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死とは思い出すこと

1月の末、おばが突然亡くなった。火曜日まで普通に出かけていて、その夜に亡くなったらしい。二世帯住宅で上に住んでいた弟が、水曜日に一日中物音がしないので見に行ったら、すでに亡くなっていたのだそうだ。眠るように。

それからなんだか、どうにもnoteを書く気がしなくて、ずっとほっておいた。近い家族が亡くなるということは、自分の一部分もともになくなってしまったような気がするのだ。取材して人から聞いた話を原稿にまとめることはできたけど、自分の中からアウトプットする気力がどうにも湧き出てこなかった。ただ1カ月経って、少し落ち着いてきて、noteを再開したいと思うようになった。再開する時はおばのことを書こうとずっと思っていた。それが私なりの彼女への追悼になると思ったから。

これはとても私的な、プライベートな文章になると思うし、オチなんてものもないし、ただ私の心の中を整理するために書く文章だ。だから少しおかしなところがあっても、それは許してほしい。

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おばは父の姉だ。生涯独身だったこともあり、私や弟のことをかまって、かわいがってくれた。二世帯住宅で2階が我が家、1階が祖父母とおばの家だったので、距離はとても近かった。

ピアニストでもありピアノの教師だったので、子どものころピアノを習っていた時は、ちょっと嫌だなと思ったこともあったけど。家族がやっているからといってそれを習わせるのは、あんまり良くないと思うんだよね、近すぎて。そういうことはおとなになってからわかるんだけど。でも絶対音感が備わったし、クラシック音楽は今でも好きだ。

ちなみに母の姉も独身で、母には兄もいるけど子どもができたのはだいぶあとだったこともあり、女で、おば2人の子どもでもおかしくない年齢の私は特に2人にかわいがってもらった。20歳になって堂々とお酒が飲めるようになったときに、みなとみらいの美味しい焼き鳥屋さんに2人が連れて行ってくれて、日本酒と焼き鳥を楽しんだことは今でも忘れられない。でも2人とも、もういない。

社交的な人で、友達も多かった。大学時代はパリに音楽留学をしていて、フランス語が話せて、ワインにも詳しい。フランスにもたくさん友人がいる。でも自分のことはあんまり話さない人だった。照れ隠しで蓮っ葉な態度を取る人でもあった。自分のやったことについて「たいしたことないよ」といつも言っていた。

65歳を過ぎたぐらいから物忘れがひどくなり、たぶん認知症の初期症状だと思うのだけど、それまでのおっちょこちょいに輪をかけて、「大丈夫?」と思うようなことも多くなった。生徒さんとのレッスンの時間を忘れて出かけてしまったりとか……他にもあるけど名誉のためにあんまり書かないでおこう。

私、母、弟、おばはみんな近くに住んでいるので、誰かの誕生日には集まってご飯を食べる機会も多かった。この大晦日とお正月も集まってご飯を食べた。おばは70歳になっていた。まあこりゃ本格的に認知症になって、あと10年もしたらガッツリ介護かしら。そんなことも考えていたときに、突然いってしまった。

緊急事態宣言下でもあり、寒い冬でもあるので、お葬式はほんとうにこじんまりと、家族だけでするつもりだった。でもさすがに、親友だけには知らせよう。よく彼女の話に出てきていた数人だけには連絡をした。そうしたら、1日2日のうちにあっという間に話が回って(こういう時の連絡は光の速さでまわる)、参列したい、という方がものすごい勢いで連絡をくれた。

とはいえ斎場も小さいところにしてしまったし、コロナ禍でもあるし、できるだけ少人数で…という話をしたのだけど、結果的に30人以上の方が来てくださった。小さな斎場は人でいっぱいになった。(葬儀から3週間以上が経ったが、感染対策も徹底し、その後体調不良の方なども出ていないことは一応書いておく。)

来る前から泣いている方もいた。私に「姪御さん?」と話しかけてくれ、「あなたのことをとてもかわいがっていたのよ」「よく話していたのよ」とも言われた。おばは、ああ、すごくたくさんの方に愛されていたんだなということを知った。そして彼女が、私や母(義妹にあたる)のこともよく話題に上げていたことも知った。それを聞いたときは涙があふれて止まらなかった。

どちらかというと家族は、最近はいつもそばにいて心もとない彼女の姿ばかり見ていたから、亡くなってしまったことも突然でびっくりしてでもどこかで受け入れていて……という気持ちもあった。けれど、第三者から語られる身近な人の姿は、胸に刺さるものがあった。

慕ってくれる生徒さんたち、音楽仲間たち……集まった彼らが語るおばの姿は凛として気さくできっぷの良い、とてもすてきな女性で、家族に見せるぶっきらぼうで蓮っ葉な一面とはかなりイメージも違っていた。でも、それも彼女の人生だったし、むしろそちらのほうが大半を占めていたのだろう。作家の平野啓一郎さんが「分人主義」をとなえているけれど、家族の前での分人と、彼らの前での分人は違う、そういうことなんだろう。

お葬式が終わったあとも、参列を遠慮した方がお参りにきたい、といって次々に訪れてくれた。本当に突然亡くなってしまったので、いろいろな手続もあり、おばのことを考えない日はない。生きている時はまったく思い出さない日の方が多かったにもかかわらず、だ。

死んでからこんなに思い出すのだったら、生きているときにもっと会っておくべきだったのではないか。仕事の忙しさにかまけて、すぐそこに住んでいるのに足を運ぼうともしなかった自分は薄情なのではないか。そんな気持ちばかりが襲ってくる。だけど思うのだ。その人の存在は死によって星の最後の超新星爆発のようにインパクトを与え、抜けない棘のようになって関わったすべての人の心に突き刺さるのではないかと。それは生きているときにはできないことだ(一部の特別な才能を持っていたり、スターのような人は別として)。

肉体はなくなり、もう直接話すことはかなわないが、それぞれの心のなかに彼女は生き続けるのだろう。もちろん私の中にも。今はおどけて愉快に話しながら笑顔の彼女ばかりが思い出される。こんな文章を書いたことに、「恥ずかしいからやめて」と言われるに違いない。それはごめんね。でもたくさんたくさん、ありがとう。


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