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哀しくも深い。首都タリンの団地事情‐歴史編‐

”こんにちは、こんばんは。

前回はですね、自分も住んでいる団地について調べようと思ったきっかけともいえる高齢者の貧困事情について取り上げました。実に35%の方がOECDにより貧困と位置付けられ、約50%が貧困予備軍であるという衝撃的な事実をお伝えしました。あまりハッピーとは程遠い内容なので"スキ"の数が寂しいのが残念に映りますが。。。よかったら"読んだよー"という証で押してってくれますと励みになります。。。

このシリーズは好奇心だけで突っ走る自転車運転のような感じで出口がどうなるのかわからないのですが、気持ちとしては明るい展望ないし方向性の模索を目指しています。そこで今回は、そうは言っても事実、もとい歴史を正しく知らなくては絵に描いた餅だろうということで、"Population Shifts and Urban Policies in Housing Estates of Tallinn, Estonia"、題して「エストニア、タリンの住宅団地における人口シフトと都市政策」という論文を一緒に見ていきたいと思います。

"人口シフト"とあるのですが、大まかにタリンの団地の変遷・歴史と捉えていただけたらなと思います。

1940年代の独ソ戦が大きな転機となった

時は第二次世界大戦の最中。ソ連はファシスト勢力の台頭に強い危機感を抱いていましたが、1941年ドイツのバルバロッサ作戦に不意を突かれ、首都モスクワの目と鼻の先まで攻め入られてしまいます。特に農地が壊滅的にやられ、国民をどう食わしていこうかという危機的状況に。

そこでドイツの侵略以前に奪取したニュータウンであるタリンに期待が寄せられます。急増する移民の受け皿として多くの団地が設立されました。1989年の国勢調査ではタリン市民の約半数がロシア語話者で多くが団地住まいだったそうです。

Microdistrict

そこではMicrodistrictと呼ばれる空間設計が取られました。団地の周辺に保育園、学校、お店や公園を確保し、一定のエリア領域で生活が完結する設計です(確かに私の団地周辺にも"ロシア人ストア"と呼ばれているお店や幼稚園があります。これを読むまでその歴史的背景は知らずに過ごしていました)。これが大人気を博します。なんせ本国はボロボロで広大。対してこちらはぎゅっとコンパクトで、"歩いて行ける範囲で完結"。ますます増加する移民に対し、供給を間に合わせるため、統一規格を定め、大量生産可能にしました。それでもどんどん人が流入し、この需要が新規開発(技術進化、新デザイン)を促します。途中から現在建設中のものを宙ぶらりんにして、新しいものを設計、建設し始めるなんてこともざらでした。

そうした新しいMicrodistrictにはロシア人が優先的に、エストニア人は旧型モデルに住むことを余儀なくされます。Microdistrictは交通の便にも優れた場所が選ばれました。トップ画の写真はタリン工科大学付近なのですが、確かにこの通り沿いに団地がたくさんあり、中心地である旧市街まで一本道で行くことができます。

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ぜんぜんそんなこと知らなかった。。。

なお論文でもMicrodistrictの例としてこの大学周辺のMustamäe地区が挙げられていました。Googleでこの地区名を画像検索してみても出てくるのは団地ばかりです。

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「団地マジ最高!超快適だわ!」ってなるんですね。移住してきたロシア人にとって。本国は壊滅的な被害で、片やタリンは当時の現代建築が結集したモダンな暮らしがありましたから。平等を掲げる社会主義もあり、そのモダンもロシア人だと全員享受できました。

しかし、もちろんエストニア人にとっては面白くありません。表立って反対はできないものの、静かに着実に両者の確執は深まっていきます。

そしてソ連崩壊

国家からの支援は途絶えるわ、仕事は失うわで、多くのロシア人は祖国に帰ります。体制が逆転し、それまで圧倒的多数であったロシア側が少数側になります。政権もエストニア人の手に戻ります。

どうなったか

政権側は関わりたくないと団地は民間に売却(また維持するお金がなかった)し、特に政策としてMicrodistrictをどうこうすることはなく、放っておきます。放っておかれた側もなんせ生活がそこで完結するので特に危機感を持つこともなく、そのまま維持されます。

自己完結の居住区。それは永遠にエストニア語とロシア語が交わらないことを意味します。高齢者の貧困35%。もしかしたら(おそらくそうだと思いますが)、その多くがロシア人で歴史と政策の中で隔離されてしまった、"何もしない"というエストニア人の逆襲とも呼べる仕打ちに渦中にある人たちなのかもしれません。もちろん政権側としても、支援することは国民の反発を買うでしょう。なんとも哀しい歴史が今も生きています。

現代

かく言う私がそうなんですけど、新移民(留学生を含む)にとって団地はやっぱり手ごろな価格なので仮住まい(生活が安定するまでの居住地)として人気になります。そうなると、ロシア語でもエストニア語でもない言語人が混ざります。

ええ!廊下ですれ違って挨拶しても無視ですよ
まあ、それはそれで気楽ですけどね!

90年代。団地の98%が民営化されました。とは言え、民間に経営ノウハウや管理スキルが乏しかったため、非金銭的支援としてEstonian Union of Apartment Association (EUAA、アパート組合)が設置され、経理やリーダーシップ、提携やマネジメントなどの向上を図る組織が頑張るようになります。リノベーション、片付け、付加価値の創出を図っていきます。

ただし、民営とは言え、いちオーナーが棟ごと運営するのではなく、部屋ごと、所謂分譲が大半なので、未だに周辺の公共スペースやインフラ整備には達していないという状況です。

2000年代。ようやく政府も街全体を見据えたシティプランを模索し始めるが、思い出してください。主要道路、そこそこの一等地にあったはずの団地はほぼすべて売却してしまい、政府としてどうこうできる主要なエリアはほとんど残されていないことに。今や車社会。立地条件が最重要のはずなので相当悔やんだでしょうね。仕方ないので、当時宙ぶらりんで放棄された団地やエリアを再開発(病院やスポーツジム、学校、公園に)していきます。

この頃からは経済もひとまず安定してきたので、エネルギー効率の観点からリノベーションに対しては政府も補助金を出すようになります。

団地とは違いますが、今やエストニアスタートアップの聖地とも呼ばれるTelliskivi Creative Cityもこのころにできたものと思われます。

1979年まで稼働していた発電所もリノベーションされてエストニアスタートアップの祭典Latitude 59等の会場に使用されるイベントスペースになりました。

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2010年以降はそこそこ大規模な(居住地の)シティプランは消え去り、団地間の公共スペースの再設計など小規模にとどまっています。その代わりに国際間の交通の要所、タリン空港の拡張ザハ設計の新港、同じくザハ設計の鉄道駅などが目玉となっています。

(ザハ特有の非線形な様式が角ばったソ連形式と違って良い、というのはわかるのですが、非エストニア人、しかも故人のデザインを選ぶというのは不思議な気もします。実際にエストニア人の意見です)

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追記(11月27日)
こちらがザハ設計の新鉄道駅なのですが、これ、電子回路・マザーボードの一部に見えるのは気のせいでしょうか?この鉄道はリトアニアのポーランドとの国境付近までつながる予定です。ひょっとしたらひょっとして、異なるエリアを繋ぐ回路上で、人が電子の役割をする。電子国家で有名なエストニアはe-Estoniaと呼ばれたりしますが、「主役は人」というメッセージの表れなのかもしれません。

老人ホームが建てれない?

高齢化はもちろんエストニアでも課題の1つです。政府も、特にMicrodistrictに住まいのご高齢の方向けに、新たに公営住宅を作ろうとしました。しかし、それ自体がポスト社会主義の超自由主義に反すると批判を受けます。

残された2%の公営団地もわずかであるため、適切なマーケティングができません。前科者向け、孤児向け、要特別介護者向け、高齢者向け、大家族向け。どれかを選べば、選ばれなかった層から批判され、かといってすべてに提供できるほどのストックがないのです。

とりあえず2010年代に看護師と先生(前回見た通り低所得者)向けに提供はしました。これに関してはまあまあ評判はいいみたいです。

一方で資本のある民間は裕福層向けにデザインされた(リッチな公共スペース。特にIT企業に勤める若者を対象に子育てしやすい設計)団地を提供し始めます。スカイプ本社の周りでは「これマジ団地かよ」ってくらい豪華な団地(団地って何???)が見られます。ロシア人向けには一周回ってモスクワやサンクトペテルブルクのデザインを模倣したものをデザインするようになりました。

とは言え、どちらの戦略もGated Community、コミュニティの促進と言えど所詮は塀のこちら側で終了してしまうものに過ぎず、かつて言語・民族で住む場所がわかれたように、収入によって隔たりができてしまう等の新たな分断が生まれています。

NPOという希望

それではいけない、とNPOを中心に世代間、建物間交流を促すイベント開催が最近では多くなってきました。Lasna-Ideaという団体ではピクニックや、講演、映画上映などの開催を通じて、従来の団地イメージの刷新を図っています。

おわりに

タリンも3年目になるのですが、なんなら今現在ソ連時代に建てられた団地に住んでいるのですが、上で見たように周りにお店があるので半径300mで完結する生活ができるのですが、調べてみるまで全くそれらの歴史的意図を知らぬまま生きていました。恥ずかしいです。。。

良い悪いは置いておき、歴史的な変遷は現在に対してとても理に適っているように写るじゃないですか。これに感動して、彼女であるウクライナ人に調べたことを伝えたら、

「あんなそんなことも知らずに、ここに住んでたの?」と

カウンターパンチを喰らいました。旧ソ連圏の人にとって、誰でも知っている常識らしいです。世界は狭くとも、勉強によって広げることができるのですね。

次回もご期待ください!”

神長広樹

追記


コーヒーをご馳走してください! ありがとうございます!