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もっともっと、書きたい。

noteを始めて、いつの間にか書いてきた記事も100をゆうに越えていたみたい。一時期は自分の成長のために毎日投稿を続けたりしながら、でも自分のペースを大事にしながら更新し続けてきていたのだけれど、気がついたらここに書くこと自体がなんだか日々の心のよりどころみたいになっていることに、わたし自身が驚かされている。

書く仕事に憧れさえも。

正直、数年前まで「書く」ということがこんなに特別になるとは思ってなかった。

小さい頃からそんなに本を読む子でもなかったし、というか活字に触れるとなんだかソワソワして、読みながら自分がよくわからなくなってすぐに投げ出したくなるような子供だった。そんなわたしが、noteに書き始めたことをきっかけに、ここ数年は書くということ、活字に触れることがとても多くなってきた。

そして普段は、写真家・ビデオグラファーである夫と夫婦2人でクリエイターとしてお仕事をしているのだが、まさかお恥ずかしいことに「書くことも仕事にしてみたいなあ」なんて、甘いことも考えてみたりみなかったり。お仕事としてできないまでも、こうして書いた記事をアップすれば、全く日常で会ったことがないような素敵な人たちが自分の文章を読んでくれる。それだけでも、わたしは書いててよかったなあと思えるのだけれど。

書くことには飽きなかった

そして何よりわたしは究極の『飽き性』だ。長く続くことが全くないわけじゃないのだけれど、自分でできる範囲で変化を加えていかないとすぐにやめてしまいたくなるくらい、一つのことが続かない。

飽き性だという事実は、わたしの代名詞になるくらい近しい人にはバレてしまってることなので、そもそも続けようとも今は思わなくなってさえいるのだけれど、なぜか「書くこと」は全く飽きていない。noteも2年以上続けているのに、一切の飽きが来ない。むしろ極めていきたいとさえ思う。この感覚はわたしはとても新鮮だ。

わたしの今までの職歴を振り返っても、ある程度の期間仕事に出来てきたことは、「飽きなかった」ことをお仕事にしてきたことが、実は大きかったように思える。会社員は結局1年も経たないうちに辞める宣言をしていたのに、ヘアメイクは8年、夫とのクリエイター活動は約3年、そしてそれらはまだ継続できている。インスタグラムやFacebookはもうアプリを消しているくらいなのに、noteだけは辞めたいと思わない。

そして、わたしが飽きずに続いていることは、完璧に100%と言っていいくらい、わたしが『直感的に』やりたい!と思って始めたことであることも大事な要素。なけなしの頭で考えて、思考でこねくり回して「きっと今やっといたほうがいいだろう」「やらないと周りに何か言われるから」「今まで頑張ってきたんだから」という理由づけをして行動にしてきたことは、わたしが続けてこれたことの中に、何一つないと断言できる。直感のチカラは侮れない。

書くことで救われる、癒される。

何より、わたしがなぜ書くことに飽きていないかというと、わたし自身が書くことで救われている、そして癒されているからなんだと心底から思う。

最初に「書く」を始めたのは、実はnoteの前に『モーニングページ』という習慣を始めたことがきっかけ。朝起きてすぐにノート3ページに渡って、頭に浮かぶことをただただ書いていくという、とてもシンプルな習慣。わたしのnoteを読んでくださってる人の中にはこの習慣を取り入れてる方もきっと多いと思うのだけれど、この習慣は、今現在も出来る限り続けている。本当に良い習慣に巡り会えた。自分の中に溜まったものを吐き出すようなスッキリ感もありながら、自分の中にあったモワモワしたカタマリが、文字として可視化出来たことによる納得感もある。そして、それを元に自分の感情にも深く向き合っていくことになるので、新しい自分、本当の自分を発見できたような感覚もある。

その誰にも開示しないモーニングページをしながら、それを誰かに伝えるメッセージにして、見える形にして書き留めていったのが、このnoteだ。

なので、このnoteは、自分自身へのお手紙のようなものだったりする。自分自身へ投げかけていたい、自分自身がかけて欲しい言葉たちを、ただただ書き連ねているだけなのだ。わたしはわたしの言葉に励まされ、勇気づけられる。そして癒されて、また前に進める。それをわたしはこのnoteの中で、ずっと繰り広げているだけなのだ。

書くだけじゃなくて、読むということ

先ほども触れたように、わたしは活字に触れることが苦手だった。まあ苦手とまでいかずとも、特に好んで本を読んだりするようなタイプではなかった。そんなわたしが、やはり「書く」ことを始めると同時に「読む」ことも自然とするようになっていったのは、なんだか面白い。どちらかというと普段は小説やストーリーに入り込むものよりも、エッセイなどを読むことの方が多いのだけれど。

(小説をあまり読まない理由はここにチラっと↓)

数ヶ月前に近所に図書館を見つけたことも、本を読むきっかけに大いに影響しているのも確かなのだけど、そもそもわたしが持ち合わせてしまっている繊細さん気質もそれにさらに拍車をかけて、読むことがとても心地いいものになっている。相手ありきで話すおしゃべりも、とても、とても大好きなのだけど、それは実は相当限定した人に限った話。新しい人と話すのは、びっくりするくらい最初から気があった!みたいな特殊な人を除いては、ものすごく避けたいことの一つだったりする。そんなわたしが、新しい人、新しい価値観に触れる上でとても楽な方法が、簡単に「読む」ということで可能になるのだから驚きだ。

活字の有り難さ

以前、活字という表現について感じたことを書いたことがある。↓

「書く」にしても「読む」にしても、この『活字』であることの心地よさったら、たまらない。個人的な考えだが、活字が心地いいのは活字がもつ「余白」のおかげだと感じている。恐ろしいくらいの情報でまみれた超情報社会の中で生きている私たちにとって、社会は全ての五感を、同時に、これでもか!っていうくらい刺激してくるものに溢れている。刺激は強くなればなるほど、強い状態に慣れてしまい、さらにはその刺激がないとダメになってしまうくらい中毒性がうまれてしまったりもする。

断捨離、ミニマリズム、デトックス。そんな言葉は流行るのも無理はない。その情報にやられて、そろそろこれはやばいぞと感じた人たちが、情報を減らす方向へ動き出した証だろう。

そしてわたし自身も、ものすごく減らしに減らしている。そんな減らした環境の中で、取り入れても苦がないのが、この「活字」なんだろうと思う。

書くことで“私“に還ろう

わたしはここ2年、書くことで「わたしがわたしに還っている」感覚がしている。失いかけた自分を取り戻している感覚だろうか。何かあったら書く。何かあったら書く。を繰り返している。

わたし自身、書くことを数年繰り返す中で、だんだんこうして外にアウトプットすることもできるようになってきたけれど、書くことが怖い人も、慣れていない人も、誰にも見せないノートに、紙切れに、是非思うがままを綴るということをしてみてほしい。

「書く」に正解なんてない。正しいライティングのスキルも、伝えなきゃいけないメッセージも、そんなものはどうだっていい。書きたいように、手が動くままに、ただ書く。その習慣が、きっとあなたを救ってくれるはず。

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