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「すずめの子にはなれなかった」—『すずめの戸締まり』でダイジンが発した言葉の真意を探って

※これは、映画『すずめの戸締まり』のネタバレを含む文章です。
 
 しし座流星群が間もなく極大を迎えようとしていた11月17日の夜、『すずめの戸締まり』を観た。
 一番印象に残ったのは、要石(かなめいし)だった白猫のダイジンがクライマックスですずめに放った言葉—「すずめの子にはなれなかった」
 
 この映画は高校生のすずめが常世(とこよ)に迷い込んだ4歳のすずめを救出する物語でもあり、キャッチコピーは「扉の向こうには、すべての時間があった—」なので、つまり過去―現在—未来というすべての時間が描かれているとすれば、ダイジンは生まれることのできない未来のすずめ(と草太)の子ではないかと思った。
 
 動かしてしまえば災いが起きるとも知らず、要石に興味を持ったすずめが要石に触れたのは偶然のようで必然で、ダイジンを目覚めさせなければ、4歳の自分を救出するきっかけはつかめなかったはずだ。つまり要石を動かさなければ、4歳のすずめは常世つまり、あの世に迷い込んだままで、高校生に成長したすずめそのものも存在しないだろう。ダイジンを蘇らせることは、すずめの命を生かす行為そのもので、必要なことだったのだと思う。
 
 要石として身動きがとれず、自由を奪われていたダイジンは封印を解いてくれて、さらにエサも与えてくれたやさしいすずめにすぐに懐いた。すずめにかわいがられ、愛情を感じると痩せ細っていた体は健康的な姿になり、元気に動き回れるようになっていた。茶目っ気があり、猫として周囲の人たちからも好かれ、世渡り上手なダイジンに、呪いによりすずめの母の手作りイスに姿を変えられた草太とすずめは翻弄されるが、日本各地の後ろ戸を二人で協力しながら、命がけで閉じ続けた結果、二人の絆は強まり、二人の間には愛も生まれていた。
 
 ダイジンがいなければ、草太は呪いにかけられることはなかったし、すずめと二人で後ろ戸の扉を閉じながら旅することもなかった。物語の途中まで、ダイジンは故意に後ろ戸を開け、災いを引き起こすミミズを復活させている悪者に見えたが、ラストのその言葉を聞いたら、すずめと草太の命を救おうとするダイジンは未来の二人の子ではないかと思った。ダイジンははるか昔、要石という人柱にされた元人間で、長い年月をかけて神となり、西日本を守っていたと推測でき、つまり過去の人間にも思えるが、「すずめ好き」と妙にすずめに懐いていたし、現在はまだ存在できないはずの未来のすずめと草太の子なのではないかと。
 
 何しろ扉の向こうの世界(常世)にはすべての時間が流れているのだから、未来の存在がいても不思議ではない。しかし常世はあの世だから、そこに留まり、要石の役目を果たすということは、生まれることはできない存在なのだろうと。本当はすずめと一緒に生きたいから、草太を自分の身代わりにしようと企てたのだろうが、すずめはダイジンよりも、すずめ自分自身よりも、草太の命を選んでいた。(終盤で「私が要石になる」と言いながら草太を蘇らせようとしていたから。)そのすずめの強い決心を知ったダイジンは観念したように、寂しそうに「すずめの子にはなれなかった」と言って、誰に強制されるわけでもなく、自分の意志で要石の姿に戻った。
 
 もしも推測通り、ダイジンが本当に未来のすずめの子だとしたら、お母さん(すずめ)は自分の命より、ダイジン(子)の命より、お父さん(草太)の命を優先するんだ、お母さんはお父さんを心から愛しているんだと悟り、ダイジンは自己犠牲を払って、要石という神に戻ったのだろう。母を思う子の健気な気持ちをダイジンから感じた。でもダイジンは4歳のすずめのことまでは救おうとせず、そこはすずめ自身にあえて任せたのだと思う。自分の過去は自分で救うしかないんだよと教えるように。常世は死んだ存在だけでなく、生まれられなかった存在もいる場所なのだろう。
 
 ミミズは人間が作り出したものではないけれど、後ろ戸は人間が生み出したもので、かつて栄えていた場所を廃墟にして忘れたように見向きもせず、置き去りにして、新たな場所で幸せそうに生きる人間の傲慢さを罰するように、そこを出口にミミズが噴出する。そういう負の場所を作り出しているのは人間なのに、要石という神の力を借りて、災いから逃れようとしているから、ダイジン(右大臣)とサダイジンは最終的に人間自身の力でミミズを封じ込めるように仕向けたのだと思う。
 
 その危険な任務を果たしたすずめと草太にお互いを思う愛が生まれるまで時間はかからなかった。日本各地で引き起こされようとしているミミズによる大地震から日本中のたくさんの命(東京だけでも100万人の命)を救うという壮大なミッションのように見えて、実は最終的に命を救いたかったのは、すずめは草太、草太はすずめ以外にいなかったと思う。当初は日本中の一人でも多くの人たちを救う目的だったかもしれないが、いつしか愛が深まっていた二人は、正直に言えば他の人たちの命がどうなろうとも、自分の命に代えて、お互いの命が助かればいいと願っていた気がする。それは主題歌・RADWIMPSの『カナタハルカ』の歌詞からも推測できる。
 
《「あなたさえいれば」 『あなたさえいれば』 そのあとに続く言葉が どれだけ恐ろしい姿をしていても》

 よくありがちな二人の愛が世界を救う展開というか、ラブストーリー的に見れば『君の名は。』や『天気の子』と大差ない。キスして目覚めさせるという王道メルヘン要素もあり、そういう点は真新しさに欠けるかもしれないが、普遍的な愛っていうものは結局、《何万とある愛の歌》『カナタハルカ』《愛の歌も 歌われ尽くした 数多の映画で 語られ尽くした》『愛にできることはまだあるかい』というRADWIMPSの歌詞の通りで、どんなに時代が変わっても変わらないもので、変えようのないもので、それでもそういうてっぱんラブストーリーを求めてしまうということは、そういう愛に需要があるということなのだろう。人間はよく飽きずに似たような愛を求めるものだなとつくづく思う。
 
 新海誠作品のファンタジー映画と言っても、『君の名は。』は『ムー』が登場した分、オカルト要素が強かったし、『天気の子』は拳銃やラブホなど子どもが踏み入れてはいけない大人の世界、つまりリアルな大人社会もそこそこ多く描かれていたが、今作の『すずめの戸締まり』は前2作と比べて、メルヘン(童話)要素が多く、好き嫌いは分かれやすいかもしれない。童話好きな私は好みだったけれど、人間がイスの姿に変えられたり、ネコがしゃべる設定はやや子ども向けで、子ども騙しの作品と冷めた目で観てしまう人もいるかもしれない。しかし、テーマがあの震災(地震)というリアルで重みがある分、イスやネコを登場させず、人間のみで描いてしまったら、さらに暗く重く、ただ「闇が深く」なってしまうため、イスやネコというほのぼの童話要素はその暗さや重さを和らげるための、やさしい仕掛けだったのだと思った。
 
 入場の際、配布された『新海誠本』には「これは震災の映画であると明確に決めていました。プロデューサー陣にも確認を取って、その覚悟を共有してから制作を始めたつもりです。」、「『すずめの戸締まり』は、震災文学の流れの中の、数ある作品のうちの一つに過ぎません。きっと珍しくも、特別でもない。」という記述があり、一言で言えば「震災を捉えた映画」であり、すずめという震災孤児の描き方次第では、限りなくもっと闇深い映画にもなったかも知れず、しかしドキュメンタリーではなく、あくまでファンタジー(フィクション)だから、震災のトラウマがひどい人以外は、観やすい映画だったと思う。最後にちゃんと草太とすずめが救われて、過去を戸締まりできたから、震災後の荒野が描かれていても、目を背けずに観ることができた。ただ、世界と二人が救われたのはダイジンとサダイジンという要石の二人の犠牲があってのことだから、何も失うことなくハッピーエンドというわけではなかったのかもしれない。
 
 同じく『新海誠本』には「少女の成長物語を描くために、本作では各年代の女性を多く登場させる。」という企画書前文も公開されていた。その宣言通り、父親不在感、男性の存在感は薄く、代わりに女性の存在が目立った。すずめの父は描かれておらず、震災時はそもそも母と二人暮らしのようだったし、すずめを引き取ったおばさんも独身。草太と旅をしている最中に出会ったのもすずめと同い年の女の子や、どうやらシングルマザーとして子育てしているらしいスナックのママなど、女性の存在感は強かった。
 
 そしてしゃべるネコ(急にしゃべらなくなるネコ)が旅を誘導するとなると、黒猫のジジが登場する『魔女の宅急便』感も否めなかった。何しろ物語の転機部分では『ルージュの伝言』が挿入歌として使用されていたくらいで、魔女の宅急便のオマージュ作品と言っても過言ではないかもしれない。(そう言えばオープンカーも両作品に登場。)すずめと草太(長髪のせいか)に関しては、『千と千尋の神隠し』の千とハク感もあった。
 
 ジブリ映画よりもさらに既視感を感じたのは少年ジャンプ+で連載中、アニメ化も決定している矢吹健太朗氏の『あやかしトライアングル』というマンガ。ヒロインの名前は「すず」、主人公・祭里(まつり)は妖を祓うことを生業としている。その師匠はやっぱりおじいちゃん。400年以上生きている妖の王はシロガネという白いネコに変身していて、そのシロガネに祭里は男から女の姿に変えられてしまう…。主人公の男が白猫の力で変身させられ、そのネコを追い、妖を祓いながら、ヒロインと恋仲にもなるという流れは『すずめの戸締まり』と同じだった。2020年から連載が始まった『あやかしトライアングル』の方が先で、たまたまなのかもしれないけれど、設定に近いものを感じたのは私だけだろうか。それともこの類の物語の設定はみんな似たり寄ったりが当たり前なのだろうか…。ラブストーリーと同じで、型は決まっているのかもしれない。
 
 全体を通して、映像美に磨きがかかっていて、空や草花、光など自然描写は美しく、津波被害を受けたであろう東北沿岸部の描写もリアルだった。すずめに付きまとうように飛んでいた二匹のチョウはすずめの両親だろうか…。すずめの成長物語として様々な女性が登場した作品だったが、お母さんを探し、母親を乞うていた4歳のすずめに大丈夫と背中を押せるほど大人になったすずめもいつか母になるだろう。ダイジンが未来のすずめの子だとすれば、要石になってしまったから、一緒に生きることはできないけれど、生まれられないと分かっていて、ダイジンはひとときだけ、大好きなすずめ(母親)と一緒にいたくて、蘇ったのかもしれない。未来で会えないなら、せめて今、すずめと同じ時間を共有したいと、4歳のすずめと同じように、母を乞うたのだろう。
 
 「すずめの子にはなれなかった」というダイジンの言葉から、『すずめの戸締まり』はすずめ(鈴芽)が亡き母(椿芽・つばめ)を乞い、ダイジンがすずめという母を乞う、すずめを軸にした二つの母子の物語だったのではないかと考えた。

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