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心に響いたnote集

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心に響く言葉の裏には、その人の人生観と、辿ってきた歩みが垣間見える。そんな素敵な言葉は新たな気づきや、勇気をもらうことが出来る。
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記事一覧

はじめて専業主夫として丸1年、子育てをしてみたら。

2022年ほど、濃密な1年はなかった気がする。 1年前、2021年は転機だった。それまでしていた仕事を全部辞めて、妻の仕事でアフリカのセネガルに家族で引っ越し、はじめての専業主夫になった。 見知らぬ不便なはずの土地での子育てに、必要なのは「覚悟」だと思っていた。それが1年が経ち、今に対して真っ先に感じるのは「心地よさ」だ。 心地よさが過ぎてか、最近は死について考えることが増えた。これまで興味のなかった死生観に関する本も読むようになった。 35年も生きていれば、「人はそ

さよなら東京

大学生になったときから十年ちょっと住んだ東京を離れ、地元に帰ってきました。 もう一ヶ月ほどになります。 この決断に至るまでに、いろんな感情や理由があったのだけど、今は少しほっとしています。 まだ未成年の真っ黒に日焼けしたじぶんが、たくさんの希望を抱えて出てきた東京。 標準語もマスターした。 キャンパスの紹介画像で見た、銀杏並木も(臭いけど綺麗)、でっかいクリスマスツリーも(もみの木ではないらしい)、新しく出来た友だちと眺めた。 行列のできる店にも、星付きの店にも行って、美味し

終の住処、リフォーム完成

祖父を数年前に亡くしてから、山に囲まれた電波も入らない地で、一人暮らす祖母。 少しずつ体も弱り、「おじいさんに早く迎えに来てほしい」「寂しい」と電話越しに言う。 部屋も荒れ、実の娘である母たちまで、泊まるのを敬遠する。 体調も悪化しいろんなことが自由に出来なくなり、一人で死を待つことの心細さ。今のわたしには少しは分かる気がした。 子ども部屋と称し、孫であるわたしたちが遊んでいた離れ。 あの頃から20年以上が経ち、畳や床が朽ちてしまっていた。 今こそ結婚資金として貯めていた

あの1通のメッセージが、旅行ライターになる背中を押してくれた

旅をすることが好きだった。 そして、文章や写真で旅を伝えることも好きだった。 旅行ライターを志したのは、そんなシンプルな理由だ。 でも、それだけではなかった。 なんの夢もなかった僕が、旅行ライターに挑戦することになったのは、背中を押してくれるきっかけがあったからだ。 それは、ある初夏の日に届いた、1通のメッセージだった。 旅をして、文章や写真でそれを伝える。 そんなことを僕が始めたのは、中学生の頃だった。 自分でホームページを作り、そこに旅行記を載せていたのだ

39歳を迎えた稀人ハンターの宣言。

39歳の宣言。 先日も少し書いたけど、最近、「仁」というドラマにはまってしまった。現代の医師が幕末にタイムスリップしてしまうという内容で、第一弾が2009年、第二弾が2011年に放送された。 5日間ほどで全22話を見たが、幕末の志士たちと医師との交流がひたすらアツく、何度涙したかわからない。これほど胸にグッとくるドラマがあっただろうか、いや、ない。 特に医師と坂本龍馬の友情には、しびれた。そして、恥ずかしながら坂本龍馬のスケールのどでかさをこのドラマを通して初めて知った

広告制作会社を退職して、これから。

こんにちは。くりたまきです。 2019年9月20日で2年間働いた広告制作会社を退職しました。 ちょっと大きめな制作会社で、異業種未経験28歳からコピーライターとして働かせてもらいました。とても幸運だったと思います(その前は経理の仕事をしていました)。 いまのじぶんの仕事の基礎は、この会社で築いたものです。イチから文章を書くということを学ぶことができました。そして、なにかを「つくる」仕事の楽しさも教わりました。 コピーライターになるまでは、このnoteに書いているので、よ

死とは思い出すこと

1月の末、おばが突然亡くなった。火曜日まで普通に出かけていて、その夜に亡くなったらしい。二世帯住宅で上に住んでいた弟が、水曜日に一日中物音がしないので見に行ったら、すでに亡くなっていたのだそうだ。眠るように。 それからなんだか、どうにもnoteを書く気がしなくて、ずっとほっておいた。近い家族が亡くなるということは、自分の一部分もともになくなってしまったような気がするのだ。取材して人から聞いた話を原稿にまとめることはできたけど、自分の中からアウトプットする気力がどうにも湧き出

出ていく娘へのラブレター

娘は今、大学4回生。 来年の春に社会人となり、ひとり暮らしを始めることが決まった。 この夏は、娘と同じ屋根の下で暮らす最後の夏になる。 娘は長女として22年前に生まれた。 体つきは標準。とにかく寝ない赤ちゃんだった。 「赤ちゃんは一日の大半を寝るんじゃないの?」と育児本を読み漁ったが無意味だった。娘は1時間半続けて寝れば良いほうで、おかげで私は常に寝不足だった。 生後4か月を過ぎると、本格的な夜泣きが始まった。アパートの隣人に迷惑になるので夜中にベビーカーを押し、前の

夢を託す、ということ。

「いつか国際協力の仕事がしたい」 10年以上前、そんな夢を持つようになったきっかけがあった。 なかなか就活する気になれず、まったく気乗りせずに行ってみた、はじめての合同企業説明会。 とりあえず、みたいな心持ちで少し興味のあるブースに行って話を聞いたら、「あ、これだ」と直感した。これが自分がやりたかったことだ、と。 「自分は何をやりたいんだろう……」 それまでずーっと考えていたことなのに、その答えを一瞬にして見つけた感覚だった。 机上で考えるよりも行動してはじめて見

子が親を育てる。

この半年、主夫として子育て中心の生活をしながら気づいたこと。それは、子どもは「育てる」というより「育つ」ということだ。 このnoteで書いたとおり、2021年にそれまで住んでいた東京からアフリカのセネガルに家族で引っ越してきた。 なにもかもが異なる地で、わけがわからないながらも、子どもたちはすっかりセネガルでの暮らしに馴染み、溶け込んでいる。 幼稚園には言葉は通じないけど友だちのような子が何人かできていて、僕も知らないフランス語をいつのまにか覚えていたりもする。 その

サッカー・アフリカ王者が決する瞬間をセネガルで観てみた観戦記。

試合が終わって2時間以上が経つのに、外から聞こえる車のクラクションの嵐や雄叫び、ブブゼラみたいなうるさい音が静まる気配はない。 こんなにも盛り上がっている光景を見るのは初めてかもしれない。 大人が子どもみたいに大はしゃぎしていて、雄叫びをあげたり飛び跳ねたり歌ったり踊ったりと、ドンちゃん騒ぎだ。 これを書きながら、僕も久しぶりに興奮が冷めやらない。 なんたって、自分が暮らすセネガルがアフリカ・ネイションズカップで初めて優勝したのだから・・・!!! サッカーに興味のな

方位を誤ったら、そっと思い出して。

かつて好きだった人が、NHKの某番組に出ていた。 プロフェッショナル人の仕事場のメンバーとして、背景とほぼ同化するように映り込んでいた。 最後か、最後から2番目ぐらいに会ったとき、件の業界に転職したとは聞いていた。 給料ほぼ半分に減ったと笑いながら、その表情は充実感をにじませていた。 転職は間違いではなかったらしい。 プロフェッショナルに従事する一瞬の、小さな荒い姿に、ホッとする。 涙は出なかった。 ただ、無性に吐き出したい。 *** 彼は私にとって唯一無二で、不思議

45歳で夢ができた。働くことがお金をもらう手段から人生の幸福度を上げる手段に変わった。

パン屋さんに、俺はなる!!  なんて、なんかの王になりたいみたいな言い方をしている僕は、数年前までただただ今いる会社の仕事を淡々とこなすだけの男だった。そこには何か希望に満ちたようなことがなかった。あったのかな。探そうともしなかった。  家族がいる。奥さんと子供2人。養わなければいけなかった。生活しなきゃいけなかった。ご飯を食べなきゃいけなかった。子どもに習い事させたいし、電気に水道に電話代に。。。あ、タバコがもうすぐ切れる。買わなきゃ。。あの服かっこいいな。この靴ほしい

日本人がNASAで働くには

このnoteは日本の大学を卒業した筆者が、コネクションゼロの状態から、アメリカの大学への留学を挟まずに、NASAへの就職を果たした過程を記録したものです。これからNASAを目指す人、また夢を叶えようと努力している人の考え方のヒントになれば幸いです。 一度きりの人生をかけてこれをやる2012年の夏、NASAの1機の探査機が火星に着陸した。キュリオシティという名のその白いローバーは、胴体からまっすぐに伸びた首の先に大きな目玉がついた頭を持ち、足についた6つの頑丈な車輪で火星の荒