宇宙と、愛と。

4年ぶりのご来店だった。ロマンスグレーの髪の毛と、一風変わった言わば"爽やかなクセモノ"のオーラ。歳月を経ても忘れるはずがない。

4年前の6月、渡辺さんは医師の織田さんがセッティングしてくれた私の店での"宇宙イベント"にJAXA(宇宙航空研究開発機構)の関係者としてご参加くださった。それは映画「ゼロ・グラヴィティ―」を上映しながら要所要所で映像を止め、専門家がツッコミを入れてくれるという興味深い企画であった。

「はい、いったん戻していただけますか?発生した宇宙船の故障のもとになったのは、このシーンにうつっているこの破片です」

「宇宙服の下に着ている下着はチューブが通してあって、水を流すことで温度上昇を抑えているんです。だから宇宙服を脱いだとしてもこんな姿にはなりません」

「真空状態のときは風の音みたいなものもしません。大気圏に突入していないので、こんな大きな音はこの時点ではまだしないはずです」

と言った具合である。その時はツッコミに聴き入りながら宇宙への理解を深めるという得難い体験をさせていただいた。その日、店のお手伝いに入ってくれていたまだ二十歳そこらのエリナが質疑応答の際、
 
「人はなぜ宇宙に向かうのですか?」
 
というなかなかに鋭い質問を投げかけ、渡辺さんが、

「宇宙に向かうんじゃないんです。宇宙に還るんですよ」
 
と、厳かに答えられたのが妙に印象に残っている・・・。
 
「たまたまこの近くで用事があったから寄らせてもらったんだよ。マスターも変わらないねぇ」
 
と言いながら、その渡辺さんがあらためて差し出してくれた名刺には、「宇宙をもっと身近に!スペース○○代表」と書かれていた。現住所は「西が丘」とある。その3文字を見て、一気に青春の思い出が蘇った。
 
忘れもしない1994年の10月8日、巨人が中日と最終戦で優勝をかけて戦ったあの日、私は桐朋高校サッカー部の主将として西が丘競技場のピッチに立っていた。冬の選手権大会へと続く東京都大会の準決勝、東亜学園との一戦であった。圧倒的に攻め込みながらチームとして十数本も放ったシュートはすべて外れ、ロスタイムのこぼれ球を押し込まれてあっけなく敗れた苦い記憶。勝った東亜学園は結局優勝して全国大会へと駒を進めることになった。私にとっては人生を分けたかもしれない瞬間のとてつもない悔しさが、切ない憧れとともに西が丘という言葉の響きに刻み込まれているのだ。

そんな話を渡辺さんにすると、

「へー、そんなことがあったんだね。私は今あそこから3分のところに住んでるんだよ。今でもあのサッカー場は日本代表がお忍びで練習することもあるみたいで、ちょっと前はハリルホジッチ監督を見かけたこともある。1994年か・・・私にとっても思い出深い年だ。向井千秋さんが日本人女性として初めて宇宙に飛んだ年だし、私自身もコードネーム"きく6号"という人工衛星の打ち上げに失敗したからよく覚えてるよ。当時はそのプロジェクトのまとめ役みたいな仕事をしていたんだ」
 
と、返された。別の話題で盛り上がっていたカウンターの他のお客様も、いつしか渡辺さんの話に聴き入っていた。きく6号は静止衛星として利用すべく高度36,000キロの軌道を目指して種子島宇宙センターから打ち上げられたが、エンジンの出力が予定していたほど上がらずに投入を断念せざるを得なかったのだと彼は悔しそうに語ってくれた。調べてみると打ち上げの日は私が西が丘競技場で敗れた日のわずか一か月ほど前の出来事であった。(以下は実際に"きく6号"が宇宙から撮影した地球の写真)

しばらくすると、今度は彼が私の名刺に目を走らせながら意味深な様子で「"株式会社 愛"、"変幻自在"・・・」と音読されたので、
 
「宇宙も愛も同じようなものですよね?」
 
と、こちらも敢えて意味深な言い方で返したところ、彼は一度やや面食らった表情を浮かべてから気を取り直し、「そうだね」と微笑みながら答えてくれた。

渡辺さんは今でも宇宙イベントのようなものに関わっておられるようで、先日も中秋の名月を見上げながら宇宙を飛んだ酵母で造られた日本酒を飲む企画に参加されたことを愉快そうに話してくれた。最近はお客様の中に宇宙と関係の深い方が多いこともあり、そろそろまた一緒に何かやりたいと思ったのでそう伝えると、渡辺さんもニヤリとしながら「マスター次第だね」とおっしゃる。

「死ぬ前に何かの役に立ちたいとは思うよ」
 
お歳はいくつかわからないが、ご高齢であることは間違いない。それでも瞳の奥をまだまだ強く光らせながら過ごしておられるのは、宇宙に魅せられた者がかかる魔法のせいであろうか。お会計を済ませた彼は最後に、
 
「株式会社 愛。愛かぁ・・・いい名前だなぁ」
 
と独り言のようにつぶやきながら店を出て闇夜に消えていった。きっとまたいい宇宙イベントをやってみせる。しかも、我々の夢が大きく膨らむような、あるいは我々自身の存在の素晴らしさを再認識できるような、そんなイベントにしたい。私はそう自分に言い聞かせながら、渡辺さんの飲み干した赤ワインのグラスを拭き続けていた。


(了)

*これは事実に基づいたフィクションです。登場人物のモデルになった人物の実名は出していません。

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