【短編小説】れもニキ2/5

 翌日も大八木抄造は一日中図書館で、うかりそうにない国家資格の勉強をして、それでも一応一生懸命にはやったので、脳がぱんぱんになった。夜にはまた例の公園のベンチに座っていた。夜気に当てて、疲れを取るのである。この時間が今の抄造には唯一の安らぎなのだ。
 この時、虫を泳がせてぐるぐるの視野の右端に、すうっと、滑り込んで来るものがあった。
 自転車であるらしい。
 運転しているのは、七十代くらいに見える男性だった。抄造は虫で世界を汚して遊んでいる時の自分が、傍目にはどのように映るのか、ということくらいは心得ている。目を動かすのも独りごとを言うのもちょっとやめて、自転車が通り過ぎていってくれるのを待つことにした。
 やがて自転車は抄造の前まで来て、止まった。七十代と見える男性は、じっとこちらを見ている。抄造はうっとうしく思った。他にもいくらでもベンチならあるのに、何か文句でもあるのだろうか。
 抄造は足を組み換えて、スマホを取り出した。【どきません】という意思表示として。
 それから更に二分後、男性は抄造に何かを言った。声がこもって、しかも小さく、何度か聞き返すうちに、結局、
「そこでざりがにを釣りたいんで。申し訳ないんだけど、ベンチを譲ってもらえないでしょうか」
 という主旨のことを言っているのだと把握できた。
「ザリガニですか。へぇ。こんなドブで釣れるんですか」
 と抄造は立ち上がりながら言った。
「入れ食いだよ」
 と男性は言った。
 抄造の立ち去り際にもう一度、
「すみませんね」
 と男性が言った。抄造は曖昧に首を前に出して、帰宅した。
 
「それならそうと早く言えば良いものを、じっと黙って見てくるというのは・・・・・・」
 
       ※
 
 そんなことがあった翌日の夜に、抄造はファーストフード店に立ち寄った。混んでいて、注文カウンターには十人ほどの列ができていた。抄造の前には女が並んでいた。膝の辺りで脚を左右クロスさせている。くるぶしまでの短い靴下を履いている。靴下の色は黄色だった。靴は空色だった。交差した膝と膝裏をすり合わせて、微かに音を立てていた。その剝き身の輝きに、抄造は例の虫を滑らせて時間を潰していたのだが、いよいよ次は自分の番だという時になって、女が、何やら柔らかそうなものを落とした。ブルーや赤やピンクといった色合いの、楽しげな虹のようなタオルは注文カウンターに一歩踏み出そうとしていた抄造の目の前・足もとにふがいなく落ちたのである。 女はそのことには気付かずに、抄造のわきを通り過ぎて行こうとする。――その時、どこからか、
 おおおぉぉぉ、
 やわらかな、それでいて鋭いような、笛の音が、
 聞こえてきた。
 それは抄造の喉が鳴らす音だった。
 おおおぉぉぉ――
 ――おおおぉぉぉ
 どう声をかけていいか、分からなかったのである。結局抄造の後ろに並んでいた大学生かフリーターかホストか知らぬが少なくとも力士ではなさそうな一団の一人の男が、
「落としましたよ」
 と女に声をかけ、女が気付いて戻って来ようとする。抄造は迷ったが、あからさまに自分の足もとに落ちているので、これを踏み越えてカウンターへ向かうわけにも行かず、かと言って棒立ちでいるわけにも行かず、膝を曲げた。震える指で、虹色のタオルを拾って、女の方へ差し出した。ちらっとその女の顔を確認した。意に反して知性的なまなざしの女だった。軽蔑されたいと思った。女はタオルを指先で――中指と親指で、つまりキツネのなりかけで、端っこの方をつまみ、微かにこく、と、頭だけ下げて、連れの女の方へ小走りで寄って行った。まるで汚い物でも取るような、指の形だった。あれは汚いタオルだったのだろうか。それとも床に落ちたから汚くなっているということだったのだろうか。
 笛の音が耳にこびりついてその夜は眠ることができなかった。
 

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