごろはこの寓話を「油断大敵」の教訓にとる。それこそ頑張り精神での解釈である。イソップがいいたかったのは「敗けることを気にしないで、自然に生きていきなさい。そうすると結果は必ず勝つのです」ということだった。

 この教訓を、さいきんの日本人は忘れている。日本亀は欧米兎のすばしこさに目がくらんで、跳べもしないのに、跳ぼうとしている。

 日本亀よ、ゆっくり歩きなさい。

生かされて生きる

 ところでこの日本亀は「柔らか構造」の人種である。だから徹底的に自己主張したり、押しつけがましいことをするのが苦手で、国際社会でも適当に妥協してしまい、いつも損をする。

 とくに外交を見ているとそれが目につくから、日本人はやきもきしながらニュースを見ていて、いつもため息をつく。お金をばらまいてはニコニコと独りよがりに満足している外相。不況にあえいでいながら高い税金をとられ「おいおい、それみんな税金じゃないか」と怒っている国民。

 たしかに食うか食われるかの歴史を生きてきた諸外国に、君子国の外相はほんろうされているのだが、さてそれは日本本来の「柔らか構造」の姿ではない。

 日本人が古くから培ってきた人間関係のあり方は、相手に生かされる道をさぐることだった。さっき私は適当に妥協するといったが、正しくは状況を判断して自己主張を切りかえるということだ。そのタイミングは、流れをうまくつかみ相手の勢いをかりる点にある。

 それでは、どのようにタイミングをつかむのか。どうもこの自己変身を、日本人は理づめで考えないらしい。きわめて感覚的で、こまかい計算を意識しない。むしろそこがコツなのである。

 一昔まえ、ドリス・デイが歌った「ケ・セラ・セラ」という歌がはやった。「なるようになる。先のことなどわからない」という歌詞は軽快なフットワークの人生で、いとも楽しいが、さて「なるようになる」は日本ふうには別のニュアンスがある。

「なる」というのは、自然にそうなるだけではなく、もっと濃密で必然的な実(みの)りも意味する。だから「なるようになる」といえば、まことに正しい実りに向かう、事のなりゆきを示す。

 このなりゆきに身をまかせることが、本来の日本人の生き方だった。

 昨今ではコンピュータがみごとなまでに事態を分析してくれる。だから「なりゆき」も数字で予想されるし、いつ、どのように身をまかせるかも、きちんと指示をあたえてくれるだろう。

 もちろんコンピュータを参考にするのはよい。しかし人間の感覚をバカにしてはいけない。

 話はとぶようだが、介護者が老人を毎日毎日やさしく撫でていると、具体的に肉体が回復するという話を聞いたことがある。別に口をきく訓練をしたとか、痴ほうを治す薬をあたえたとかいうのではないのに、撫でるだけでこうした効果があった。

 これを医学的に説明することも可能だろう。撫でることには物理的効果があるとか、介護者の心が具体的に伝わるとかと。しかし理屈をこえた皮膚感覚、人間的対応がいかに大切かも思い知るべきだろう。

 人間が人間関係のなかで生かされて生きることは、きわめて感覚的で無意識な態度のようでありながら、じつは適切な判断をしているのだと思う。

 そのことは仏教でいう「他力」を思い浮かべればわかりやすい。

 他力とはそもそも阿弥陀さまにお願いして頂戴した力だった。それがやがて「他力本願」といってやたらな他人だのみをすることになったから誤解されるが、本来にもどると他人を阿弥陀さまのように尊敬し、信頼し、自分の努力をつくしたうえで、さて他人さまの力をたよるのだから、「生かされて生きる」というばあいも、同じように、人間関係に自分の力をつくさなければならない。

 そのうえで、関係の自然な流れのなかに生きていくことができるのである。

 最初から何もしないで、なげやりに生きていては、他人から生かされはしない。本当の「なるようになる」生き方は、他人に人間としての信頼を寄せたうえで、柔らか頭で生きていくことである。

 現代人はもっと大きな人間信頼のうえで生きる方がよい。悪人すら巻き込んでしまうような人間信頼の覚悟のうえで。じつは柔らか構造というのも、自分への信頼がなければ生まれてこないのだから。

 自分を信頼していれば、こまかな勝負にこだわらなくなる。自信をもって生かされて生きればよいのである。

文=中西 進

中西 進(なかにし・すすむ)
一般社団法人日本学基金理事長。文学博士、文化功労者。平成25年度文化勲章受章。日本文化、精神史の研究・評論活動で知られる。日本学士院賞、菊池寛賞、大佛次郎賞、読売文学賞、和辻哲郎文化賞ほか受賞多数。著書に『文学の胎盤――中西進がさぐる名作小説42の原風景』、『「旅ことば」の旅』、『中西進と歩く万葉の大和路』、『万葉を旅する』、『中西進と読む「東海道中膝栗毛」』『国家を築いたしなやかな日本知』、『日本人意志の力 改訂版』、『情に生きる日本人 Tender Japan』(以上ウェッジ)など。
≪目次≫
第1章  心
まける  相手に生かされる道をさぐる
おやこ  家族問題を招く子ども大人の氾濫
はなやぐ 恋愛は心の匂いだった
ことば  愛にあふれ細やかな感情を大切にしてきた日本語
つらなる 全体への帰属意識が人間の支点になる
けはい  五感を超えるものが人間の豊かさをつくる
かみさま 八百万の神様がいる日本

第2章  躰
ごっこ  子どもよ、もっと仲間と遊べ
まなぶ  生命のリズムを育てたい
きそう  競技とはお互いの成長を目指すものだ
よみかき おもしろい漢字のパズル
むすび  「結び」の関係から見えてくる日本人の自然観
いのち  肉体のおわりは生命のおわりではない
ささげる 生の持続としての自死

第3章  暮らし
たべる  自然を生かしたおふくろの味を取り戻そう
こよみ  「体のカレンダー」をもとう
おそれ  自然へのおそれを忘れた現代人の遊び感覚
すまい  住居に聖空間を回復しよう
きもの  和服が醸し出す心のゆとり
たたみ  暮らしの中に自然をとり入れたい
に わ  人間を主役とする日本庭園

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