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ドラマはこうして作られる!演出のお仕事大公開トークイベント~『おかえりモネ』ディレクター梶原登城氏の話を聞いて考えたこと~

 11月3日、気仙沼市で開催された、をオンライン配信で視聴した。講師は『おかえりモネ』で主に気仙沼を担当したディレクターの梶原登城さん。PCにかじりつき、梶原さんの言葉をメモしながら見るというより、聞いていたものの、自宅のネット回線が不安定な時間帯もあり、時々画面が固まったり、音声が途切れ途切れになってしまった場面もあり、残念ながら、聞き逃してしまった言葉も多々あったと思う。だからちゃんとメモに残っている言葉を中心に書き残しておくことにした。(梶原さんが発した言葉のすべては網羅できていないということです。ご了承ください。)

 前置きとして、オンライン視聴は開始直前までいろいろできるし、どんな格好しててもいいし、気軽に見れて便利な反面、やや臨場感に欠けるため、場の雰囲気とか熱量までは把握できなかったことは残念だなと思った。
 申し込みに間に合えば、現地に行くという手もあったけれど、正直に言うと私は、去年の11月に初めて気仙沼へひとりで行き、モネ展が開催されているうちに絶対また来ようとモネのことばかり考えて過ごしていた、今振り返るとキラキラしていた当時の自分と比べたら、今年1月以降、気持ちが少し変わってしまって、現地に足を運ぶ気力がなかった。おかえりモネが好きなことには変わりないけれど、今回、梶原さんが話していた話につなげるとすれば、おかえりモネ以上に希望溢れる出来事があって、それが絶望に変わってしまったから、今年は地に足がつかない状況で、ただ息をして生きているのが精いっぱいで、去年の12月までのようにモネ一色という生活を送ることはできなくなっていた。簡単に言えば、モネ以上に大事なものができたということかもしれない。でも私は、モネの「音楽なんか、なんの役にも立たないよ」という言葉のように、「モネ(ドラマ)なんか、何の役にも立たないよ」とまでは思えなくて、絶望の淵にいても、時間が経ったら結局、おかえりモネにまた救われていると思えたし、やっぱり好きだと思えたから、気仙沼に行く気力がなくても、せめてオンラインで視聴しようと考えた。またモネの世界に触れたいと思えるようになったということは、少しは立ち直れたのかもしれない。新次さんのように、「絶対立ち直らねぇ」って思っていたにも関わらず。もしもその希望と絶望を経験することがなかったら、きっとモネ展が開催されているうちに、今年も何度か気仙沼に行ってたと思うし、大島にだって橋を渡って行ったと思う。そして今回のトークイベントにも足を運べたはずだ。でも今の私は、オンラインで視聴するのがやっとで、去年12月の登米のレポと比べたら、キラキラ感に欠けるかもしれないということをお伝えしておきます。(前置きが長くてすみません。)

 ドラマディレクターとは映画で言えば監督に相当する仕事で、おかえりモネに関しては2年近くかけて作り上げたそう。

<ドラマ制作の流れ>
1. 企画
2. 脚本開発(取材・シナリオハンティング)
3. キャスティング
4. ロケーションハンティング
5. 美術打合せ
6. 音楽打合せ
7. 技術打合せ
8. 絵コンテ(カット割)
9. リハーサル
10. 撮影
11. 編集
12. グレーディング
13. VFX(視覚効果)
14. MA(音入れ)
15. 局内試写
16. 放送(オンエアー)

 企画はもちろん大事だけれど、2019年の夏頃はまだモネの形はゼロで、脚本家の安達さんと一緒にいろんな場所を巡り、取材を重ね、モネを一緒に考え始めたらしい。(これがシナリオハンティング)
 梶原さんはあまちゃんなどにも携わっており、東北の沿岸部はいろんな場所を知っていたけれど、過去にプロフェッショナルという番組で舞根(もうね)のカキ養殖家の話を見たことなどもあり、気仙沼が印象深く残っており、それも含めて、改めて回ってみて良いところだと実感し、舞台は気仙沼に決まったそうだ。企画の段階で気象(予報)を扱うことは決まっていて、気仙沼の海と登米の山をつなぐモネというヒロイン像が、気仙沼などでシナリオハンティングをすることによって少しずつ形作られていったという。

 そして2020年2月、3月頃、ちょうど世界でコロナが騒がれ始めた頃、キャスティングの時期と重なり、ヒロインのオーディションは無理と考え、数人選んだ中から、ヒロインは清原さんに決定した。コロナの影響で、キャスティングは少し苦労したかもしれないと。みーちゃん役の蒔田さんだけはリモートでオーディションという形をとったらしい。

 そのうち緊急事態宣言も発令されてしまい、ロケーションハンティング(ロケハン)は2、3ヶ月遅れてしまった。登米はチーフ(一木さん)、気仙沼は梶原さんが中心となり、ロケハンスタート。難破船が印象的な田中浜の写真など、気仙沼の写真をたくさん安達さんへ送り、取材を重ねつつ、モネの世界観を作り込んでいったそう。それは2020年7月、8月あたりのこと。演出の仕事はイメージが大事で、共感される舞台など、具体化が大切。(具体と舞台のあたりがうまく聞き取れず、あやしいです。)

 気仙沼は第3週から。モネがおばあちゃんの初盆で気仙沼へ帰省するという場の設定が大事だった。ドラマは会話が主体だから、人を集める場が必要で、お盆になった。盆棚や盆船など、お盆の風習を交えつつ。そこで、モネが背負ってしまった、震災時の負い目、絶望を描いた。

百音「ちがうよ、お父さん」
不意にサラリと。百音が言葉を吐く。
百音「音楽なんか、なんの役にも立たないよ」

 このシーンを振り返りつつ、演出は効果を作る、落差を作る場合が多いと。

 絶望するということは、絶望の前に希望があり、希望に満ち溢れていれば、挫折した時、その分だけ絶望も深くなってしまうものだから、そういう演出はなるほどなと思った。希望がなければ絶望もないと気づかされた。
 モネの場合、音楽が希望そのもので、大事なものだった。その象徴がゆず祭りのアメリカンパトロールの演奏。明るい曲調も相まって、色褪せることないキラキラした青春が描かれていた。そのキラキラした回想から一転、2011年夏のモネとお父さんのシーンに戻ると、無音の世界が静かに佇んでいた。お父さんがまた吹いてみないか、音楽とかそういうの大事になってくるの、これからなんじゃないかとモネに言うと、「音楽なんか、なんの役にも立たないよ」とモネは冷めた言葉を吐き、希望そのものだったはずのものの封印を解こうとはしなかった。

 こういう脚本もすごいけれど、その脚本に演技で応える俳優陣もすごい。「演出とは効果(振り子)」と梶原ディレクターは断言していた。しかし、やみくもに落差ばかり作ればいいというわけでもないと。私も自分なりに物語を創作していて、主人公を際立たせるために、周りの取り巻きをちょっと悪めに書いてしまうとか、自然とやってしまっているなと気づいたので、落差ばかり描くと、善と悪、味方と敵のような構図がはっきりしてしまうので、少し気をつけないといけないなと思った。

 第4週は「みーちゃんとカキ」というみーちゃんが主役に見える週でも、モネ目線を意識して演出したらしい。

百音「これ、お父さんが登米の木で作ったの。ひっどい音だよね。でもすごぐよぐ鳴るの!」

 気仙沼の将来、家族のことを考えて高校生ながらも必死で取り組んでいたことを自由研究と言われ、この場面で未知はそれまで抑えていた感情を爆発させた。未知の悲しみと怒り(これも絶望かも)で家族が気まずくなる中、百音はお父さんが自作した木の笛を吹き、その場を和ませようとした。
 演出としては、台所と居間の間の廊下が結界で、清原さんにはそこから越えないように指示したそう。震災の時、気仙沼にいなかった、何もできなかったモネには自責の念があり、それを表すために、モネと未知(家族)には隔たりがあり、この時点では越えられないラインがあったと。
 気仙沼で生きているみーちゃん(家族)とモネの対比を際立たせるため、モネだけ一人の空間にいることが多かった。家族といる時は、みんなの仲を取り持とうと、笑顔も見せるモネだったけれど、部屋でひとりになれば涙が溢れるという精神的に孤独なモネを表現したらしい。

 この第4週と気仙沼で竜巻が起きた第19週は「係り結び」の関係になっており、演出の絶対的目線だったと。4週の時点ではまだ家族に本当の意味で寄り添えなかったモネが、19週になると逃げずに永浦家へ一歩足を踏み入れた。この「係り結び」の関係もなるほどと思った。置き去りになっていたものを回収するということにもつながるのかもしれないが、変えたくても変えられない過去を時が進んで何年か後の未来で過去の自分をちゃんと変えるというか、トラウマを払拭するくだりがおかえりモネの世界では多かった気がする。

 話しは「脚本家との付き合い方」というテーマに変わった。2年前の11月、その年の7月から楽器の練習をしていたモネたち同級生メンバーによるアメリカンパトロールの演奏シーン(ゆず祭り)の撮影があった。基本、楽器は触ったことのない役者たちが、一緒に練習をすることで、まるで部活のように仲良くなり、一致団結し、ゆず祭りの撮影後、彼らのはしゃぎ合う様子から本物の同級生に見えたという。
 大島中の先生から震災当時、大人たち不在の中、中学生たちが島の住民を守り、尽力した話を伺い、それも考慮して中学生時代のモネたちのイメージができたらしい。
 そういう取材した話はもちろん安達さんにも伝えるが、実際に津波を見ていないのに、書いていいものか、書けないと言われたこともあったそう。人の痛みはその人にしか分からないものと安達さんは言っていたと。

 そして第16週、三生の「おれらもう、普通に笑おうよ」というシーン。その16週で初めて「震災」という言葉が使用されたと梶原さんは教えてくれた。16週以前は「あの日」、「あの時」などあいまいな表現だったのが16週になってようやくはっきりそのワードを使ったと。被災していない安達さんは震災を描くことにずっと葛藤していたらしい。だからそのはっきりしたワードを脚本に書くまで、16週分もかかったと。そこには安達さんの簡単には語れないという強い思いが込められていて、人の痛みはその人にしか分からないという、決して人を否定しないあたたかみがあったと。安達さんは常に奥に秘められているものに寄り添い、向き合っていた。ディレクターは一生懸命取材した内容を脚本家に伝え、脚本家はそれを抽出して、渾身の「言葉の雫」を絞り出すようなもの。安達さんはその難しいことをこなし、浄化作用もあったと。

 耕治が新次に「お前、幸せになっていいんだよ」と言い放ち、新次が死亡届に判子を押すシーンについて。おかえりモネの中で前を向いていないただ一人の人という立ち位置が新次だったそうだ。彼は「立ち直れない」のではなく、「立ち直らねぇ」と強烈な言葉も吐いていた。朝ドラは前向きなものが多く、前を向いて当たり前と捉えがちでも、実際は前を向けない人もいる。取材した中にも何人か新次のように前を向けない人もいて、前を向けない人を描くこともリアリティがあるのではないかと思い、登場させたと。そして新次の背中を押そうとする耕治という役にも難しさはあったと。

 このシーンの時、脚本を丁寧に書く安達さんの台本が少し遅れていて、新次役の浅野さんに台本が渡って間もなく撮影だったそうだ。浅野さんは自分が演じていいのか、判子を押す時、歌っていいのか(重いシーンなのに歌ったらリアリティがなくなる気がする)など、新次を演じる上で迷いもあり、梶原さんは相談されたらしい。しかし浅野さん自体が新次だから、信じてやってほしいと背中を押したという。歌えなくても、涙が出なくてもいいからと。
 そしてこの名シーンは一発本番ということになり、浅野さんのタイミングでやると決め、浅野さんが新次に入り込むのを待ったらしい。カメラや音声のテストもなかったから、ミスしたらどうしようと不安に思うスタッフもいたらしい。でもとにかく浅野さんだけは外さないようにカメラでとらえ続け、緊張感がものすごかったと。しかし本当に一発勝負でちゃんと決めた浅野さんはやっぱりすごかったと。

 この貴重なお話を聞いて私は、安達さんが津波も見ていないのに書いていいのかとか、浅野さんも新次を演じていいのかと迷ったとか、結果的にその葛藤や迷いが震災時、気仙沼にいなかったモネや、美波が亡くなったと受け止めきれず、なかなか死亡届を出せない新次の気持ちに絶妙にリンクしていて、ドラマにうまく反映されたのではないかと思った。簡単に震災を描いたのではなく、簡単に妻を亡くした被災者になりきったわけでもないから、難しいことを葛藤しながらもやり遂げた人たちが何人もいたから、『おかえりモネ』はたくさんの人の心に響くドラマになったのかもしれない。つまり安達さんや浅野さんは苦労もたくさんあったかもしれないけれど、その苦しみが作品をより良いものに導いた気がした。血と涙と汗が作品に磨きをかけたと思った。

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 それから判子を押すという行為について。(少し脱線するかもしれません。)判子文化のある日本で生活していると、押印や捺印する機会は少なくない。婚姻届や離婚届は経験しない人もいるものの、出生届と死亡届は戸籍がないとか特殊が事情がない限り、生まれたらほぼ100%誰でも経験する。だから紙切れ1枚、判子ひとつで命の在る無しが決まってしまうのかと思うと、複雑な気持ちにもなる。特に死亡届は命がこの世から消えた証になってしまうから、大切な人の死亡届は新次じゃなくてもつらい。でもあのシーンで、これで全部なかったことになってしまうんじゃないかと捺印をためらう新次に向かって、顔を上げてみんなの顔を見てみろ、死亡届を提出したからって美波さんは消えない、ここにいるみんなの心の中に残っていると諭すように、耕治が背中を押し、かもめはかもめを歌いながら、「ありがとう、さようなら」と判子を押すという新次の所作に「命の在り処」を教えられた気がした。

 たしかに判子ひとつで人の命は決まり、あっけなく終わってしまうものかもしれない。でもそれは見かけ上の命で、本当の命は関わった人たちの心の中で生き続け、残るものだから、寂しくないよ、大丈夫だよ、とあのシーンから教わった。たかが捺印するシーンだと作品によってはあっさり描かれる場合もあるかもしれない。しかしおかえりモネでは丁寧に時間をかけて、ただ判子を押すというシーンに携わった人たち全員が渾身の力を込めた。だからテレビで観る側も固唾を飲んで見守っていた。そう、あれはたかが判子を押すシーンではなく、人の命の在り処を決めるシーンだったのだ。心の中で生き残るから大丈夫と綺麗事を言っても、実際は社会からその人の存在が消えてしまうわけだから、つらい。社会に認知されていた命が、特定の人の心の中でしか生きられなくなるのはやっぱり悲しみを拭えない。でもそういう割り切れない悲しみをあの場にいたみんなで分かち合えたから、新次はあの時、救われたと思う。

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 話しは戻って、終盤、「バタフライ効果(エフェクト)」という言葉を梶原さんは紹介してくれた。気象学者エドワード・ローレンツ氏が残した概念で、「北京で蝶が舞うと、アメリカでハリケーンが起きる」、つまり、自然現象(の因果関係)は予測困難なものだけれど、ほんの些細な事がさまざまな要因を引き起こした後、非常に大きな事象の引き金につながる場合があるという考え方があるらしい。地球は空と海でつながっていて、ひとつの球体で循環しており、関係ないものが誰かの役に立つ場合があり、それこそおかえりモネのテーマで、新次というキャラクターを立ち直らせないまま終わらせることもできたけれど、人への施しややさしさは戻ってくる、人の気持ちや人間関係は循環しているということを描きたかったということだ。

 最後に質問に答えて下さるコーナーもあり、配信では質問者の声が拾えず、梶原さんの回答を聞いて、何とか把握しようと努めたが、多くの人たちが続編やスピンオフを熱望しているらしかった。そして梶原さんはNHKにメールを送ってくださいと微笑んでいた。つまり何を言いたいのかというと、おかえりモネは係り結びも回収の仕方も見事で、物語として綺麗に完結しているものの、なないろの歌詞にもあるように特にラストは「続く僕の旅」も描かれていたから、多くの人の心の中で、おかえりモネは未だに続いていて、それぞれの想像の中でモネも菅波先生も生きていて、今やこれからを生きる上で、お守り、お薬、勇気、元気、励みになっている気がしてならない。

 登場人物たちの服装のイメージカラーも決まっていて、例えばおじいちゃんはマグロの赤、ジェームスディーンのようにお洒落に赤を着こなすイメージで、みーちゃんは黄色が似合うから黄色のイメージ、お父さんは普段は銀行員でスーツを着ているけど、オフの時は柄物を着こなすラフな感じに。菅波先生は仕事の時は白衣だけど、イメージカラーはなく普段はシャツをインしているタイプにしたと。

 また、作品全体が水や風を意識しているため、見えない風をどう視覚で見せるか演出にこだわったそう。髪の毛や服をなびかせてみたり、風鈴なども効果的に使ったと。そう言えば、モネが登米で働き始めたばかりの頃も周囲で子どもたちがシャボン玉を吹いていたりしたから、あれも風を感じさせる視覚効果があったのだなと気づいた。その場にいないと画面越しには風や匂いは感じられないから、そういう見えないものをどう視聴者に見せるか、そういうのも演出の腕の見せ所なんだなと知った。

 みーちゃんが4週の時に向けた言葉の刃(やいば)について、「お姉ちゃん、津波見てないもんね」を撮影した時、終盤になって震災の時、未知がおばあちゃんを置いて一人で逃げてしまったことを悔やんでいたことを白状したが、その未知の境遇を初期の時点で蒔田さんは知っていたのかというようなことを質問した方がいたらしく、梶原さんは未知と百音は常にコインの裏表のような関係で描き続けたと。いがみ合っていたわけではなく、たまたま震災という出来事で歯車が少し狂ってしまった二人を最後に和解させることに意味があったと。どちらが良い悪いというわけでもなく、それぞれの立場から考え、見方を変えて双方の思いを描きたかったらしい。

 俺たちの菅波を直接作品に反映させることはさすがにできないとしても、菅波先生がウケて以来、現場では坂口さんが来るまで、俺たちの菅波待ちですとか俺たちの菅波入りますとかスタッフが坂口さんに言うこともあったらしい。菅波先生というキャラクターは嫌味で理屈っぽいけど、答えややさしさもくれる人だったと。しかし、朝ドラでよくありがちな(人を集め、会話をさせ、心情を引き出す場として)マスターのいる喫茶店や居酒屋ではなく、菅波先生とモネの場合はコインランドリーで会話が展開することが多く、狭い場所での撮影はなかなか苦労したと。カメラや音声スタッフの隙間をくぐるようにして出入りすることもあったとか。菅波先生は野暮ったい人だけど、医者だし洗濯はちゃんとするだろうということで、撮影にはやや苦労するけどコインランドリーという場の設定にしたらしい。

 東京編で時々聞こえた猫の鳴き声について、梶原さんは関わっていないものの、効果部のスタッフの方が、野良猫が住みついているという裏設定で、時々猫の鳴き声を使っていたらしい。
 バンプに主題歌を依頼する時、イメージを共有したかという質問に対して、直接ああしてくれとかこういう風にしてくれと指示することはなく、あれだけ才能のある方々だから、任せたと。そして「なないろ」が完成したと。

 このように質問コーナーも含めて、かなり充実した内容だったと思う。随時、ドラマの重要場面や名台詞を振り返りながらテンポよく展開した梶原さんのトークイベントのおかげで、演出という仕事を細かく教えていただいた気がした。モネが流した涙の一粒一滴にも、モネたちの一挙一動の中にも、素晴らしい脚本をより深く視聴者に届けるための演出の意図やテクニックがあり、役者の迫真の演技も含めて、ドラマ制作に関わったスタッフすべての思いがシーンの一瞬一瞬に込められているのだと改めて気づかされた。

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 私はモネをリアルタイムで観ていた頃や、終わってしまった直後から12月末の紅白まで、モネたちにずっと支えられて、モネを生きがいに生きていた。今年の1月以降は最初に述べた通り、心境の変化もあり、去年までほどは追えなくなっていたけれど、気持ちが落ち着いたら、結局、モネに心の手当てをしてもらっていた。そして最近はまたこうしてモネに頼り始めて生きている。

 モネが震災をきっかけに負い目を背負ってしまったように、誰しも想定外の出来事で気持ちが変わってしまったり、生きていれば、心境の変化を避けることはできないだろう。モネはまた希望だった音楽に戻れたけれど、リアルな世界では二度と好きだったもの、希望だったものに戻れない人もいると思う。それはそれで仕方のないことで、悪いことでもないけれど、希望だったものに戻れることは幸せなことだと思う。

 モネほど音楽にのめり込んでいたわけではないけれど、私も中高生の頃はそこそこピアノに夢中になっていた。何か原因があったわけではないものの、自然とピアノという楽器から遠ざかっていた。(弾いても年に1、2回に。)でも、絶望的な気持ちになった出来事のおかげで、先月10月からまたピアノに触れ始めた。それが新たな希望になった気がする。もう去年のようにキラキラした気持ちには二度と戻れない気もするけれど、同じ気持ちにはなれなくても、どん底だった今年前半よりは前向きに生きられていると思う。それは去年出会ったおかえりモネとこうしてまた出会えたおかげだし、再会できたピアノという楽器のおかげだ。だから改めて、これからもモネ、見守っていてねと思った。できればまたテレビ上でもモネと会えたらいいなと心から願う。

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 ちなみに、トークイベント終了後、登米市長沼フートピア公園で同日開催されていた「THANKSなないろDAY」に車で向かった。お祭り自体はすでに終了時間だったものの、お祭りの日に限定で去年、カラフルなビニール傘が虹のようにつるされていたのを見て、今年もあるかもしれないと思い、それを見に行った。3月の地震の影響で風車は修理中のため、風車に続く階段も上がることはできない状態だけれど、今年もなないろの傘の虹を見ることができた。なないろの傘も良かったけれど、紅葉の色も綺麗だった。久しぶりにモネ一色の日を過ごすことができて、幸せだった。つまずいて転んで治らない古い傷があって、前日の夜もその夜も眠る前は涙は流れてしまったけれど、戻れないあの日の七色をおかえりモネのおかげで見つけられた気がした。

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