【短編小説】花の荷車の女3/3

 そのようないきさつを経て、荷車の女・容子が予定のデッサンを始めた時には、空は、青く高く晴れ渡っていた。三つ叉のアメリカスギノキを遠景に、夢見の丘にたたずむ花の荷車を描く。描く、描く。描いているうちに、急に曇ってきた。それでも一心不乱に描く。描く。
 午後、雨になった。もう少しで下書きが終わろうかという所だった。画布が濡れる。容子は構わず描き続ける。
「あと二十分待ってくれたら、傑作が描けたのに」
 
 というのは、嘘だと自分で思った。
 仮に後二十分雨が降ってくるのが遅かったとしても、話は同じ。駄作。
 駄作だと自分で分かっているから、ビニールで覆えば濡れるのを防ぐことはできたのに、そのビニールはちゃんと荷車の端っこに準備して来ていたのに、それを用いず濡れるに任せ、面白くないこの絵が駄目になったのを雨のせい、ぐずぐずと公転していたあの二十分のせいにしようとしていたのだ。描く、描く、描く、などと、一心不乱を装ってはいたが、全然一心不乱なんかではなかった。ふり。一心不乱のふり。それはそうだろう。一心不乱の者が何で公転なんてするものか。
 二重三重どころか、少なくとも五重くらいにはポーズとふりとスタンスを装って、自分に対して嘘をつき、絵に対して、それは今回の一枚についてというよりは、絵という概念そのものに対して嘘をつき、何か違う何か違うと思いながら一心不乱を装って、今にも自分で大きく「×」を画布いっぱいにつけたい気持ちだったのに踏み切れず、空が曇り始めた時にもそれに気付かぬくらい没頭しているのだというふりで、本当は雨が降り始めるのを心待ちにしていたのではなかったか。そうして雨がぽつぽつと降り始めた時にも、すぐにビニールで画布を覆えばいくらでも絵を守ることはできたのに、雨が完全に今回の一枚を駄目にしてくれるまで、敢えて待ったのではなかったか。
 ――不可抗力。
 自分は最後まで戦ったが、――天が味方しなかった。
 ということにしようとしたのではなかったか。
 もう雨はざざ降りに降っている。画布も、容子自身も、荷車も、びしょ濡れだ。どうやら遠くで雷まで鳴っている。
 画布はぐずぐずになって、しわしわになって、今にも描き上がろうとしていた筈のデッサンが、全面的ににじんでいた。容子はまるで呆然としてのように、そのにじんでゆく様を眺めていた。放心しているふり。茫然自失の態。またふりだ。ポーズだ。スタンスだ。
 いつもそうだった。人に対しても、自分に対しても、絵に対しても、嘘ばかりついて来た。だからみんな離れていったのだ。だから自分で自分のことが嫌いなのだ。だからろくな絵が描けないのだ。どうでも良い他人の目やら、嫉妬やら、下らぬことばかり気にして、そもそも絵を描きたいと言うこと自体がポーズなんじゃないか。
 歯牙にもかけぬと、本当に歯牙にもかけない人は言わぬ。思わぬ。
 どうだっていい! などと、本当にどうでもいいなら言わぬ。思わぬ。
 土が跳ねる程の集中豪雨の中、容子は完全に駄目になった絵を脚立ごと全力で荷台に叩き付けた。「ゴミは持ち帰りましょう!」荷車自体がもはやゴミの塊だった。「それを引く私もゴミなんだわ。ゴミにゴミをぶちこんでゴミが引いて歩いてるんだわ」
 ところで、人を嫌い、自分を嫌い、最後にこれだけはとすがった絵を諦めるなら、いったい何のために私は生きるんだろう。そのように思いながらずぶ濡れの容子が荷車を引いていると、ちょっとした屋根のあるスペースに、先ほどの男と女とがいた。どうやら雨宿りをしているらしい。屋根の下のベンチに腰掛けて、タオルで身体を拭き合っている。実は容子も、この屋根のあるスペースで少し雨宿りをするつもりでここを通りがかったのだったが、さっきあんなにも理不尽に峻拒した手前、気まずかった。ああ、気まずいとか、まだそんなことを私は言っている、ふふ。重傷ね。人を嫌い、と言っておきながら、この期に及んでまだ人の目ばかり気にして。淀んで腐った自意識が魂にこびりついて捨てられないんだわ。お笑いね。ありのままを見て欲しいとピエロが言っているようだわ。ふ。ふふ。
 と悲しく笑っているうちに、ふと、本心から、さっきはあの女にひどいことをしたと思えてきた。花売りと勘違いして、花を買いたいと言って来ただけだったろうに、「売らない」あんなぶっきらぼうな断り方をして。申し訳ないことをした。
 申し訳ないとか、そういうことももうどうでも良い筈のような気もするのだが、本当にどうでもよいのなら申し訳ないと思うのもまたどうでもよい。というような一切が今は真にどうでもよかった。どのみち私は「本物」ではないのだから。どうせ紛い物であるならば。
 容子は、荷車の中から最も傷みの少ない数本の茎を選び取り、女と男のもとへ歩いて行った。先ほどのことがあるので、女の方でも目を逸らすようで、しかし逸らしているのだと明確には伝わらないような逸らし方で、要するに気まずそうにしている。
「これ、良かったら。さっきはごめんなさい」
 と容子が言うと、
「あ。ありがとう。いいの? っていうか、私達の方こそ、勝手にお花屋さんだって勘違いして、失礼なこと言っちゃったかなって話してたんですよ。ねえ」と女は隣の男にも同意を求める。男はうんうんと頷いて、すみませんでしたねというような意味のことを言っている。
「いえ、それはいいんです」
 と容子が茎を差し出しながら言うと、
「ほんとうに貰っちゃっていいんですか?」
「どうぞ。だってこれは、・・・・・・」
 
 というようなやり取りをしている内に、何で自分は今こんな女と、こんなたわいもないやり取りを始めたのだろうか? という思いが容子の胸の内に湧いた。憎悪している筈ではなかったか? 男を。女を。人間を。なのに、花屋と勘違いしてきた女に対して、あべこべにこっちから謝って、つぼみのついた茎を、なに、プレゼント? しようとしている・・・・・・。というか、男の雰囲気が賢治に似ているのは気のせいだろうか。急に、全て、嫌になった。 
「これはゴミ」
 低く呟いた。
「え?」
 と女と男が同時に言う。・・・・・・小さな顎を、容子は、こじ開けた、
これはゴミ! 咲くもんか! 私は物売りじゃないしこれは売り物じゃない、私はこれをここに捨てに来ただけ! 咲きやしない! 大嫌いだよ!
 絶叫、茎とつぼみのひとつかみ、女の足もとに叩き付けていた。
 雨音だけが続く。いや、雷鳴。二度。
 男も、女も、周囲の雨宿りの者達も皆、奇異なものを見る目で容子に注目していた。その時、
 「ホサナ」、と鳴った。それは容子の口の発する音だった。これなのだと、容子は更に目を見開いた。来た来た来た来た来たビンゴ、これだったんだ、私の生きる道。いっそ、突き抜けてしまえば、その突き抜けたところに、私の場所がある、あった。ほら、「シャングリラ」 みんなが畏怖の目で私を見てる。とか、そのみんなの目を、もはや私は知らんぷり、じゃない! 「ぷりじゃない!」 本当に知らないんだ。生き様と死に様と、全部決まった見つかった、これが私だった、これが私だ、雨の濡れの上からでも今度ははっきり分かるほどの量の涙が溢れてきた。声が漏れそうになるのを抑えたのが嗚咽になって口を手で押さえても次から次に溢れて止まらない。止まらない。ぴゅう。ぴゅう。と、若緑色の液体が指の隙間から吹きこぼれる。自意識というものがいわゆるゲロとして吐き出されてゆく。ぴゅう、こぼ。ごぼほ自意識の溶け込んだ胃液が食道から口腔へ一本の太い綱として吹き上り、こぼれて、溢れて、続いてうぬぼれのアナコンダが一頭、更に鼻と耳からは無数の虚栄心の青うなぎが無数の嫉妬のハモと共にのたくりながら、全て、すべて、放出されてゆく。それらの蛇とうなぎとハモが絡み合って合体して黒い龍になって周囲に鱗を撒き散らしながら空へ昇ってゆく。要らないものが天に返ってゆく。そして地上にはただ容子だけが立っている。が、瀕死。既に容子の身体は瀕死。瀕死だが、初めて、生きている。女と、男と、周囲の者どもがざわめき立っている。スマホを取り出すものがあった。悲鳴を上げる者もあった。
 寄せては返す嘔吐の波にキジ鳩のように上体をメトロノームさせながら、容子は屋根から出て、再び荷車の取っ手を握った。ぎゅっと握った。土砂降りに鱗のようなあられが混じった。荷車とそれを引く容子を棒か杭のような水と氷がぶちぶちと打って、ぽうっと飛沫が立ち、荷車と容子の輪郭をこれでもかと縁取った。遅れてけたたましい雷鳴。なんて悲しいかたつむり、「どうせ孤独のエスカルゴ」などと呟く者では、既にない。だって無我だから。
 荷車とそれに山積みになった花と茎と葉と容子はその一筆描きのような縁取りの内で今不可分の有機体だった。そのようにして容子は荷車の女だった。「ああ雨が淀んだ自我の残滓まで洗い流してくれるようだわ」、などとも、もう絶対に呟かない。だって虚無だから。
 ただ事実として吐瀉物の残り滓が歯やベロに残って気持ち悪かったので、仰向いて口を開けた。その小さな穴をすぐに雨と氷は満たしたので、ぐじゅぐじゅ「ペッ!」。

 ※2021年5月1日午後、23区西部地域における、大粒のあられを伴った記録的な豪雨の日、気象衛星ひまわりが、東京地方上空における普通では考えられないような雲の様子(通常とは逆向きの渦と北北東に向かって伸びる不自然な雲のねじれ)を捉えている。
 この気象現象についての公式見解は、「プラズマの異常発生によるもの」。
 気象庁はそのホームページにおいても、会見においても、「龍」という言葉を、一度も使わなかった。


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