私の芸術運動191蜃気楼の夢

一昨日神保町で買ったアメデオ.モディリアーニの画集を見ていました、微熱もあって身体も重たく感じられ最近の疲れが出たなと実感していた中久々に心がフワッと軽くなった様な感じがしました。

私も画家の端くれですが端くれ過ぎて意味もなく落ち込んでいました、引っ越しが今月ありますので自分が描き溜めていた油絵達を整理しながらゆっくり自分の過去をかえりみる事が多くあり、余計な事をああでも無い、こうでも無いと考え過ぎていた様にも思います。

一番に思う事は私が今まで絵を描き続けてきた事は本当に意味があった事だったのだろうか?と。もちろん自分にとって芸術はとても大きな変化を私に与えてくれましたが、結局私は自分の為にだけ描いてきたんじゃないか?と思ってしまうのです、例え誰かの為にと言っても本当はどうでしょうか?むしろ結果としては誰にもなんの影響も与える事はなかったような気がします、これは本当に自分のこれまでの絵画達を眺めながら堂々巡りのように、それはもはや停止した思考でありそれ以上でも以下でもないものでしかない様に感じられ、とっても惨めな気がして来るのでした。

引っ越しのために整理され部屋の隅にまとめられた絵画達は凄い量で、もし私が絵を描いていなければ私は引っ越しをする際の荷物なんて小さな段ボールが7つくらいだなと考えていました。

その内訳は、ダンボール3つに本が詰まっていて、その他が生活の必需品で終わりです。

私には何も無いのだなとつくづく思い知らされます。

違う視点から見れば、私の絵は未発表の油絵作品が30点ほどとそれ以外は過去に公募展やグループ展、個展などで既に人目に触れた絵画が30点ほど、それ以外の絵画は実家の私の部屋に2年前に運び入れたのがまた40点ほど、私はあまり気に入らなかった過去作品はその上から新しい絵を描いていくので循環しています。

そう思うと私はまだ油絵を200点も描き上げていないわけですから画家とも言えないようなものでして、これまでの8年間の画業に対して余りにも少ないような気さえします。

しかしそれ以上に、芸術によって突き動かされ、絵を描くにあたってたくさんの景色を見て旅をして来た経験はかけがえのないものばかりなのです。それは8年間にはとても収まらないようなものばかりで、その経験一つにつき何点も何点も油絵を書き上げて来た事を思うと尚更、私がもし油絵を描いていなければ今の私はあり得ないという事は今回の引っ越しをしていてよく思うことでもあります。

つまり、私は結局自分の事しか考えられないのでは?と考えてしまいます。

私は有名な画家だからモディリアーニやその他私を芸術活動に駆り立てた画家達を見て来たのではありません、私を創作に駆り立てるか?が全てであり、私はそういう意味で有名になりたいのでは無くて、私は自分も含め、他の人達の中の何かをも駆り立てる絵を描きたいのです。

それは芸術活動に駆り立てるものでは無くて、例えば絵に描かれた場所に実際に旅に出てみよう!!とかこういうふうに日常を見てみようとか!!心に何かしらの小さな変化を投げかける事が出来たらと思うのです。

そうなれば世界は確実に変わってゆくでしょう?

そのための表現活動として、旅をして、日常を生きて、絵を描いて、それを文章に書いて、そういう空間もいずれ作って、人々がそれによって交流できる空間や、団体などを作っていけたらなと思うのです。

モンパルナスや洗濯船、カフェや池袋モンパルナス、こういうもの達は時代をも動かしていく特異点となっているような気がしていますし私の憧れでもあります。

そこには画家だけじゃ無くて、歌手や写真家や詩人や小説家、それ以外にもいろんな事に取り組んでいる人達やそういうものに触れたい人達が分け隔てなく集まり珈琲一杯でなん時間も語り合える空間、そういうコミュニティ、ムーブメントの必要性を私が感じています。

難しいのはそれらの流れの発端がそういうものを意図したイベントならまだ良いとは思いますが、私はそこに何故か?そうなった!というような偶然性を思います。

けれど歴史を見ればわかる通り偶然という事は無いようです、そこに人が集まり時代をうねらす様なムーブが起こった事は必然に感じるのです、そこに集まる理由があり、そこで発展した理由もある。これは結果から遡って見たこじつけにも感じられるのですが、その真っ只中にいた渦中の人達はその時代の最先端で明日がどうなるかもわからない中を必死に生きたという感覚だったと思います。

今を生きて何かをやろうと考えている方々がいて、それの大小に関わらず今の人達は何かの最先端を必死に生きているわけです、これから先の結果から遡れば私達は必然の中を生きているという事です、過去はそうして確定した記憶として残ります。未来に関しては今をどう生きて過去をどう確定させたか?によって蜃気楼の様に立ち昇る幻影の様なもので、今の私達の何かが変化するだけで蜃気楼は立ち所にゆらめき出し姿形を変えてゆくでしょう。

これからをどうしてゆくのか?過去をどういうものとして確定させていくのか?今と言う特異点から見れば過去も未来も同時に今にある!と言う事に他なりません。

私が今日言いたかった事は、ちっぽけな私の想像でしか無いちょっとした夢、それと今を生きる全ての人のちょっとした想い、がこの世界を変えているんじゃないか?と言う事と、だったら私達が世界を変える事ができるじゃ無いか?と言う事です。

ここで私が、いやいや、私にそんな力は無いですよと本気で思うならそんな力は無くなり誰かの未来を歩かされます、それは無関心であり、言われるがままに動くロボットですけれども、私達ら生きているわけです。

別にたいそうな事じゃ無くても良いんじゃ無いでしょうか?あの人が笑って暮らせる様に!とか、あの動物を絶滅危惧種から救いたいとか、あの植物を後世に残したいとか、家系の仕事を途絶えさせたく無いとか、フェミニズム運動に参加するとか、こういう仕事をしたいとか、田舎に移住して農業をやりたいとか、いろんなところを旅したいとか、美味しい料理を作りたいとか、一杯の珈琲に心血を注ぐとか、死ぬまで自分の足で歩いてゆきたいとか、子供達の未来を守りたいとか、宇宙に行きたいとか、ロケットに必要な部品をうちが作るとか、それぞれです。

だけどこういう事の一つ一つが確実に未来を作っているわけですからね。

私が死ぬで絵を描き続け、アトリエをもち、そこで喫茶店を営んで、一杯の珈琲に心血を注ぎ、色んな本や映画を紹介したり出版したりして、いろんな事を議論して、みんなが自分自身というものについて考えて行く。これはとても良い事だし、私にとって良い人生だなぁーと思います。

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