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はじめて専業主夫として丸1年、子育てをしてみたら。

2022年ほど、濃密な1年はなかった気がする。

1年前、2021年は転機だった。それまでしていた仕事を全部辞めて、妻の仕事でアフリカのセネガルに家族で引っ越し、はじめての専業主夫になった。

見知らぬ不便なはずの土地での子育てに、必要なのは「覚悟」だと思っていた。それが1年が経ち、今に対して真っ先に感じるのは「心地よさ」だ。

心地よさが過ぎてか、最近は死について考えることが増えた。これまで興味のなかった死生観に関する本も読むようになった。

35年も生きていれば、「人はそう簡単には死なないこと」も「人はあっけなく死ぬこと」も、それなりにわかっているつもりだ。

だけど自分の、あるいは家族などの死期なんてものはわからない。もしかしたら、そう遠くはないのかもしれない。

それでも、僕自身は仮に今死んでも後悔はあまりないかなと思う。

そんなことを思えるようになったのは、この1年を過ごしてからだ。

日本とは異世界な環境に1年以上身を置いたことで、身近にあるささやかな幸せに気づけるようになったことも大きい。

子育てという、喜怒哀楽をジェットコースターのように味わう日常の濃密さ、何より子どものちっちゃな成長に、いちいち感動する尊さに勝るものはない。

10年前、社会人1年目だった頃の僕は24時間戦うかのごとく、滅茶苦茶に働いていた。

当時は「上」ばかりを目指していた。「下」があるとも思っていた。だから現状を肯定するなんてありえなかった。

それがある人と出合って、少しずつ価値観が変わっていった。

その人は、人生において「縦」なんて全然見ていない。ただ「横」を大事にする生き方だった。

仮に、人生に「縦」と「横」の軸があるとして。

「縦」の軸がキャリアアップとか言われるような仕事や社会的地位のようなものなら、「横」の軸は人生の豊かさをあらわす。

「上」にしか視野が開かれていなかった10年前の自分なら、専業主夫になって、その今が充実しているなんて信じられないだろう。

でも10年も経てば、否応なく人は変わる。

僕も少しずつ「横」を大事する生き方になっていて、いつの間にか「縦」という軸の概念はほとんど消えていた。

今暮らしているアフリカ・セネガルでの生活はあらゆる面で刺激的だ。でも最も刺激を与えてくれるのは、そのセネガルですくすく育つ子どもたちの存在だ。

大人の事情で、子どもたちはいきなりアフリカに連れてこられた。4歳と1歳なりに生きてきた世界は一変した。

わけがわからない言葉を喋る、見た目の違う人たちを前に、ポカンとしていた上の子は5歳になった。

日本の幼稚園の頃から成長曲線を下回る小ささだったのが、セネガルの幼稚園では他の子どもがみんな大きく、さらに小さく見える。

身長は一向にあまり伸びない。でも内面は大きく成長した。

セネガルの幼稚園に丸1年通ったことで、言葉をはじめ、わからないなりに理解できることも増え、堂々と幼稚園児をやっている。

幼稚園の友達の誕生日会やクリスマスパーティーにも、この1年でたくさん呼んでもらえるようになった。そうして親である僕の視界まで広がっている。

もっと苦戦すると思っていた。

幼稚園での子どもたちは何かあっても言葉が通じない、相手が言っていることも理解できない。

フランス語しか存在しない環境に「もうようちえんいきたくないっ!」と振り回されることを覚悟していたのに、そうしたことがない。

この1年で2, 3回、朝起きてしんどそうなときがあった。

子:「なんか、きょうはちょとしんどいなー」
僕:「じゃあ、どうする?」
子:「うーん、きょうはようちえん、おやすみしよっかな」
僕:「OK」

そんなやりとりがあっても、次の日にはまた楽しそうに幼稚園に行く。そして帰ってきたら、幼稚園での出来事を嬉々として話してくれる。

なんでもお兄ちゃんと一緒じゃないと気が済まない妹は、なぜか休むことにはつられず、自分は幼稚園に行くと言い張る。風邪もひかないから、9月から通う幼稚園では皆勤賞かもしれない。

その下の子は今週、3歳になった。

こちらも幼稚園では最小サイズ。2人とも、子どもの頃にずっと一番チビだった僕のポジションを見事に受け継いでいる。

下の子は少し前まで赤ちゃんだったのが、もう言葉でコミュニケーションをとれるようになってしまった。

自分はもうおねいちゃんのつもりらしく、なんでも自分でやりたがり、日々いろんなものをこぼしまくっている。

子どもの成長は速い。そんなことはわかっているつもりでも、こんなにも速いのかと驚かされる。

今のかわいさが別のかわいさに置き換わっていく。のだけど、今のかわいさの勢いが余りすぎていて、こっちの処理能力が一向に追いつかない。

子どもの写真は正面からのものが圧倒的に多い。でもたまに、後ろ姿を撮ってみる。

子どもと同じ目線になるようしゃがみ込むと、子どもが見ている、子どもだからこそ見えている世界を、少しだけ垣間見れるような気がする。

自分の170cmくらいから見ている世界と、100cmに満たない高さから見えている世界。

同じ景色を見ていても視座が下がれば、動物の目線とも同じ高さになって、迫力もなかなかだ。

子どもの後ろ姿は、それはそれで趣がある。

こうして兄と妹が肩を並べて撮れるのもあと数年、後ろ姿を撮らせてくれる時期だって限られている。

この1年も写真や動画はたくさん撮った。

でもいくら記録に頼っても、記憶はどんどん上書きされてしまう。だからたぶん、今感じているこの感情も思い出せなくなっていく。

いつか、この「今」の何気ない日常がたまらなく懐かしくなるときがくる。「今」という日常は、少しずつ思い出になっていっている。

「子育ては終われば一瞬だよ。なんていうのかな、儚い」

子育ての先輩が、そう言っていた。子どもから相手にされなくなっている彼を見ていると説得力があって、その儚さをリアルに感じる。

子どもたちにとって5歳の体験は5歳のときにしかできないし、大人にとっては2歳のかわいさは2歳のときにしか味わえない。

だから自分にできるのは、子どもとの「今」を精一杯生きることしかない。

僕は仮に今死んでも後悔はあまりないかなと思っていた。でもこうして書いてみて、やっぱり後悔するなと思い直した。

子どもたちのちっちゃな成長に、いちいち感動する日々を味わい続けたいし、その先にあるものを見てみたい。

今にこれ以上は望めないけど、願わくば、1年後も3年後も5年後も、12月25日の朝、クリスマスプレゼントを開けて喜び狂う子どもたちを見れたらなと思う。

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