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「"何もしない"が正解に...」 再開発のジレンマ。首都タリンの団地事情 ‐この頃編‐

"こんにちは、こんばんは。

有難いことに前回の「首都タリンの団地事情-歴史編-」はすごく反響を頂きました。こちらは、その前の投稿でエストニアの貧困事情に触れ、その実態、自分も実際に住んでいる団地について詳しく知ろうという想いで書かせていただきました。ソ連が残したMicrodistrict政策が今なおタリンの都市環境に大きな影響を与え続けており、歴史とは過去のただ一点ではなく、そこから連続して未来に関与している物語であることを再確認しました。

ところで、ソ連と言えば社会主義国家だったわけですが、少し実態を変え、社会主義市場経済としてそのDNAは今も中国で受け継がれています。そして資本主義と社会主義のその両方のDNAを引き継いだはずの香港が今大変なことになっているのはご存知の通りです。イギリスやアメリカにSOSを送る香港市民がいる一方で、GSOMIAの破棄を中断した韓国は中国と防衛協定を結んだりしています。国際政治が大きく変化しようとしています。

ここで今、もう一度、かつてのソ連の社会主義とはなんだったのか。投稿の流れから「タリンの団地」という背景を通じ、理解を深めたいと思いました。

今回取りあげた論文はこちら(↑)。「タリンの団地における社会経済および民族的軌跡」です。前回の内容と重複する点が多いですが、なるべく前回の補填となる部分をピックアップし、巻末には、今までを踏まえたうえで(エストニアとは違うのですが)ロシア系ラトビア人がかつて私に話してくれた「民族と家族」についてお話ししたいと思います。

"公平な再配分"

ソ連によるエストニアの併合は1940-1991年まで続きました。併合直後にドイツ軍にソ連が攻め込まれ壊滅的な被害を受け、住むこともままならなくなった難民が目指した場所の1つがタリンでした。1945年から崩壊までの1991年の間で都市の人口は36%増。特に首都タリンでは70%増となります。それまでのエストニア人が所有していた土地を没収し、Microdistrictとして再開発し、優先的にロシア人に提供していたことは前回で取り上げました。Microdistrictとは団地を中心として、その周辺に学校や病院、スーパーや公園を配備し、一定のエリアで生活が完結する都市空間のことです。以下は想像なのですが、冬が長い本国の、しかも広大すぎて人がまばらだった空間と比べ、そこまで寒くはなく、凍らない港があり、買い物するために何時間も歩く必要はなく、目が届く範囲に学校があり、おまけに周りには同胞ばかりだったMicrodisrictはロシア人にとっては地上の楽園のようにも思えたのではないでしょうか。マルクスが提唱した"行き場のない社会主義"という理想の中で、もしかしたら、初めてに近い"公平な再分配"が達成された瞬間だったのかもしれません。あくまでロシア人にとって。"優先的にロシア人に提供"と前回は書きましたが、今回の論文では、その中でも政治家や軍人は好待遇だったようです。圧倒的人気は次々に移民を呼び、住宅の供給が間に合わず、完成の前に、新しい、しかも高機能な団地建設に取り組むほどでした。

アメリカとしのぎを削る冷戦時代

しかし、論文によるとロシア人が優遇されたのは、単に民族としてのアイデンティティが同じだから、というわけではなく、彼らがロシア語ができて、かつ産業部門にて技術力があったからと指摘しています。当時はアメリカとしのぎを削っていたほどの大国ですから、当然軍事産業の技術は高く、雇用もそうした高度技術産業が中心でした。ソ連崩壊前までには、団地の56%がロシア人で、タリン市民全体も61.4%が団地住まいだったようなので、戦後の東京・新宿の半分がアメリカ人みたいな状況です。エストニア人は郊外に追いやられます。この間にエストニア人の1/4の人がロシア語を話すようになったと言われています。

崩壊後の産業構造と経済の立て直しの以降、主要産業および専門職はエストニア語が台頭し始めます。やっとエストニア人にとっての語学的不自由からの解放です。かつてのロシア語による軍事産業等の工場の大部分は閉鎖。自動的にロシア語しかできない労働者は低賃金を余儀なくされました。かつてとは逆の待遇です。ここで見限り、本国に帰っていったロシア人も多くいましたが、上で述べた通り、そもそも団地に住めること自体、供給不足だったため、ラッキーな事でした。本国を離れ、やっとの思いで団地に住むことができ、しかもモダンで超快適で、なんでも身近で手に入る。特にそのことが真新しかった初期の移民にとって、それらを手放すことはできず、このことが現在進む団地の高齢化の一因と言われています。老朽化してきた建物そのものも、彼らにとっては最も楽しかった時代から苦楽を共にし、一緒に老いてきた家族なのかもしれません。今でもリノベーションされていない団地はたくさんあるのですが、決まって居住者の年齢が高いことも鑑みると、リノベーションないし再開発が思い出の破壊に繋がるのかもしれません。なんだか"じーん"ときます。

もっとも、そんなことお構いなしに、
かつて土地を没収したのはソ連政府なんですけどね。

団地は、当時は、中流階級の象徴でした。特に子育て世代の若い人に好まれたようです。それがソ連崩壊、民営化の後に一気に最安値と価値が急落。ボロボロだし、やたら人口密度高いし、しかも半数近く異民族だし、デザインが直線的で緑が少ないことから、エストニア人からは避けられています。

2000年代で約35%、2010年代に入ってからは約50%の団地住民が社会的地位が低い方だそうです(詳しい数字の変遷は追記に)。

再開発か、コミュニティの破壊か

流石に団地が、治安的にも貧困の巣となってはまずいと、ジェントリフィケーションが叫ばれるようになっていきます。

ジェントリフィケーション(英語: gentrification)とは、都市において比較的貧困な層が多く住む中下層地域(インナーシティなど都心付近の住宅地区)に、再開発や新産業の発展などの理由で比較的豊かな人々が流入し、地域の経済・社会・住民の構成が変化する都市再編現象。Wikipediaより

しかし、もちろん一枚岩ではいきません。そうした貧困率が高いのは主にロシア語地区なのですが、そもそもエストニア人側からしてみれば、彼らの住環境を整備することは面白くないし、非線形や自然的デザインを好むエストニア人と線形や(従来の)モダンデザインを好むロシア人とはテイストが違いますし、ロシア人からしてみても、仮に再開発でデザインや住環境が研ぎ澄まされたとして、それにより人気が高まり地価が高騰でもしたら、家賃を払えなくなり、出ていかざるをえなくなる可能性があるのです。折衷案を取ったとしても、そもそもお互いに混ざり合うことを望んでいないので、それまでの社会主義的性質の高いロシア人コミュニティの存続が脅かされたりと、結局"なにもしない、なにもできない"という方針になってしまうのです。

家族という砦:ロシア系ラトビア人の話

ここまで調べ、内情を知るにつれて、ふとロシア系ラトビア人が以前私にしてくれた話を思い出しました。ラトビアと言えばエストニアの隣国で、同じような歴史を歩んできた国ですが、エストニアと比べ、よりラトビア人としてのアイデンティティの結束が強い国です。人口の1/4がロシア系であるにも関わらず、最近高等教育でのロシア語の使用を禁止する法律を施行したくらいですから。地元のニュースによるとロシア系学生でラトビアからエストニアに流入する数が増えたそうで。

記事によれば、そうは言っても受け入れの大学では英語が主流らしいので、ロシア語ともかく、ロシア系というだけで世間の目はラトビアでは一層冷たいのでしょう。そんな彼女に、学部生時代の留学レポートの一環でラトビアについてインタビューしたことがあります。他9人にもラトビアやロシア、日本、クールジャパンについて尋ねたこと(当時2016年)をまとめていますので、ぜひ覗いてみてください。

質問「他のヨーロッパの人々と比べてラトビア人とはどのような特徴がありますか」

彼女の回答「まあ、イタリア人などと比べると内向的で同人種で固まりがち、フレンドリーさには欠け、他人をそう信頼することもないわね。でも、異文化には興味を持っているよ。それに、同人種で固まりがちなのはラトビア語がラトビア人にしか使われていない、そのことで生じる心の壁があるんでしょうね。ー(ラトビア人同士でもあまり信用しないのですか?)ーそうね、私達は家族を大切にし、また家族内で“固まる”の。家族が単位ね。他の家族と交流は難しいのよ。なぜだかわかる?例えば私はロシア語話者の家庭で生まれた。でも、彼氏はラトビア語話者の家庭。最初は私のラトビア語が不自然だったから彼の家族にはなかなか素直に受け入れてもらえなかったのよ。

これを聞いて当時は唖然としたことを今でも覚えています。そんなこと考えもしなかったなって。

あとがき

エストニアという文脈では往々にして「ロシア(人)と言えば敵」みたいな風潮で語られます。特に日本語の記事において「エストニアは対ロシアの防衛戦略として電子政府(特にData Embassy)を位置付けている」という、はっきり言えば、いかにも近視眼的でわかりやすい的外れな見解が見受けられます(これについては後に記事にします。エストニアとしてはもっと大きな野望を抱いています)。しかしながら、前回と今回で見てきたとおり、ソ連とロシア、そしてロシア人は別個の概念です。確かにソ連人はエストニアの文化やアイデンティティを破壊しました。しかし、それ以前にはナチスドイツがそれ以上に街を破壊(かつてのドイツ(13世紀以降)が建てた旧市街を除く)し、なんなら今エストニアの団地に住んでいるロシア人からすれば、何にもしない政府を恨んでいることでしょう。お互いを知ること、双方が大事にしていることとその理由を、お互いが認識し、歩み寄る必要があることは、何もエストニアとロシア人に留まらない、歴史の上に生きる我々に課された課題でもあります。

さて、難しいのはここからです。どうしたら、そうした憎しみや哀しみを越え、かつ「仲良くしましょう」等の精神論に陥らず、法や経済といったシステムの中で、人間中心の原理を忘れずwin-winな関係の中に落とし込めるのでしょうか。その解の探求の記録として引き続きnoteを綴っていきたいと思います。

追記(データで見るタリンの団地人口と構成の変遷)

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画像は論文より(下記の画像も同様)

ドット模様が都心、横じまのエリアが郊外。濃い緑の地区が主な団地エリアです。赤い棒がそれぞれそのエリアの人口の大きさを表しています。

ソ連による団地開発は北部(Northern)の都心から始まりました。郊外としては南西のMustamäe地区が最初です。初期の団地建設スタイルとしてはこじんまりとした5階建て(*)が多いらしく、今でも残っているようです。次に開発が進んだのがその左隣のHaabersti地区で家族向けに大型のものが多く、その後東側のLasnamäe地区と開発が進んでいきます。前回見てきたとおり、この最後のLasnamäe地区がもっとも建設技術が高かったこともあり、より大型でより密集した団地(十数階建が多い)となり、翻って現在最もロシア人の割合と貧困率が高い場所でもあります。

追記(11月27日)
*5階建てなのは、当時の衛生法(?)によって6階以上の場合はエレベーターの設置が義務付けられていたからだと言われています。高層化の変遷はエレベーター技術の変遷だったのかもしれません。

画像2

少し見づらいですが、E/R/Mがそれぞれロシア人が、少ない/多い/中間を意味しており、緑色の濃淡が濃い方からそれぞれ、高い/低い/中間の社会的地位を表しています。左上、右上、左下から順に1989年、2000年、2011年です。

これを見ると北部や東部のLasnamäe地区は1989年当初からロシア人が多く、社会的地位の低い割合が高いことがうかがえます。Mustamäe地区が比較的民族が混ざり合っているのは近くに大学が位置しているためで、流動性の激しい学生やその卒業生が文化/民族のブレンドを担っていると言われています。

ええ。私がそうです(笑)

画像3

上の表はタリンのおける地位と民族構成に関するものです。色枠で囲った目立ったものだけピックアップします。

青枠のものはロシア語話者(エストニア人も含む)に関するデータです。タリン市全体としては減少傾向にあるものの、2列目団地住まいの方で見れば増加傾向にあります。
さらに、小さい赤枠ではソ連崩壊後都心の団地に住んでいたロシア語話者は急激した一方で、郊外の割合(大きな赤枠)は増加しています。

緑枠では市全体の高齢化よりも団地住まいの高齢化のスピードが早いことがうかがえます。また、1989年では団地の方が平均年齢が低かったことから、若い人に人気があったことが見て取れます。

次回はケーススタディを越え、より大きなコミュニティという概念で、うまくいっているコミュニティは何が違うのか、という点を洋書の紹介を踏まえながら探っていきたいと思います。"

神長広樹

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