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自分だけの10冊の本の見つけ方


はじめに

 2024年になってから、一日一冊は本を読む生活を続けた。
 100冊を越えたあたりから、何かが変わってきた。
 具体的に言うと、言葉が頭に入ってこない。読んでも読んでも、どれも似たり寄ったりに感じられる。

 これはどうしたことだろうか?

 不安を覚え、いったん、読書をやめてみた。その代わりに、散歩をしている最中、いろんなことを考えた。自分の読書に対する姿勢。なぜつまらないと思うようになったのか。何が変わってしまったのか。
 そこではたと、思いつきが浮かぶ。仮説であり、自分自身への提案のようなものだった。

 人生には10冊の本があれば十分じゃないだろうか。

 なぜこんなことを思ったのか。思考の源泉を辿ると、ロルフ・ドベリの『Think clearly』に遡る。これを読んだのはもう数年も前になるけど、そこで確か、本を読むのは年間で10冊程度、というような話をしていた(手許に本がないので、うろ覚えだけど)。
 ロルフの主張は、要するに、本はたくさん読むのではなく、良著を何度も読むほうがよい、ということである。彼は良い本を再読するのを薦めている。それは僕も実感するところだ。良い本はどうせ、読み返したくなる。そのときに手許にあればよい。
 年間で10冊の本に絞る、というやり方を、ロルフは提案していた。それも悪くない。しかし、僕はふと、頭の中に10冊の大事な本がしまってある本棚をイメージした。
 いわば、10冊の本は自分の脳と同じである
 何かを書くとき。考えるとき。話のネタを拾うとき。様々な場面で、僕らはその10冊の本を基盤にして、物事を考える。思い出してみてほしい。なにか物事を考えるとき、ふと思い浮かぶ本は、せいぜい10冊が限度じゃないだろうか。もちろん、芋づる式に、いろんな知識は引っ張り出せるだろう。けれど、思考の基礎。自分というものを形作るのは、多くても10冊くらいじゃないかと、ここにきて思い至った。
 よくある言葉で表現すれば、それは聖典(バイブル)だ。
 誰しもが、固有の10冊の聖典を持っている。それがどう変化し、どう使われ、どう入れ替わるかで、その人自身が変わっていくのだ。

 誤解してほしくない。たくさん読むのを否定するつもりもないのだ。むしろ、たくさん読んでほしい。特に最初こそは。
 そうしなければ、きっと10冊の本にも出会えない。
 10冊の本を見つける方法は、様々だろう。そのうちの最初の一歩が、たくさん読む、だと思う。


10冊の本を見つける方法1 たくさん読む

 本を読むことで、経験値が積まれる。1冊読むごとに、その本に設定された経験値を手に入れる。
 最初はレベル1から始まった僕らの読書人生も、経験値を得て、レベルアップしていく。レベル1から2へ。2から3へ。そのうち、レベル30や40まで到達するかもしれない。
 ゲームに馴染みのある人ならわかるだろう。レベルアップしていくに従って、敵も強くなる。経験値をもらっても、すぐにレベルアップとはいかない。より強敵を倒していかなければ、レベルアップも容易にはできないのだ。
 これを本に例えてみよう。最初はささいな本でも、面白く感じる。今までにない経験だからだ。経験値をもらうと、すぐにレベルアップする。でも、次第に物足りなくなってくる。これは読書経験が豊かになって、同じような本では満足できなくなってしまったからだ。いわば、少ない経験値では、まったくレベルアップできなくなってしまった。
 となると、方法はひとつ。より良い本を求めることだ。
 良書という呼び方があるが、それである。
 ちょっと難しいくらいの本が良いかもしれない。今の自分で、理解できるだろうか? そんな風に感じるくらいの本があれば、きっと読破したとき、経験値は豊富に得られるだろう。


10冊の本を見つける方法2 手に取って厳選する

 10冊の本を見つけるには、ただ読めばいいってものでもない。まず厳選する必要がある。それは、主に2つのパターンに分かれる。誰かを参考にするか、自分で選ぶかだ。
 誰かを参考にするパターンは、要するに紹介されている本だ。大好きな人、尊敬する人が、これは面白いと各媒体で紹介しているような本。自分の好きな人が紹介しているのだから、琴線に触れる可能性は高くなる。それを読む、というのが王道だ。
 しかし、個人的にはぜひ書店へ行って、自ら手に触れて、「これは面白そうだ」という本を選んでもらいたい。なぜなら、それが今のあなたの経験値に即した本だからだ。
 ぱらぱらと最初だけめくってみる。目次、冒頭、途中をちらっと読んでもいい。先が気になったり、ぜひ読んでみたくなったら、しめたものだ。ちょうどよい本を見つけたのである。
 他人に選ぶ権利を譲渡した場合、このちょうどよいが失われる可能性がある。もちろん、見ず知らずの人が選ぶわけではないから、まだマシだ。それでも、書店へ行って、手に取ってみて、ぱらぱらとめくる。この過程を経て、それでも読みたくなったときこそ、買ってみてほしい。
 その感性、記憶も含め、その本は10冊の本に加わるかもしれない。もちろん、読み終えて、期待と違う場合もある。その時は、10冊の本棚から省けばいいのだ。いったん、付け加えておいてもいい。いつでも、10冊の本は入れ替え可能である。
 大事なのは、時間をかけて選ぶこと。書店へ行くと、「○○で紹介された大絶賛本!」「○○ベストセラー入り!」「映画化決定の超話題作!」みたいなPOPがいたるところに見られるだろう。もちろん、それを読んだっていい。POPそのものに罪はない。むしろ購買意欲をそそるという点では、すばらしい働きをしてくれている。
 しかし、踊らされてはいけない。もし自分にとって10冊の聖典を見つけたいなら、あくまで手に触れ、めくってみて、琴線に触れるものを探さなくては。このとき、焦るのは禁物だ。1時間、2時間と書店にいてもいいから、普段は行かないような本棚を見てみる。
 無意識に身を委ねる。自分が読むべき本を一番よく知っているのは、自分だけだ。きっと「あれ?」とか「ん?」となって、手に取ってみたくなる本があるはずだ。それは10冊の本の候補になる。家に持ち帰り、読んでみて、ぜひ聖典に加えたいと思ったら、ぜひ本棚に置いてほしい。そうして、思考の基盤が作られていく。


10冊の本を見つける方法3 精読&再読する

 よく小説家になるために大事な要素として、「よく読み、よく書きなさい」と言われる。一部の小説家は、「作家になるためには最低でも1000冊は読まないといけない」と信じて疑っていない。
 これは、絶対ではない。事実、あまり本を読まずに小説家になった人もいる。自身が読書家でないことを公言している作家としては、まず思い浮かぶのは、森博嗣だ。彼は、むしろ本を読むことは、その影響下で劣化版を生み出してしまうと、危惧している。

人の作品を研究したことで生まれる作品など、たかが知れている

『小説家という職業』森博嗣

 もちろん、これは極端な例だ。実際、森博嗣も、1冊も本を読まないわけじゃない。
 2008年の情報にはなるが、『一個人』というKKベストセラーズから発行されている雑誌の特集記事で、このように述べていた。

基本的に再読はしないので読んだ本はとっておかないんです。だから、本棚もありません。雑誌には数十冊ほど目を通しますが、小説は年に3、4冊しか読めないんですよ。一冊読むのに2~3週間はかかりますから、書くのと同じくらいの時間がかかっていることになります

『一個人』(KKベストセラーズ)特集記事 森博嗣

 これを読んでもらうとわかるように、森博嗣は小説を、実にじっくり読んでいる。
 いわば、精読である。
 まったく読まないわけではないが、一冊一冊を、じっくりと、ゆっくりと読み込んでいく。そして、読んだものを読み返すのは、ごく一部の本に、限られている。
 そういう姿勢は、10冊の本を厳選する上でも、大切である。
 精読のような態度を貫いている人を、もう一人知っている。森博嗣と同じく小説家の保坂和志である。
 彼の『書きあぐねている人のための小説入門』には、小説とはどうあるべきか、自分がどう考えているのか、その価値とは──といったような、多くの思索が述べられている。その中の一節。

価値観がいっさい揺るがない小説だから「一気に読める」。

『書きあぐねている人のための小説入門』保坂和志

 保坂は「一気読み」できる小説を、あまり快く思っていない。もちろん、そういう本があってもいいだろう。しかし、本来は小説というのは、その人の価値観を揺るがすし、新しいがゆえに、そう簡単には読めるものではない。

本来、小説とは新しい面白さをつくりだすことで、そのためには「面白い小説とは何か」ということを常に自分に問いかけながら書かれるべきものなのだが、そうして生まれた新しい面白さというのは、新しいがゆえにそう簡単には読者には伝わらない。

『書きあぐねている人のための小説入門』保坂和志

 あくまで保坂の価値観だ。が、少なからず共感は覚える。10冊の本は聖典だ。となれば、何かしら自分の心が「揺るがされた」本に、自然と限られてくる。揺るがされたとは、良い意味でも、悪い意味でもだ。
 だから、じっくり読み込みたくなる。読み返したくなる。そういう本については、常に頭のなかで反芻し、巡ってしまうだろう。10冊の本とは、そういう領域にある。
 再読することで、それまで大した意味を持っていなかった本が、自分のなかで特別になることもある。たとえば10代に読んだときは、ほとんど記憶に残らなかったのに、30代になって読み直し、新たな視点を獲得し、10冊の本の仲間入りをするかもしれない。
 精読と、再読。つねに自分のなかに、何か巡るものを抱えておくこと。10冊の本は、そうして発見していく。


10冊の本を見つける方法4 人間のように本と付き合う

 10冊の本は自分の脳だと言った。つまり、いつでも頭の中には10冊の本があって、本棚に収まっているのだ。
 大事なのは、その本棚に収まった10冊の本と、人間のように向き合い、じっくりと、ゆっくりと付き合っていくということである。
 10人の友人がいて、彼らとの付き合いはそれぞれの期間だけある。10年来の友人もいれば、まだ知り合って半年や数ヶ月の友人もいるだろう。しかし、少なくとも彼らは単なる知り合いではない。彼となら仲良くなれるかも、と思って、本棚に収めた大事な友人たちなのである。
 本の著者を人間と理解し、じっくり付き合っていくべきだと話したのは、フランスの文芸批評家で読書の達人として知られるサント・ブーヴだったらしい。小林秀雄の『読書について』というエッセイに、その言葉が綴られている。

〔…〕故人になった著者でも同様だ。読め、ゆっくりと読め、成り行きに任せ給え。遂に彼等は、彼等自身の言葉で、彼等自身の姿を、はっきり描き出すに至るだろう。

小林秀雄『読書について』

 本を読むというのは、一筋縄にはいかない。すぐに底が知れる本もある。浅い付き合いで終わるものもある。けど、10冊の精鋭たちであれば、一朝一夕でどうにかなるようなものでもない。
 ときに喧嘩するだろうし、今までに知らなかった事実を知って、仰天することもあるだろう。それは、人間との付き合いそのものだ。
 小林秀雄自身も、こう言っている。

〔…〕他人を直かに知る事こそ、実は、ほんとうに自分を知る事に他ならぬからである。人間は自分を知るのに、他人という鏡を持っているだけだ。

小林秀雄『読書について』

 他人と向き合うこと。それは読書においても同じだ。そして人間関係につきものなのが、時に別れも経ることである。
 10冊の本は、一度決めたらそれを揺るがしてはならないわけじゃない。固執する必要はない。いつでも、入れ替え可能である。
 それまで楽しかった友人関係が、崩れてしまうことだってある。
 一度崩れてしまった人間関係が、元に戻ることもある。
 10冊の本は、「もうこの本は外してもいいな」と思えば省けばいいし、逆に他人から見るとものすごく底の浅い本に見えても、「この本が僕は好きなんだ」と思えば、加えたって構わない。
 人間関係のように、本ともじっくりと向き合っていく。10冊の本は、そうした付き合いを経てこそ、見つかるものだ。


10冊の本を見つける方法5 ジャンルにこだわらない

 10冊の本は、どんなジャンルの本だって良い。極端な話、小冊子とか、料理本だって、10冊の本に入る。絵本だって良い。大事なのは、その本を自分の脳内の本棚に収納したいかどうかだ。
 小説、詩集、自己啓発本、ビジネス書、料理本、画集。世の中にはたくさんの本が溢れている。その中でも、この本は手放したくなくて、いつでも頭の中の思考を形作ってくれるものを選ぶ。
 ジャンルにこだわらないからこそ、10冊の本棚は自分特有のものになる。たとえば詩集と、画集と、料理本と、自己啓発書がある。すると、思いも寄らない化学反応が起こる。
「この料理本は、こっちの詩集で言うところの、○○みたいなものだ」というように。その紐づけられた感覚は、他人ではありえない。自分特有の本棚だからこそ、閃き、腑に落ちるのだ。
 たとえば僕は、山尾三省の詩集『火を焚きなさい』を持っている。この中に、こんな詩がある。

『じゃがいも畑で』

じゃがいも畑の畝にかがんで 草を取っていると
土が無言であることがよく判った
土は無言で じゃがいもを育て 雑草を育て
私に語りかけていた
私も無言でその語りかけに答えていると
静かな幸福が私達の間に流れた

僕は この人生で自分が幸福であれるとは思っていなかった
今でもそう思っている
幸福は僕のものだけではなく 神々のものであった
けれども
じゃがいも畑の畝にかがんで 草を取っていると
土が無言の幸福であることが よく判った
土は無言で じゃがいもを育て 雑草を育て
私を育てていた
そこには 私という不思議な幸福があった

山尾三省『火を焚きなさい』

 当初は、単なる自然の良さ、土の手触りと時間の関係を綴った詩に思えていた。けれど、同じく10冊の本の中の『スマホ時代の哲学』(谷川嘉浩)を読んだとき、シン・エヴァの加持リョウジが畑いじりをして、それを〈趣味〉だと論じた記述を読み、得心がいった。
 山尾三省の綴った詩の、幸福とは、そういうことだ。自分自身との対話なのである。その良き孤独が、幸せな感じを、僕らに教えてくれる。あの詩は、それを謳ったものなのだ。
 もちろん、これは解釈に過ぎない。色んな解釈がある。が、その解釈そのものが、ジャンルにこだわらず、10冊の本を厳選することによって、生まれてくるものなのだ。
 だから、何でも興味があれば読んでみるといい。10冊の本を、加えたり、入れ替えたりしているうちに、いずれ「あ!」と頭に閃きが訪れることだってあるはずだ。それは、何物にも代えがたい幸せである。


おわりに

 これまで、10冊の本の見つけ方についてあれこれ書いてきた。
 結局のところ読書というのは、自由である。
 何をどのように読んでもいい、というのが読書の良さだ。
 だからこれは、あくまで僕個人の読み方ということになる。10冊の本を頭の中でイメージする。それが自分の頭となり、様々なことと繋がる。そうした読み方が、今の僕には合っている。
 できれば、みんなそれぞれの読み方を見つけるのがベストだ。
 その手がかりとなれば、幸いである。

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