図1

プロフェッショナルとは、「お客さんの方が楽しい」ことである。

「あなたにとってプロフェッショナルとは?」

「プロフェッショナル 仕事の流儀」という番組で、
最後にその回のゲストに聞くやつ。

自分が出演することがあったらなんて答えようかなぁと、
自意識過剰にたまに考えていたのだが、
最近答えがひとつ(エンタメ界隈限定ではあるが)まとまった。

それは「お客さんの方が楽しい」ということ。

“舞台を見たい人より出たい人の方が多い”といわれる

昨今の状況から、逆説的に導き出された答えではある。

アマチュアとプロフェッショナルの線引き…
もといもうちょっとズームしてみると、
ハイアマチュア(≒セミプロ)とプロフェッショナルの線引き、は、

「つくってる自分がいちばん楽しい」

「お客さんの方が楽しい」

のあいだにある、という考えに落ち着いた。

これはたぶん、根深い。

雑な例えで言うと要するに、
相手も気持ちよくして自分も気持ちいい、

愛する人との最高のセックスを知らないと、
ハイ風俗やハイAVが最上だと思ってそこから動かない、
というようなことだ。そりゃ少子化になるわ。

真面目な語りに戻ってなぜこれが根深いかと言うと。

いま、ハイアマチュア(≒セミプロ)が超楽しくて超幸せで、
そしてなにより、”食える”からだ。

いままではアマチュアとプロの線引き、

もしくはプロとしての自覚の基準は一般的には、
それを生業として、お金をもらって、

”食える”かどうかだったと思う(諸説あり)。

かつてはプロをも凌ぐスーパークオリティのなにかを趣味的にやってたハイアマチュアが発見されると、いままでは

プロのフィールドへ進み、大勢の支持を受け、取り組みがマネタイズされ、
生業として成立し”食える”ようになる。

この段階で初めて、晴れて自他ともにプロ認定、
というのが順当かつ唯一のステップアップロードだった(諸説あり)。

しかし、いまはどうだろう。

プロをも凌ぐスーパークオリティのなにかを趣味的にやってたハイアマチュアが発見されると、

プロのフィールドへ必ずしも進まなくとも瞬く間に拡散され、
お金を落としてくれるファンも出来て、つながれて、
そこそこ大勢の支持を受け、取り組みがマネタイズされ、
生業として成立してしまい、”食える”ようになってしまう。

雑に言うと「米津玄師」にならんでも「ハチ」のままで幸せ

ということである。

食えるようになってしまう、と書いたがこれはめちゃめちゃいいことである。

どんなにがんばっても日の目を見ない人がほとんどだったかつてに比べれば、
スーパーチャンス時代であり、ハッピーな世界であることは間違いない。

しかし。この図を見ていただきたい。

クオリティ、プロフェッショナル、食える食えないの線引きがこの図のようにズレているのは、

つくりてにとってはチャンスも増えてそこそこ食えてハッピーな反面、
食えるために頂上を目指す矢印の意味やモチベーションは

薄くなってしまっている、というのが僕の仮説である。

“食える”ハイアマチュアは楽しい。
マネタイズの手段がたっくさんあるいまでは、
食えるどころか大金持ちになるのも夢ではないまじで。

やりたいことをやって、ファンだけを相手にして、
褒めてくれる人に囲まれて、食えるもしくは大金持ち。

なんと幸せなんだろう。最高だぜいまの世界。

なのになんで、自分が楽しいだの客が楽しいだの変な線引きするんだよ!
と思われてもおかしくないのだが、思ったのだからしょうがない。
説明します。

きっかけはTwitterで”最近バリバリな人たちの発言の中に共通して見かける
「人の言うことなんか聞かなくていいんだよオラ」という趣向と、

従来からのトップオブトップな人たち(B’z松本さんとか尾田栄一郎さんとか)に共通して見られる
「必ず人の意見をたくさん聞きます」という趣向に対する

んじゃどっちが正しいんだよ?という悶々だった。

結論から言う。

「人の言うことなんか聞かなくていいんだよオラ」モードは
「自分がいちばん楽しい」けど限界がある。


その上のトップオブトップはやっぱり
「お客さんがいちばん楽しい」を目指すから
「必ず人の意見をたくさん聞いて」いる。


“大衆性”とひとことで言うこともできる。

自分はふだんは広告映像のディレクターを生業として”食えて”いる(フリーランスではなく会社員監督なのでこう言っていいのかは怪しいが)。

仕事しているなかでこの「人の言うことなんか聞くな」と

「人の意見をたくさん聞くべし」という矛盾するふたつの趣向、
助言として両方ともよく聞くし、

そのたびにそうだよね!と納得しながらも明確な答えは出ていなかった。

明確に答えが出たのは先日参加した

ゆうばり国際ファンタスティック映画祭がきっかけだ。


ここから個人的な話入りまーす。

ふだん広告映像のディレクターとして”食って”いる自分だが、
おととしの夏、どうしても「映画を撮りたい」という

小さい頃からの夢を叶えたくて、
完全に会社仕事とは別にMOON CINEMA PROJECTという

短編映画企画コンペに応募し、
ありがたいことにグランプリをいただき、

念願のオリジナル短編映画「東京彗星」を撮った。

そしてこの作品を引っさげて人生初の映画祭に参加してきたわけである。

行く前は不安ばかりだったが、行ってしまえば

それはそれは楽しく、幸せで、承認欲求もたっぷり満たされた。

また映画つくりたいと思ったし、また来ようとも強く思った。

それはなぜか。

自分がつくった映画が映画祭に呼ばれる。たくさんのお客さんが見てくれる。
中には泣いてる人もいた。声かけられる。褒められる。お客さんや他の監督と仲良くなる。

幸せ以外ない。ものをつくっててこんなに幸せなことはなかった。

しかし。

「東京彗星」を上映したゆうばりで、

「東京彗星」を観てくれたお客さんの誰よりも、
“つくった僕が”、”いちばん楽しかった(幸せだった)”のだ、たぶん。

これは危険だ、と東京に戻って来て、気づいた。

だって、良いと思ってくれた人しか声をかけてこないに決まっている。
たったいま上映が終わった映画の監督をつかまえて

「全然おもしろくなかった」とわざわざ言う人はいない。

でも、世間にはいるのだ。わざわざ僕をつかまえて言わなくても、
「全然おもしろくなかった」と思う人が。

そしてそういう人は、たとえば劇場で観たとして、
TwitterやBlogで酷評を表明してくれればまだいいほう、
多くは「あーハズレだったな」と思いながらラーメンでも食って帰り、
次の僕の作品は観に来てくれないだろう。

まがりなりにもオリジナルの短編映画を撮り、映画祭に呼ばれ、

良い評判を聞いて…
僕はプロの映画監督の入り口に立ったような気でいた。

だがそれは間違いだ。

映画を撮った以上、映画監督ではあるかもしれない。やったー。
しかし、プロフェッショナルでは全然ない。がーん。

僕は「東京彗星」をかなり、自分が思うようにつくった。

好きな要素をぶちこんだ。
でもそれ以上に、お客さんがどう思うかを死ぬほど考えた。
僕と縁もゆかりもない、

ただ気になってお金を払って観に来てくれたお客さんが、

それこそ日本のことや日本語がわからなくても、

ちゃんとおもしろいか、ちゃんと楽しいかを考えてつくったつもりだ。

(ここでは「東京彗星」がそれを達成できてるかどうかは無視!)

それはいままで僕が心動かされてきた映画が、音楽が、
もともと僕自身とは縁もゆかりもなく、

ただ気になってお金を払って享受した結果、
猛烈な幸福を僕にもたらしてくれてきたから
に他ならない。

それから映画をつくるようになって、つくるのほんと楽しいな、
なんでみんなつくんないんだろう、お客さんでいるよりずっと楽しいのに、
と思っていろいろつくってきた。

依頼をもらって納品する仕事をするようになって10年、
ひさびさに誰に頼まれたわけでもないものを本気でつくって、披露して、
そこそこ褒められて、思ったのだ。

「幸せだけど、ふんばってここから先にいかなきゃならないなー」

冒頭から語ってる線引きや図にからめて言うと、
そこそこ上のクオリティのハイアマチュア映画監督として
「つくってる自分がいちばん楽しい」というのは、
もうじゅうぶんに体験させてもらった。

ここから先は、超絶クオリティで、
つくってる自分がどんだけ苦しくても、つくってる自分よりも誰よりも
「お客さんがいちばん楽しい」というのをちゃんとやらなきゃならない。

仲間や知り合い、知り合いの知り合いだけではなくて、
なんの縁もゆかりも、ましてや映画リテラシーすらない
たくさんの”大衆”(敬意を込めて)に、
たくさん観てもらって、たくさん楽しんでもらいたい。

その人たちには、つまんなかったらブーイングする権利がある。
つくってる僕にはボロクソに言われるリスクがある。覚悟がいる。
なんならスタッフやキャストにもそのリスクを背負わせる。

でもその先に、世界を変え、時代を変え、歴史に刻まれる、
超絶なプロフェッショナル…「メジャー」という、
空に浮かぶ幻の島があるのだ。

その島に行くには羽ばたいてるだけじゃだめで、風に乗らないといけないけど。

どうせ羽ばたきはじめたなら、そこまでいってみたい。

なにを隠そう自分が好きな映画監督はジェームズ・キャメロンだし、
好きなアーティストはB’zなのである。

一定層にボロクソに言われながらも、大ヒットをかます抜群の”大衆性”。
そして超絶クオリティ。ど真ん中の、メジャーである。

ジェームズ・キャメロンの映画を好きになる人がはじめて観るジェームズ・キャメロンの映画は、
ジェームズ・キャメロン自身が観るよりもたぶん楽しい。

B’zを好きになって初めてLIVEに来たお客さんの感動は、
B’zのおふたりにはもう体験できない感動だ。たぶん。

ジェームズ・キャメロンだって、かつては客席で映画を楽しんだお客さんだ。


B’zのおふたりだって、かつてはレコードを死ぬほど聞いてライブに行って楽しんだお客さんだ。

かつて自分が味わった、「いままで生きてきていちばん楽しかった!いちばん感動した!」というお客さんの気持ち。
それをつくりだして提供できたとき、つくってる自分たちよりも「お客さんがいちばん楽しい」が成立する。

それができる人が「プロフェッショナル」。

(※その破壊力が広く大きい人が、「メジャー」なだけで、そして僕がそういうのが好きなだけ、規模は今回の話とはあんま関係ないかも、とここまで書いてて思い直した。ついつい好きなもの書きたくなっちゃう)

(※ふだん仕事でやってる広告映像でも、気をつけないと「つくってる自分たちがいちばん楽しい」もしくは「つくってる自分たちがいちばん得しちゃう、幸せになっちゃう」という事態になりがちだ。
というかそういう例はかなりあると思う。「お客さんがいちばん楽しい(幸せ)」は守らなきゃならない。
依頼されてつくっていいのできてそこそこ褒められて、依頼者よりもお客さんよりも自分たちがいちばん幸せ、ってのは気持ちいいぶんひじょーーに気をつけなきゃいけない)

話がそれました。

プロフェッショナルの話とメジャーの話がごっちゃになりました。

戻ります。

「お客さんがいちばん楽しい(幸せ)」

それができる人が「プロフェッショナル」。

みんなに観てもらえて褒められて人生最高の気分だ!という、
「自分たちがいちばん楽しい」場所を捨てて進むのは恐ろしいけど、
「お客さんがいちばん楽しい」を自分の仲間やつながりを超えて超でっかく、たくさんつくれたとき、
それまでの「自分たちがいちばん楽しい」とは比べ物にならないほど楽しい気持ちを味わうのか、
金メダルの憂鬱的になんか不感症的な感じを味わうのか、それはわからない。

だってそれはそこに到達した人しかわからないことだ。

到達してみたいかって?してみたいに決まってる。

んで「プロフェッショナル 仕事の流儀」に出て、
「あなたにとってプロフェッショナルとは?」と聞かれて、
たぶん「お客さんの方が楽しいこと」とはきっと違う、
そのとき思ったことを答えてやるのだ(まだ番組がやってればね…)。

というわけで拙作「東京彗星」は今年中に劇場公開およびネット配信する予定ですので、
その際は観て好き放題思ったことを言ってやってください。

『東京彗星』の予告編はこちら!




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洞内 広樹 (映像ディレクター/映画監督)
また映画つくりたいですなぁ。夢の途中です。

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