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短編集『犬嬢と花の荷車の女』

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連作短編『犬嬢と花の荷車の女』 2023年10月6日完結済です。
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短編集『犬嬢と花の荷車の女』目次

①【短編小説】たまご

②【短編小説】犬嬢

③【短編小説】れもニキ1/5

 【短編小説】れもニキ2/5

【短編小説】れもニキ3/5

【短編小説】れもニキ4/5

【短編小説】れもニキ5/5

④【短編小説】春に輝く少女

⑤【短編小説】夏、裸婦

⑥【短編小説】花の荷車の女1/3

【短編小説】花の荷車の女2/3

【短編小説】花の荷車の女3/3

⑦【短編小説

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【短編小説】たまご

 たまごの中でひよこさんは身体を小さく丸めて静かに息をしていました。たまごがどうやら小さすぎて大きく息を吸ったり、伸びをしたりすると簡単にこわれてしまいそうだったのです。まだ殻を破って外の世界に出て行くほどには、カラダができ上がっていないので、今たまごがこわれてしまってはまずいのです。
 やがてたまごの中のひよこさんの小さな耳に、周りの他のたまご達がどうやらふ化し始めるらしいパキパキ言う音が聞こえ

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【短編小説】犬嬢

【短編小説】犬嬢

 犬嬢の話をしよう。
 犬嬢は、犬のような女である。 
 ――何なんですかあなた。 
 その半生の中で周囲の人間達から繰り返し問われ続けたこの問いについて、
「犬女」「犬ガール」「犬姫」「犬嫁」「犬妃」「犬妻」「犬子」「犬婦人」「犬女子」
 などの候補はあった中で、犬嬢本人は次のように考えた。
 ――犬女や犬子では凡庸。犬婦人や犬嫁は独り身の自分には合わない。でも結婚したら犬嫁になるのも悪くない。

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【短編小説】れもニキ1/5

 あれはいったい何周期前の氷河期のことであったか、
 左右六本ずつ、鉤爪のある指を持つ、
 哺乳類に近い姿の動物が、絶滅しようとしていた。
 始祖鳥の群れに追い詰められた最後の雌雄は、
 互いに手を取り合って、
「何度生まれ変わっても、またつがいになりましょう」 
「必ずそうしよう」
 誓い合うと、雌の左手と、雄の右手とを二度とはほどけぬしかたで絡み合わせ、互いに力を込めた。
 すると雌の左手と雄

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【短編小説】れもニキ2/5

 翌日も大八木抄造は一日中図書館で、うかりそうにない国家資格の勉強をして、それでも一応一生懸命にはやったので、脳がぱんぱんになった。夜にはまた例の公園のベンチに座っていた。夜気に当てて、疲れを取るのである。この時間が今の抄造には唯一の安らぎなのだ。
 この時、虫を泳がせてぐるぐるの視野の右端に、すうっと、滑り込んで来るものがあった。
 自転車であるらしい。
 運転しているのは、七十代くらいに見える

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【短編小説】れもニキ3/5

 その二日後の夜に、母親からの着信。出ると、
――ちょっと前にメールしたんだけど
「ああ、後で返そうと思って忘れてた」
――ちゃんと勉強してるの?
「うん。してるよ」
――どれくらいしてるの
「どれくらいってまあ。10時間とか」
――そんなにしてんの
「ああ」
――今年はうかりそうなの
「んんん。まあやってみないと。筆記のテーマとかにもよるし」
――山が当たらなかったらまただめなん?
「いや、山っ

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【短編小説】れもニキ4/5

 司法書士試験は例年七月の第一日曜日に行われる。東京の場合、毎年どこかの大学の講義室を借りて試験会場とされるのだが、2022年度は、早稲田大学だった。

 が、試験日、抄造は会場を間違えた。早稲田キャンパスを《西》早稲田キャンパスと錯覚したのである。例年に比べて人が少ないようだ、と思いながら、入り口を探して広大な《西》早稲田キャンパスの周囲をぐるりと一周してみたが、試験をやろうという雰囲気が全く感

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【短編小説】れもニキ5/5 

 さて板橋に帰ってきた大八木抄造は59個のレモン(途中で三つ、こぼれ落ちたのだ。)を抱えて家の近所の、公園に来た。たまに鳳凰が来たり、ざりがに釣りのじいさんが来たりする、例の公園である。
 サランラップでぐるぐる巻にしたレモンの塊を未だに抱いている。それは禍々しい球として今抄造の膝上にある。球を抱いて、ベンチに腰を下ろしている。一箇所破れ目ができてしまったので、そこを右手で大事にかばっている。
 

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【短編小説】春に輝く少女

――春。
 少女(七歳四ヶ月)はうっすら、輝いて、鼻歌を歌っている。
 練馬区の路傍に、ひとり、輝いている。歌っている。
「紋白蝶を、潰したの。薬指と、親指で。きつねのなりかけで。潰したの。かわいそうな、蝶々さん」
 歌っているだけではなく、その左手には、実際につまみ殺したらしい蝶が――。

 きこ、きこ。

 そこへ、荷車を引いて、女がやってくる。荷車には、主に枯れた植物が積まれている。――満載

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【短編小説】夏、裸婦

――夏。
 一糸まとわぬ裸婦が、ふらふらと、公園を歩いている。ジョギングのコースや草野球場、テニスコートなどもある、板橋区内の某運動公園。空は、快晴。
 裸婦は、ふと、メタセコイアの木の根元に、目を留めた。
 薄茶色の、まるっこい虫が仰向いて、六本の脚を動かしている。蝉の幼虫のようだ。

 昼過ぎだった。
 
 ああ、かわいそうに。
 未明に羽化しようとして、土の下から出て来て、きっと途中で転げて

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【短編小説】花の荷車の女1/3

 寝不足の男と、寝不足の女が、芝の上に直に背をつけて、眠っている。男の顔には白のタオルが乗っており、女の顔には青のタオルが乗っている。日光の直射を避ける処置であろう。
 場所、練馬区立星丘台地運動公園内、夢見の丘。
 日付、二〇二一年五月一日。
 天気、晴れのち雷を伴う豪雨。
 時刻、午前九時十三分。
 
 二人は長かった自粛をこの日解禁し、ほとんど一年ぶりに、揃ってこの公園に散歩に来ていたのであ

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【短編小説】花の荷車の女2/3

 花売りの娘ではない女は花農家の娘でさえなかった。絵描きになることを宿願としている一人の大人の女であった。身体が小さいのは生来の個性だ。今日はデッサンをしに来たのだ。近所の花屋で廃棄になった花を譲ってもらい、荷車にぶち込んで、果樹園の裏に捨てられていた腐った琵琶とサクランボも嵩増しにぶち込んで、途中の路傍に咲いていたたんぽぽもぶちぶち千切ってぶち込んで、汗をかきかき運んで来たのだ。板橋区を縦断し、

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【短編小説】花の荷車の女3/3

 そのようないきさつを経て、荷車の女・容子が予定のデッサンを始めた時には、空は、青く高く晴れ渡っていた。三つ叉のアメリカスギノキを遠景に、夢見の丘にたたずむ花の荷車を描く。描く、描く。描いているうちに、急に曇ってきた。それでも一心不乱に描く。描く。
 午後、雨になった。もう少しで下書きが終わろうかという所だった。画布が濡れる。容子は構わず描き続ける。
「あと二十分待ってくれたら、傑作が描けたのに」

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【短編小説】秋、即身仏になりかけた女

 ――秋。
 今、わたしの頭の上に、一つのトマトが乗っている。ミニトマトではなく、トマト。一般的に市場で見かける赤くて大玉の、〈桃太郎トマト〉。岡山県産。
 それから左耳の穴にはインゲンが三本突き込まれており、右耳の穴には四本のインゲンが突き込まれている。ドジョウインゲン、あるいはサヤインゲン。つまりインゲンと聞いてだいたいの人がまず思い浮かべる筈の、いわゆるインゲン。千葉県産。
 口には群馬県産

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