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「沖縄アンダーグラウンド 売春街を生きた者たち」を読みました

沖縄の売春街。

浄化作戦により、真栄原新町もコザ吉原も、なくなった。けれど、たぶんいまもどこかで売春は続いている。

真栄原新町やコザ吉原だけでなく、私が知っている地名(勝連半島など)にも、かつて売春地帯があったことが書かれていた。

特飲街や社交街と呼ばれる街の形態をとっていなくても、売春は町のなかにあった。

それは、生きるため。

「生きていくために売春することの何が悪いか」

何も悪くない。

というか、個人の責任ではない。

売春をしなければ生きられない状況が、
売春をしなければ生きられない国が、

問題だ。

その問題の影響を、
直接受け続けているのが、
沖縄のひとたちだ。

その問題を作っている国の
構成員のひとりは、私。

無関心で、無知だった私。

人間より経済が重視されていた時代。

米国占領下、米兵から
沖縄県民に対する強姦、暴行被害の多さ。
戦後も続いた恐怖、被害。
沖縄の戦後。

生きていくため。
誰かが生きていくために、
さらに犠牲になったひとたち。

売春を許せない、
と嫌悪感を露わにする女性団体。

奄美や離島から来た人を、
差別する沖縄。

沖縄を差別する、日本。

差別の中で、さらにうまれる差別。

売春も薬物も「犯罪です」。
そう言うだけは、抑止力にはならない。
逆に相談できなくなる。

差別は、自分を守るため。
自分は、まだマシだと、安心するため。

差別する側も、される側も、不安定だ。

差別も、売春も、生きるため。

その弱みにつけこむ人たち。
その人たちも、生きるため。

だけど、差別を生み出すことで、
本来なら傷つけ合う必要のない人たちが、
辛い思いをしなければならない。

戦争は、本当に惨い。残酷だ。

戦争が終わっても、戦後は終わらない。

人の無関心。それが、戦後を長引かせる。

そして、それが新たな戦前となっていくのかもしれない。それは、嫌だ。

私はこの本に登場する映画「モトシンカカランヌー」を観ていた。2021年1月に、シアタードーナツで上映されていた。

「モトシンカカランヌー」とは、沖縄の方言で、「元金のいらない商売・仕事」のこと。

売春婦、ヤクザ、ドロボウなどのことをさす。

生きるために。できることをする。
生きているだけで。お金はかかる。

闘うべき相手は、誰なのか。
闘うべき相手は、誰でもいいのか。
生きる名目が欲しいのか。
ただただ無為に生きることは、心許ないから。
もっともらしい言い訳。
己を正当化して生きる。

生きなければいけない。死ぬまでは。

誰が誰を利用しているのか。
私も誰かを利用して生きている。
もっともらしいことを欲しがっている。

生まれて、死ぬ。

そのあいだに起きること。

それに納得したいだけ。

私が誰かを利用しているように、
私も誰かに利用されている。

だからといって、
誰かが傷つき続けていい訳はない。

あの時代、と括れない。
いまもある。

異なることも、変わらぬことも。

正論で人は救われない。

記録がすべてではない。
でも、あのとき、そこに生きていた記録。

ただ、そのときの記録。

そこに意味や意見や感想を述べたら、
それは私のもっともらしい言い訳なんだろう。

貴重な記録、観れて良かった。

2021年1月24日の日記より。


私が沖縄に移住した2020年。
コザ暴動(コザ騒動)が起きた1970年から、
ちょうど50年だった。

コザ暴動が起きたのは、沖縄が本土復帰する1972年(昭和47年)の約2年前だ。

コザ暴動から50年。
コザXミクストピア研究室が主催する「コザXから望むコザ暴動」に参加した。

1970年12月20日。50年前の今日。
コザ暴動、起きる。

「コザXから望む コザ暴動」

参加してきました。

コザ暴動は、命は平等であり、どの命も差別してはならないという主張であった。

照屋の人たちは、受け入れる力があった。
人種差別をしたら、ここでは商売はできないからという理由もあったけれど、黒人も白人も関係なく受け入れた。その凄さ。

沖縄人への差別。黒人への差別。
共通項もあるが、矛盾する部分もある。

会場には、50年前のコザ暴動を体験した世代の人たち、コザや戦後の歴史を研究する研究者、この土地にゆかりのある人たち、今もコザや照屋に住む人たち、そして、私。

それぞれの想いと、経験の違い。
どの記憶も意見も感情も。とても貴重なものだ。
その時を生きた人達から、当時の話を聞けるのは、本当に貴重だ。

暴力によらない主張とは何か。
学問とは何か。
政治とは何か。

歴史と政治は結びついている。

コザ暴動は、反米軍という主張であったが、それだけでは正確ではない。米軍の前に、日本がある。それを見逃して、日本の責任を問わないのは、おかしい。

反米軍だけに焦点をあてては、本当のことを見誤る。

戦争を生き抜き、戦後を力強く生きた沖縄の人たちの歴史を遺したいという想い。

だけど、歴史は綺麗事だけではないという想い。

今も続く沖縄の負担。
これまで受け続けてきた差別。
酷く辛い戦中の記憶。
日本への怒り。日本への不満。

それをどのように学問は発信すると良いのか。
どのようにその歴史を遺し、今に活かすのか。

来場していた皆さんの話をもっと聴いてみたかった。
今の私には、コザ暴動を語る言葉は持ち合わせていないけれど、参加できて良かったです。

2020年12月20日の日記より。

私が沖縄に初めて来たのは、25歳の時。
職場の平和活動に連れられて、嘉手納基地を「人間の鎖」で取り囲む基地の撤去を訴える運動に参加した。その時の私は、なにも知らないまま、参加した。本当に無知だった。沖縄反戦デモだということにも気づいていなかった。ただただ連れられて、沖縄に来れたことに浮かれていた。

嘉手納基地を取り囲む反戦デモ以外にも、平和祈念公園の平和祈念資料館や、ひめゆり平和祈念資料館、旧海軍司令部壕、佐喜眞美術館へ行き、辺野古の海で基地反対のデモを行っている方を応援に行った。実際に有刺鉄線で区切られている辺野古の浜辺を見たり、そこを米兵は越えてこちらに移動できるのに、私達は入れないことを目の当たりにした。

沖縄の戦中戦後の歴史や、その当時の現状(辺野古にV字滑走路を作るなど)を実感することで、私にとって、沖縄は観光地やリゾート地ではなくなった。

旧海軍司令部豪は、当時使われていた場所を資料館としているのもあって、とても生々しく、霊感のない私でも、ヒヤッとした場所は、自決した部屋だったりして、戦争の悲惨さや、惨さを感じずにはいられなかった。

佐喜眞美術館では「沖縄戦の図」を鑑賞した。
日本兵は日本人の味方ではなかった。
その言葉が、強く印象に残った。

さまざまな沖縄戦に関する資料館や基地を巡るうちに、沖縄に初めて来て浮かれていた25歳の私の表情から、浮かれた笑顔は消え、神妙な表情の写真が増えていた。笑っていたら、失礼なのではないかという気持ちになっていた。

6月23日は、慰霊の日。
沖縄戦等の戦没者を追悼する日。

私はそのことを、25歳まで知らなかった。

8月15日の終戦記念日しか知らなかった。

沖縄に戦後の負担を負わせながら、
何も知らない日本人。まさに、それが私だった。

その時から、沖縄について知りたいと思うようになった。

沖縄から戻った私は、沖縄で知ったことを、家族や友だちに伝えた。みんな、楽しい沖縄のお土産話かと思ったら、沖縄戦や基地問題について話し出す私の話を、やや困った顔をしながらも、聞いてくれた。ありがとう。

それでも、だんだん忘れてしまう。

沖縄に移住した時に、沖縄を知りたいと思っていた事も、もっと沖縄の現状を知ってもらいたいという気持ちも、日々の暮らしに追われて、忘れてしまう。

沖縄に住んでみて、沖縄の人たちの捉え方も、さまざまであることを知った。基地についての考え方も、戦争についての考え方も、それ以外も。

県外からの移住者が、偉そうに沖縄を語ることは、とてもおこがましい。そんな気持ちもある。

県外から移住したからこそ、見えるものもある。気づくこともある。そんな気持ちもある。

いつでも、行ける。そう思うと、なかなか行かない。そういうものなのかもしれない。

「沖縄市戦後文化資料展示館 ヒストリート」にも、やっとこの前行ってきた。

入場無料です。

沖縄市の資料を中心に、無料で観覧できる。ひとつひとつの資料をまじまじと観ていたら、1時間以上滞在していた。戦中、戦後の沖縄。ニューコザの看板。沖縄市の八重島に1950年ごろから外人相手の特歓区として発足したニューコザ。コザ十字路付近の白人街と黒人街の地図。どの資料も興味深かった。長時間立ったまま集中し過ぎたせいか、帰る頃は頭と身体が痛かった。

青い空と青い海。
反戦・反基地の闘い。
暗い夜の妖しい小宇宙。

著者がまとめる沖縄を代表するイメージたち。

その3つ、すべて。
どれも私の沖縄でもある。

もうひとつ、付け加えるなら。
沖縄の貧困。それも私の沖縄だ。

いや、どれもつながっている。
沖縄も日本も私も。

生きていくために、私は「なに」をするか。

「沖縄アンダーグラウンド 売春街を生きた者たち(藤井誠二:著/講談社/2018年)」

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