英国諜報員アシェンデン(サマセット・モーム)
私的「するめ本」。 噛めば噛むほど味の出るするめのごとく2度3度読んでしまう本を勝手にそう呼称している。ある本で「たいていの場合は一度読みが多い。2度読むに値する本は少なくだからこそ2度読んだ本は必ず3度読む(超意訳)」とあって読んだ当時妙に納得したのを覚えている。そしてそうしたするめ本を見つける度 に本棚のさらに奥の自分だけの宝物的本棚が 満ちていく感覚があってすごく嬉しい。
本作はイギリス人作家のアシェンデンの諜報活動を短編形式でまとめたスパイ小説になっている。スパイといえばボンド・ウーマン、 ド派手などんぱちやアクションで有名な007。 あるいは飛び抜けた頭脳を武器に世界で暗躍するスパイ達を描いたジョーカーゲームあたりが思い浮かぶ。つまりは、目立ってなんぼみたいなスパイとか隙を与えず暗躍してなんぼのスパイを大体の人が思い浮かべると思うのだけど、アシェンデンはそのどちらでもなくどちらかというと地に足がついている。 (あるいはボンドとジョカゲのエキスを数滴ふくむ)危険が迫る場面はあるがボンドよろしく弾が飛び交うことはなく、次の一手を思考し行動するがジョーカーゲームよろしく徹 底した緻密な一手でもなく。徹頭徹尾地味なわけではないが派手でもない。
上司からの指示を受け、動き、時に失敗し 時に成功させまた指示を仰ぐアシェンデン。 中間管理職スパイ。苦労人アシェンデン。でも逆にスパイとは雲の上の人ではなく結局は歯車の一員であるとい う親近感とリアルさがツボなのである。そんな派手さはないスパイものではあるけど、主人公含め出てくる人物が一癖も二癖も ある人物ばかりで面白い。脳内で人物を描けるほど詳細な描写でまるで現実に生きているように肉付けされている。
話ごとの登場人物の描写が全てこんな風 に詳細で個性が溢れ、「いるよなこういう 人」と思えるぐらいだ。日常的にそういう視点で人を観察してきた著者モームのなせる技である。目の細かい景観・人物描写が想像を確かにしてくれ流だけでなく広げてくれてとても楽しい。
そしてもう一つの私的するめポイントは散りばめられたウイットにとんだ会話だ。
おいおいおいおい、おしゃれすぎる。
マティーニのくだりでオリエント急行と辻 馬車の喩えは読んだ瞬間しびれました。純粋にかっこよくて。この場面英国大使との晩餐会なのだけど二人の間で交わされるこの機知に富み富みな会話がいっそうこの場を洗練された雰囲気にしていて程よいスパイっぽさを感じる。
地味な諜報活動とアシェンデンを中心に語られる人間ドラマのハーモニーがこの本のメインであり醍醐味だと思う。だからこそボン ドを期待すると拍子抜けをくらう。敵を己の拳と銃で薙ぎ払っていくぜ、的展開は全くな い。怪物のような頭脳と精神力を発揮し3手先を読み敵のスパイを欺いていくなんて展開もない。 いい意味で平凡に近いアシェンデンとゆかいな仲間たちが織りなすヒューマンドラマ。 だからこそ2度も3度も読めてと楽しめるするめ本なのだと思う。
ちなみに数ある章の中でもお気に入りは 「警察の捜査」「ジュリア・ラツァーリ」 「裏切り者」なのだけどその中で出てくる 「あの人の腕時計、わたしが去年のクリスマスにプレゼントしたものなの。12ポンドもしたの。返してもらえるかしら」「ばか野郎。 殺したのは違う男だ」という台詞は時は時が経っても頭に残っていて空でいえる。
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