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2023年 秋の香川 その2

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 はじめに通りかかったお遍路さんはカナダ出身、ニューヨーク在住のファッションデザイナー、船上でのショーの衣装を作っているそうです。一か月前に四国にやってきて、それからこの第七十八番目の巡礼地(「第七十八番札所」という)に辿り着くまで歩いて遍路をしている。

 歩いての遍路はとくに「歩き遍路」と呼ぶ。といって、「電動アシスト自転車遍路」とか「ガイドバスツアー遍路」などの呼称は聞かれなかったので、「歩き遍路か、そうでないか」という見方なんでしょうか。つまり歩き遍路という元来的で最もまっとうな「強い」遍路とその他、というフレーミングがなされているのか、あるいは単に、歩き遍路に対してしか「お接待」がありえないので、日常の便利として非対称的な呼称が発生しているのか。

 遍路に出るならはじめに、百枚ひとつづりで売ってる札(納め札・おさめふだ)を買って、一枚一枚に自分の名前と住所と願い事を書く。これを各地に奉納したり、お接待をしてくれた人にお礼として渡したりしながら巡礼していく。初心者の納め札は白い。遍路の回数を重ねれば重ねるほど、お札の色が変わっていく。五巡目からは緑色、八巡目からは赤色になる。そう、八十八か所もの徒歩巡礼にかかる日数は最低でも50日といわれているが、これを一生のうちに、何度も何度も行う人がいるのだ。
 僕が居合わせたお接待スペースには、これまでお礼として渡されたてきたお札がたくさん溜まっていた。このなかで最も豪華なものは布製、錦織のお札で、これは126巡目の人が置いていったものだ。126巡て、えらいことやなあ。

「そうなのよお四国病っていうのよお、もうね、七十八番目ともなるとゴールまであと少しでしょう? そうするとみなさんね、お遍路が終わるのがさみしいさみしいっていうのよお、それでまたはじめるのよお。ここはすごいところなのよ、ねえ、いろんな人が来るのよお」

 お接待のおばちゃんはとにかくパワフルで、大袈裟でなく毎秒ごと、遍路の道をちら見する。遍路さんがこないか、いつくるか、休まず常に待ち構え続けている。彼女にとってお接待はまさに生きがいで、この生き方が、幼い頃からの夢だった。

 香川県綾歌郡宇多津町、が当時の地名だったかはわからないが、彼女はこの土地に生まれ育った。いまは住宅街として開発されている、駅の北側の一帯には当時まだ塩田が残っていた。そこで働いている人は「奴隷労働だ」なんて言葉を口にするほど肉体的に酷使される。暑いなか炎天下、一日中裸足で海水を運び続けるのだから肌はぼろぼろになる。満干時の潮位の差を利用して塩田に引き入れた海水を、動かしたり、撒いたり、砂をかいたり、一日ずっと仕事をする。そのうち、竹で組んだ構造物に対して、ポンプで汲み上げた海水をかけるというやり方に変わった。海水は竹を伝ううちに水分が蒸発していき、べたべたになり、さらに乾くと塩がぽろぽろとれるようになる。作業の過酷さは少しやわらいだようだったが、一日ずっと外で裸足で塩にまみれるのに変わりはない。

 塩田は季節労働なので、専業でやるようなものでもなく、かつ前述どおりきつい仕事だったから、やらないですむようになったらたちまち誰もやらなくなる。戦後開発された「イオン交換膜製塩法」により塩田はなくなります。それで、まあ土地は、いまみられる宅地の開発につながっていったわけです。

 <戦争が終わってようやく戻ってきた日本だが、空襲のせいで身寄りが絶えている。家のあった場所もただの焼け野原になっている。帰るところがない。>そういう人でも、四国にいけば、最低でも五十日間は飢えずに済む。……それが戦後の「お遍路」だった。この遍路を接待していた祖母の姿を見て、私もいつかはああなりたいと、子供心に思ったのだという。(しかし母はその感覚ではなく、祖母のお接待に対しても、特別応援する様子ではなかったという。)
 京都の短大に通った二年を除いて、香川を離れたことはない。まだ瀬戸大橋はないから、京都に行くにはとにかくまず船に乗った。船の別れはいつでも悲しい。なぜなら、見送る側も見送られる側も、いつまでも相手の姿が見えている。だんだん小さくなっていくお互いの姿を見つめていると、お別れなんだな、という感じが痛い。それも、海という、圧倒的で雄大で無常なものを背景にしたシーンである。そして船の鳴らす笛の物憂げな響き。京都にむかうたびに見送りにきてくれた母が涙しているのを思い出せば、いまでも涙が出てくるのよお、と、お昼ごはんとして作ってもってきた自作の焼うどんを食べながらおばちゃん。おむかいの家のおばちゃんがきて、「これお遍路さんにあげ」と小粒のみかんと干し柿をくれる。

近所では祭りの準備、おみこしが用意されている

 二人目のお遍路さんは神戸からの若者で、どうして遍路をしているのかの話を尋ねるのは「踏みこみすぎ」のきらいがあるために基本的にやらないけれども、若い人もそれなりにいるらしい。軽いノリで日帰り国内旅行を楽しむといった人もいなくはないが、しかしやはり歩きお遍路をわざわざするのは百パーセントのレジャーにはならないだろうから、ストーリーいっこ乗っかってるはず、みんな。たとえば先日、リトアニアからやってきた人は、「中学生のころから、杉原千畝の国にいつか行ってみたいと思ってきた」と語ったという。杉原千畝が祖母を助けたので、いまの自分の命がある。そう思うと、日本という遠国が他人ごとではなくなってくる。

「そうなのよお、ここにいるとね、みんないろいろあるのよお。お遍路さんとお話ししてるとね、人間誰もが、どこかに悩みや迷いを持ってるってね、そういうことがわかるのよお。国とか年齢じゃないのよお」

 おにいさんと同様、次いでやってきた大阪の人も「刻み遍路」で、これは、八十八か所を一回ですべてまわりきるのではなく、行けるときに少しずつ少しずつスタンプラリーしていくやり方。まあ、現実的です。
 だって旅費も持っているし、50日も仕事を休めるし、という状況にいられる人ってかなりレアである。「とりあえず四国にいけば50日は飯に困らないので、帰る場所のなくなった人が、この先の生き方を考えながらしばらく過ごす」の戦後の歩き遍路はいまや、事情と覚悟を背負って貯金してきた人のものであるほかに、自然派小金持ちによる質素という贅沢でもある。無農薬野菜のほうが高いのと一緒。内定獲得後の若者がめぐってくることもあるというが、現実的な事情もあわせてのことでもあるだろう。働きはじめたらできなくなるから、学生時代の貯金で冒険するんだな。

 たとえば江戸時代だと、なにせクニを出るのがまず簡単じゃなかった。ですのでその時代の遍路は、個人による個人のための遍路ではない。ムラの期待を担った代表者による代理旅行で、この人の見聞し体験したことがいずれムラに持ち帰られて、知的な財産として登録されるわけだ。遍路してるときに出会う人は同様の事情で全国からやってきている人でもあるから、日本じゅう津々浦々、どんな暮らしがあるのかを垣間見る機会ともなっただろう。代表者が持ち帰った情報をもとに口コミあるいは都市伝説的に集積された「遍路のマナー」を、実際に遍路に出たかどうか関係なく、ムラの長老なんかがおさえてるわけだ。で、新しく旅立つ人に教えたりする。「人に頼れることはなるべく人にしてもらうし、自分でしてやれることはなるべくしてやる、それが遍路だぞ」といったように。

 杖にはその人の名前や住所が書いてある。行き倒れになった場合に、杖の情報を参考にして故郷に死体を引き渡せるように。もし住所が書けないなら名前だけでいい。そしたら、埋めた場所に杖を墓標として刺してもらえる。

近くのうどん屋の大行列

 フランス人夫婦が興味をもったきっかけは、「ジャパニーズ・コンポステラ」を紹介するテレビのドキュメンタリー番組。渡したもみじまんじゅうを食べながら「これはフランスのなんとかっていうお菓子に似てる」と教えてくれるが、聞き取れない。
 道を急ぐから、という理由で、「休憩していかれませんか?」の話しかけを遠慮される方もいるが、そういう人には「これだけでも」とみかんを渡しました。

 一日ずっとその場にいて、お遍路さんがいる時間はそう多くない。おばちゃんと二人で話をする時間の方が多い。合間合間に、会場の片付けや設営を行う。

 そのうち、おばちゃんの「うちの人がくるのよお」との予言どおり、両手に杖をついたおじいちゃんがやってきました。一度ガンを治療したら二十年と再発しなかったのに、急にまた出てきて、ガンというのは同じ治療法をやれないものだので、愛媛のがんセンターまでわざわざ入院しにいって、そんなこんなで再発と治療とを繰り返すうちに弱っちゃって歩くのも難儀になって、しかし歩かなきゃ体が弱るばかりだから、おばちゃんがお接待しに来ているときは、必ず立ち寄りにくるのだという。いよいよもうだめかもしれない、という夜が何度かあった。そのたびにさみしくて仕方なくなって、けれど、そのたびに「うちの人」は戻ってきてくれた。「これも大師さまのおかげなのよお」繰り返すおばちゃんの姿に、神や仏ではなくて、「大師さま」が支えのまんなかにいることを感じる。長崎・天草の潜伏キリシタンの支えがイエスでも神でもなく、マリアであることを連想する。

 病気になっても家ですることなんてのはだいたい同じなのよ。食べて寝て、笑ったりして。けどずっとこもってると参っちゃうから、いろんな人と話の出来るこのお遍路お接待あってこそ張り合いもうまれて、ありがたいありがたい。夕暮れになって、スペースに入り込む光の鋭さやなつかしさ、眩しさやあったかさが大きく変わる。このあとの予定があると断って、おばちゃんを残し、ひと足お先に失礼する。

 高松に戻る電車に乗ったはずが、窓の外っちゅうか下に、海がひろがっています。たくさんの島のある穏やかな海。瀬戸内海には、人の住んでいないのもあわせると700もの島があるんだという。少し大きめの島には、工場や倉庫の影がみえる。

瀬戸内海


 景色は楽しみつつも「あーあ」と思って十五分二十分、岡山県に着きました。駅で半時間ほど待って、逆方向の電車に乗って、香川に戻る。再び、瀬戸大橋の真下から瀬戸内海を見下ろして、見送って、や、見送られて、ようやく高松に辿り着くとまずうどんを食べる。それから、いっぷう変わった書店を訪れる。

 店の名は「なタ書」(なたしょ)。高松でもう17年営業している、完全予約制の古本屋さんで、この情報だけでも「ただものじゃない」感があるが、しかし、なタ書にむかったのは、クセのある本屋にいくためではなく、その本屋に、ある人らがやってくるという話を聞きつけたからだった。
(つづく)

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