見出し画像

「沖縄ノート」を読みました

「沖縄ノート」について感想を述べる事は、
私には、正直難しい。

言葉にすることで、炙り出される私の本質。
言葉にすることで、傷つける。不快にさせる。

無知からの、差別。

倫理的想像力の欠如。

配慮したつもりの差別。
配慮したつもりの無理解。

それでも、言葉にしてみます。

実際はなにも悪いことをしていないときに、あえて罪責を感じるということは、その人間に満足をあたえる。

実際はなにも悪いことをしていない(と信じている)人間のにせの罪責の感覚が、

あたかも沖縄にむけて慈悲でもおこなったかのような、さっぱりとした気分になり、かつて真実に罪障を感じる苦渋をあじわったことのないまま、いまは償いまですませた無垢の自由のエネルギーを充満させて、沖縄の上に無邪気な顔をむける。その時かれらは、現にいま、自分が沖縄とそこに住む人々にたいして犯している犯罪について夢想だにしない、心の安定をえるであろう。

「沖縄ノート」より引用。

沖縄に対する自分の態度に迷うことがある。
発言に配慮したつもりで、失礼なことを言った事は数えきれないと思う。ただ、それを咎める沖縄の人が、私のまわりにはいなかっただけ。

沖縄の人たちの優しさか。
沖縄の人たちの無言の抗議か。

内地や本土、という表現を、
私から使う事は、躊躇う。

私が、内地や本土と分類されるとき、
どこかうっすら差別を感じることはある。

それは、沖縄が区別され、
差別されてきたからだ。

沖縄で親しくなった人たちは、
私を内地や本土という単語で分類しない。

だけど、親しくなったように感じても、会話のなかで、私を内地や本土と分類し続ける人もいて、どこかで私を、県外出身者を、嫌悪しているのだと感じる事もある。私の被害妄想かもしれない。けれど、そのくらい無自覚に差別は起こる。恥ずかしいけれど、私だって無自覚に、日常的に、差別をしているのだ。絶対。

著者の大江さんの文体は、正直読みにくい。沖縄ノート以外の作品を読んだ事がないから、普段の文体はわからないけれど、沖縄ノートを、あのような文体で書いたのは、自分の内側で揺れ動く葛藤を、忠実に書き記したからかもしれない。

言葉で表現することの難しい当時の思いや葛藤を、省略して、すっきり端的にまとめて、文章の分かりやすさを優先するよりも、当時の自分を観察し、記録することに重点を置いたのだろうと想像する。

事実はひとつだとしても、
立場が変われば、捉え方は変わる。

偏った視点だけで物事をみる事の危うさを、
自戒を込めて何度も問う大江さん。

沖縄について知ろうとする事自体が、相手にとっては不快で、傷に塩を塗るような、見当違いな行為と受け取られたとしても。

それでも沖縄を、知らずには、行かずには、書かずにはいられなかった大江さんを動かしたのは、沖縄に生きる人達や先人達の闘い、特に、志し半ばで亡くなった沖縄出身の古堅さんの生涯をかけた闘いを、忘れ去られないように、なかったことにはさせない為に、記録したのだと思った。それは、大江さんなりの追悼であり、誠意と贖罪と自分にできる闘いだったのだと思った。

2年後に復帰を控えた1970年に発行された本書。

それまでの沖縄の現状が綴られている。

慶良間列島で行われた集団自決は、生き延びようとする本土からの日本人の軍隊の《部隊は、これから米軍を迎えうち長期戦に入る。したがって住民は、部隊の行動をさまたげないために、また食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ》という命令に発するとされる。

集団自決の事実を、歴史を、日本軍の関与がなかったことにしようとする人達がいる。歴史を改ざんしても、なかったことにはならない。それはさらなる暴力行為だ(映画「教育と愛国」より)。

広島や長崎で被曝し、沖縄に戻った被爆者の現実。広島の原爆病院に行く事は、経済的な自殺。原爆症の治療の機会をあたえられぬまま、生きなければならなかった。被爆者手帳を活用できぬ環境の被爆者たち。

戦争による心的外傷体験をケアされず、精神障害の治療も受けられずに放置された人たちの存在。1968年の調査では、精神疾患の発症が本土より2.5倍も高いにも関わらず、約71%が治療を受けられずに放置されていた。そして、地域の人達が傷付けられるという負の連鎖。

定員の倍の非行少年をつめこんだコザの琉球少年院。

原子力潜水艦が自由に出入りする那覇港の泥からコバルト60が発見される。汚染された魚介類。汚染された軍港で働く潜水夫達の体の異常。具志川の臨海学校で起こった小学生達の皮膚炎。

核兵器の貯蔵。
毒ガスの貯蔵。
美里村知花弾薬集積所。

B52戦略爆撃機の墜落炎上。真夜中の轟音と炎。

もし、その墜落事故が核貯蔵庫に影響して、大爆発でも起こしたら沖縄中が吹っ飛んだかもしれない恐怖。

戦後も続く、すぐそばの戦争(ベトナム戦争)。

戦争中はもちろん、戦後も命を脅かす危険に晒され、誰もが傷付き、程度の差はあってもトラウマを負ったはず。それでも、トラウマや原爆症などに対して、適切な治療やケアを受けられず、基地と隣り合わせの生活は、心身共に安心や安全を確保できない。

トラウマは、専門的なケアを受けなくても、安心安全な生活が守られれば、次第に回復する可能性もある。だけど、沖縄はその安全が守られず、危険に晒され続けている。

心身の健康を保つのが、とても困難な状況で、沖縄の人たちは、生き延びる為に、生きてきた。その過酷さは、想像を絶する。

基地が生活圏内にあり、戦闘機が飛び交い、戦闘機による事故も起こるなど、トラウマによるフラッシュバックが起きやすい環境であることは確実で、強い緊張や不安などの症状を日常的に感じる人は多かったはず。その症状をケアされず、トラウマ反応だと知る事もなく、安心安全も確保されない状況で生きるのは、本当に大変だ。今現在も、辛いトラウマ反応を、ひとりでじっと耐え続けている人がいるかもしれない。

安心安全が守られない生活が続く事で、不眠や、うつ病、不安障害、アルコール依存症などの疾患を発症することもある。どれも、本人のせいじゃない。なのに、辛くて、苦痛なのは、本人たちだ。トラウマをケアされない事で、虐待も増加する。大人も、子どもも、みんな困る。負の連鎖は、現代にも影響を及ぼしている。

53年を経て、2023年の沖縄で本書を読む。
知っている地名、すぐそこの沖縄。

変わったこと。変わらないこと。

たとえ基地がなくなっても、終わりじゃない。

想像力の欠如は、情報量の欠如。
知らないと、分からない。

知る事は、苦痛でもある。
知らない方が、楽でもある。

自分が安全な場所にいるうちは、いいかもしれない。知らなかった、で済むかもしれない。むしろ、安全だと思い込みたいから、知りたくないかもしれない。

じわりじわりと安全は侵食されて、気づいたら、すでに安全は奪われているかもしれない。

福島第一原発の汚染水の海洋放出。原子力発電所の再稼働。食べ物や水の汚染。教科書の記載内容の変更。

原子力発電所をミサイルで狙われたら、日本なんて終わりだという話を聞いた時、本当にそうだと思った。

沖縄は、どうなったら、みんな幸せだろう。

沖縄を考えることは、日本を考えること。
つながっている。

日本人とは、なんだろう。
大江健三郎さんと共に、私も考えながら、読んだ。

普段、日本人であることを意識する機会はあまりない。

アメリカ同時多発テロ事件の直後、喪服を着用する欧州の人達を目の当たりにして、日本人の感覚のズレを感じた人の話を読んだ事がある。

世界が見えていない。
きっと日本も見えていない。

ここまで長々と書いてきたけれど、茨城出身の私が、沖縄を語る事は、おこがましく、不快な思いをさせていたら、ごめんなさい。

沖縄から見える日本人。
その条件を満たした私が感じる自責感は、
自己満足の為の罪責感か。

それでも、沖縄が受け続けてきた事実を知りながら、平気な顔ではいられない。それは、本心だ。

単純な答えや、結論を導き出すことはできない。

沖縄ノートは、完結しない。

《いま広島に核基地があるとしたら、あなたがたはどのように感じるか?沖縄で、われわれが体験しつづけているのは、まさにそのようなことです》。

中曾根政善氏の言葉。

「沖縄ノート(大江健三郎:著/岩波書店/1970年)」

この記事が参加している募集

#読書感想文

188,615件

#ノンフィクションが好き

1,394件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?