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“にわ” 人間を主役とする日本庭園|中西進『日本人の忘れもの』

万葉集研究の第一人者である中西進さんが執筆し、2001年の刊行以来いまも売れつづけているロングセラー日本人の忘れものがついに電子書籍化されました。ここでは、特別にその内容を抜粋してお届けいたします。

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石と対話してみてはどうか

 いま、たくさんの人がマンションに住んでいる。そんな中で庭の話をしても仕方ないというかもしれないけれども、人間の生活は庭をとても大事にしてきた。

 今でもホテルの中の料亭はビルの中とも思えないような庭を造っている。とくに日本料理の店は、庭があると急に料金が高くてもいいような気になってしまう。

 ビルの屋上に、いわゆる屋上庭園を造るのは、かれこれ七、八十年も前からのことではないか。

 そうなるとマンションに住んでいても、ベランダにちょっと庭らしきものを造作してみたり、鉢植えの一つも置いてみたりする気持ちがよくわかる。

 ましてや、最近はガーデニングがさかんだという。狭くてもいろいろ趣向をこらして花を植えたり木を育てたりするのは、人間と庭との、切っても切れない関係の証明なのだろう。

 いったい日本人はどんな庭を造ってきたのか。

 京都の有名なお寺に、龍安寺がある。いや龍安寺というより石庭といったほうが通りがいいかもしれない。庭は一面に白い小石でおおわれ、さながらに水面である。その中に石組みがある。それを中心として箒で掃き目がつけられた水面は岩によせる波そのものに見える。

 この庭に面して広く大きい縁側がもうけられている。これは、まぎれもなく庭を見るために作られた観客席である。

 いつも欧米人が座りこんで、じっと庭を見つめている。いつまでも動かない。

 石庭がこんなに欧米人を魅了するのは、もちろんこれがきわめてアジア的だからだ。

 要するに庭の主役は石である。こんなに徹底的に石に大役をおわせた庭は、中国でも見たことがない。中国では太湖石といってぼこぼこ穴があいていて、うねうねとくねった石を雲に見立てて置くことはよくあるが、それとは扱いがぜんぜん違う。その点、石庭は日本的といってよいだろう。

 反対にヨーロッパの庭園は、よく花壇を作る。幾何学模様に区画を作り、とりどりに花を咲かせる。

 その配置や組み合わせに工夫があって、人びとは歓声をあげながら花の美しさに見とれる。

 つまりは花が主役といっていいだろう。はたして昔の日本人は、花が主役の庭を造ったろうかと考えてみたが、11世紀の一つのエピソードを思い出すだけだ。

 ある人が通りがかりにのぞいた邸の庭にたくさんの花が咲いている。思わず入りこむと主人が出てきていわく。

 父が死にましたが、魂は蝶になるといいます。そこで父が蝶になって飛んできてほしいと思って、こんなに花を植えています。

 まさかヨーロッパの花壇は、死者が帰ってきてほしいから作られたのではあるまい。

 ヨーロッパの花壇は、そもそも修道院の中庭にハーブを栽培することから始まったのではないだろうか。そう考えると空間を区切って花を植える構造がよくわかる。

 いわば薬草園としての花壇と、魂をよぶ花とは、大いにちがう。そしてハーブにとって代わった花を主役とするヨーロッパ庭園と、石を主役とする日本庭園とでは、違いがはなはだしい。

 華やかに美しさを広げる花。力をじっと内へ内へとためこんで固く動かない石。派手と地味、外向と内向、遠心的と求心的。あらゆる意味で逆の性格をもつものが日本人の庭であった。

 枯山水の庭園もある。池の形を作りながら、さっきの石庭のように水を小石で表すから、水が枯れたということもできる。

「かれる」という性格も、日本人は大好きだった。「かれた人だ」といって淡白な精神を美徳とすることがある。派手で目立ちたがり屋は下品なのである。

 庭も同じ。水も木も枯れはてて、ついに石だけになってしまった石庭。この抑圧された力は、とうぜんヨーロッパ人を驚かせるだろう。華やかさを愛でてきた人を一ぺんに沈黙の中にひっぱり込み、石との対話の中で考え込ませてしまうのだから。

 昨今の日本人は、どうやら石より花が好きらしいが、狭ければ狭いなりに石一つ、庭でもベランダでもいい、置いてみて、石のいのちと向き合うことも、必要なのではないか。

脇役としての庭園がよい

「心字池」という池がある。池を心の字のように作ったものだ。日本人は心が好きで、以前、相撲で手刀を切ることを話題にした(*本書「きそう」参照)。これも手で心の字をかくのだといわれている。

 庭に心字池をほり、それに橋をかけたり池のまわりをぶらぶらと回ったりして、昔の日本人は庭をたのしんだ。

 地形に高低があると、なおのこと良い。歩きながら高くなったり低くなったりする眺めがたのしめる。

 どうしてこんなにまわりがくねくねした池を作るようになったのか。古代、曲水の宴といって、曲りくねった水路を流れてくる盃に合わせて貴族が詩や歌を作った中国の習慣が、日本にも入ってきた。そんな水路が広がり、池の形に意味づけをするようになって心字池が誕生したのだろうか。

 とにかく、池のまわりをたのしむ庭園が日本の伝統的な庭園となった。これを回遊式の庭園とよぶ。回遊魚のような気分だ。17世紀の俳人・松尾芭蕉に、

名月や池をめぐりて夜もすがら

という名句がある。彼も回遊魚になった一人である。

 一方、ヨーロッパの庭園では心字池のかわりに、池の中央に大噴水がそびえ、あたりに水をまき散らす。近ごろは水の出方に工夫をこらしたり、時間の差をつけたりで、たいそう美しい。太陽のかげんで虹ができることもある。

 庭園の王者は噴水である。これも昔の暮らしが泉を中心とした結果だろう。泉を中心として放射状に街が発達した。水が生活の中心でとかく日々の暮らしも街の集会も泉のほとりで行われたから、とうぜんのことだといえる。

 しかし、噴水の庭と回遊の庭とをくらべると、思想がずいぶん違う。庭の中心で、みずからの存在を大きく示す噴水。人びとはここへきて歩みをとめ、その美しさを見上げては賛美する。元来はちょろちょろとした泉だったものが、かくも見事に造作されたのだから、構造の科学力に驚かざるをえない。

 一方、日本の回遊庭園にくると、歩くこと自体が主だから、人間が主人で池は従である。ところが水が人間を統率する噴水は水が主人で人間は従である。

 集まってきて歩みをとめ、水を見上げる庭園と、ふらりとやってきて、池のまわりの小道にさそわれて歩きはじめる庭園。人間を歩きの中にさそい込んでしまう、そんな池のいたずらを仕掛けるのが、日本の庭であった。日本庭園の水は人間をさそい込んでしまえば、もう主役の座をおりる。

 あの芭蕉の名句も、池と人間の日本的な構造をまことによく表現したものだ。池は詩人に詩心の広がる場を提供しているにすぎない。曲折の道をゆっくりと歩くことで、空中の名月はさまざまに形をあらため、語りかけてくることばをかえる。まん丸な池では姿が単純になる。植込みも変化があることで、梢と月の関係がかわるだろう。時には水面に月を浮かべることで、二つの月を提供することもある。

 噴水はさっきの花と同じで、みずからが主役を演じることで人びとを引きつけ、よろこばせる。

 しかし回遊の池はさっきの石と同じで、人がやってくるかどうかは、人にまかせている。故意に人をひきつけたりしない。しかし人が来れば、自分と対話させたり、歩きまわる世界にさそい込んで、思わず考えさせ、楽しませる脇役にさっと身を引く。能でいえば人間がシテで池はワキである。

 この庭の役割は何も由緒ある庭園や大公園についてだけではない。われわれの身のまわりの小さな空間でも、住居のあるじをさそい込み、自分はワキをつとめるような空間を作るのが日本人の理想なのだ。

 ベランダ庭園だって、目立たない植物を置いて、住人を主役に立てる空間が作れればよいのである。

ビル街を借景にしよう

 韓国で文化大臣をつとめたことのある李御寧(イーオリョン)さんに、有名な『「縮み」志向の日本人』という著書がある。とかくミニチュアを作りたがるのが日本人だというのである。

 たしかにそういう面もある。庭にしても池の一部に州浜(すはま)<波が寄せる浅瀬>を作って海岸の感じを出したりする。

 しかし一方、日本の庭には借景とよばれる方法があった。遠く見える風景を借りてしまうのである。植込みの向こうに山の頂きが見えると、それをとり込んで庭の風景を作り上げるといった格好である。

 この遠景のとり込みは、おそらく床の間にかける掛け軸の画と関係があるだろう。

 あの細長い画面をどう処理すればよいか。下の方に人物や建物を描き、上の方にさっと刷毛ででも山の形を描いておけば、もう霞むほど遠くの山が存在することとなる。この日本画の遠景のとり入れと借景は同じ手法のものにちがいない。

 それにしても庭園の借景の思想はすばらしい。遠景までぜんぶわが庭園となってしまうのだから。この広大な気宇は、李御寧さんに言って「縮み志向」からはずしてもらわなければならない。

 私は以前おどろいたことがあった。神戸市に須磨離宮公園という広大な庭園がある。瀬戸内海へ向かってくだる傾斜地が一面の庭であって、建物が頂きにある。

 建物の前面の庭はあきらかにフランスのベルサイユ宮殿の庭をまねたもので、中央にカナル(運河)が造られている。

 ところが建物から見ると、カナルは流れ下って瀬戸内の海にそそぎ込む。つまり瀬戸内海を借景としてとり入れることで、カナルは壮大な水流と化し、とうとうと瀧をなして大海に流れ込むこととなった。

 平野に造られたベルサイユ庭園のカナルはただ遠くへ流れるだけである。私もそこで運河の果てを実見することはなかった。

 この離宮庭園はヨーロッパの庭園をまねながら、借景という伝統によって、見事に超越的な庭園を造り上げたのである。

 借景という無限定な心。どこまでも伸びていく遠心力。それが日本の庭の根底にあることは、大事なことだ。

 そしてこれも、庭園にきた人間の心を遠く遊ばせる仕組みであり、庭園自体はけして主役を演じてはいない。「どうぞ」と主役を人間に提供するばかりである。

 石庭は一見石が主役のような座を占めるが、さてそれは、向き合ってくれる人を対話に引きこみ、人間を思索者とする。わが身のまわりに人をさそって、自由に思索させようとする池と同じように。

 昨今の都会生活では、無味乾燥なビル群ばかりが遠景だと、人はいうかもしれない。

 しかし夜景はきれいだという人は、すでに借景の中にいる。借景で営業しているスカイラウンジもある。

 昼間のビル群も、きたないきたないといっていては、いつまでたってもきれいにはならない。

 むしろ窓の外にひろがるビルは現代を考える必要条件かもしれない。現代の美だってあるかもしれない。

 それこそ日本の庭は主役を人間にあたえる装置なのだから。

文=中西 進

中西 進(なかにし・すすむ)
一般社団法人日本学基金理事長。文学博士、文化功労者。平成25年度文化勲章受章。日本文化、精神史の研究・評論活動で知られる。日本学士院賞、菊池寛賞、大佛次郎賞、読売文学賞、和辻哲郎文化賞ほか受賞多数。著書に『文学の胎盤――中西進がさぐる名作小説42の原風景』、『「旅ことば」の旅』、『中西進と歩く万葉の大和路』、『万葉を旅する』、『中西進と読む「東海道中膝栗毛」』『国家を築いたしなやかな日本知』、『日本人意志の力 改訂版』、『情に生きる日本人 Tender Japan』(以上ウェッジ)など。
≪目次≫
第1章  心
まける  相手に生かされる道をさぐる
おやこ  家族問題を招く子ども大人の氾濫
はなやぐ 恋愛は心の匂いだった
ことば  愛にあふれ細やかな感情を大切にしてきた日本語
つらなる 全体への帰属意識が人間の支点になる
けはい  五感を超えるものが人間の豊かさをつくる
かみさま 八百万の神様がいる日本

第2章  躰
ごっこ  子どもよ、もっと仲間と遊べ
まなぶ  生命のリズムを育てたい
きそう  競技とはお互いの成長を目指すものだ
よみかき おもしろい漢字のパズル
むすび  「結び」の関係から見えてくる日本人の自然観
いのち  肉体のおわりは生命のおわりではない
ささげる 生の持続としての自死

第3章  暮らし
たべる  自然を生かしたおふくろの味を取り戻そう
こよみ  「体のカレンダー」をもとう
おそれ  自然へのおそれを忘れた現代人の遊び感覚
すまい  住居に聖空間を回復しよう
きもの  和服が醸し出す心のゆとり
たたみ  暮らしの中に自然をとり入れたい
に わ  人間を主役とする日本庭園

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