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距離感の遠さと自己愛による写真

写真は撮影者の態度や感情を表す。人となりを浮き彫りにしてしまう。

ただ、写真をじっくり観察すれば、人となりを見抜ける人もいると思うが、大半の人はそこまで写真を読み込まないと思う。僕もそうだ。写真を観てあれこれ思うけど、実際のところを見抜ける力はそこまでない。そもそも鑑賞者がどう読み取るのかは自由であるとも思う。

しかし、自分の写真に目を向けると、途端に漏れ出した内面に対して敏感になる。前回「表現の話」を書き、没頭した結果が作品でありたいと願った。そして、今度は作品が世間に出たことへの不安がつきまとう。

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被写体との距離

自分の写真を振り返ると、いつもどこか被写体との遠さを感じる(被写体とは人に限らない)。物理的な距離じゃなくて、心の距離のこと。

なんだか、一歩踏み込めていないというか、俯瞰して見ているというか。まるで全て18mmのレンズを通して撮ったような(18mmは広角なので油断するとぼんやりした写真になる)。

被写体との本質的な距離を縮められない。あるいは縮めようとすらしていない写真は、なんだか独りよがりで未熟な自分をさらけ出しているようで、恥ずかしいものに思えてくる。

この距離の問題は一見わかりにくい。自分の全ての写真の距離が遠いわけではない。たとえば、ポートレートだったら技術やモデルさんのスキルで、いくらでも「仲良い感じ」の写真は撮れる。

写真は創造である。その技術を極力自然に出来る人がいる一方で、僕の場合はすっごく無理して実現することになるし、自然な状態にどうしても持っていけない。

また、一見「距離が近い」ような僕の写真は、大体仲の良い友人や熱量のあるものを撮った時の写真だ。それはそうだ。好きなんだから自然な写真になるだろう。そこでは全く無理をしていない。

あとは、心が動いた瞬間を写真に納めていることが少ない。たとえ、カメラを持っていても手が止まっているのだ。「今日色々考えたけど、写真撮ってないな」と帰ってから思う。

写真に対して好きだと言いながら、どこかで「写真を撮る」という行為を強く意識しているからだろう。だから咄嗟に写真で撮ろうと思えないのかもしれない。カメラを使い始めたときは無邪気にバシバシ撮っていた気がする。

被写体との距離の近さが感じられる作品は、やはり目を惹く。近いと遠いで二極化するわけじゃないけど、自分の写真は遠さが目立つと思う。

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フォトグラファーという「肩書き」

ところで、僕は「フォトグラファー」という肩書きを大事にしている。話の流れで「カメラマンですよね」と言われたら、「いや、フォトグラファーですね」と訂正している。

肩書きにこだわるのがダサい、なんでもいいという意見もあると思う。でも、僕の中ではフォトグラファーとカメラマンには明確な違いがある(定義はないはず)。

カメラマンは仕事で写真を撮る職人であり、写真に対する好意の有無は関係ない。めっちゃ写真が好きな人も、商売として割り切っている人もいる。

対するフォトグラファーは、もっと広域な「写真を撮る人」を全般的に指している。仕事や作品作り、趣味であることなど目的は問わない。カメラマンもフォトグラファーの一部ということになる。別に優劣はない。つまり、写真を撮ってさえいれば、今日からあなたもフォトグラファーである。

では、なぜわざわざフォトグラファーと名乗るのか。それは、たとえ写真の仕事をしなくなっても、写真を撮ると確信しているからだ。フォトグラファーの方が、もっと自分の性格や好みを表せる気がするから。

利害関係が苦手だ。だから職能的な肩書きを求められても、僕はただの「写真を撮る人」として、自分の立場を表明したい。

ついでにいえば、僕は自分以外の人類が消滅しても写真を撮るだろうと思う。それは間違いなく「いつも自分のために」撮っているからだ。

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「誰かのために」と思いたかった

写真を観た人が笑顔になるような写真を届けたい。本当はそんな信念を持っていたい。そう表明した方が人に応援されるだろうし、成熟した大人の態度に思える。

だけど、残念ながら僕は「自分のために」しか写真を撮っていない。まずは自分のために動き、シャッターを切り、レタッチをしたりしながら写真を創り上げていく。そこに他者への想いはほとんど入っていない。

自分と向き合い、内省に没頭した結果が自分の写真である。ポートレートや仕事では、相手や成果物のことを考えたりするけど、撮る瞬間は考えていない。その瞬間、ベストだと思ったことを実行しているだけだ。あくまで自分の視点が先である。

というか、写真以外でもほとんど「自分のために」生きている。まずは自分が感覚的に納得しないとダメなのだ。「腑に落ちる」ということを重視している。自己愛のようなもの。

そもそも、自分の人生なのだから、自分のことを大切にして全然良いとも思っている。その一方で、自分ばっかりな態度に虚しくなるときも確かにあったりする。

だから、周りの友人のような、「誰かのために」と考えられる人のことが時折羨ましくなる。僕は、いつも気にかけてくれる人のために、何かできているのだろうかと不安になる。この気持ちも「自分が」孤立したくないから思うことなのかもしれない。

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消せないものこそユニークな部分

振り返ってみると、18mmの遠い距離感と自分愛が混ざった自分の写真というのは、ぬめっとしているようで決して綺麗なものとは言えないだろう。そんな現実に思わず蓋をしていたくなる。だが、自分の内面はそうなのだ。

ここまで書いてきたけど、自分に対して悲観しているわけではない。シンプルに「なんでなんだろう?」と思っているだけ。素直な気持ちを「汚いもの」と自分でレッテルを貼ると、生きづらさに繋がってしまう。

写真の話に戻すと、構図や光、物語性、レタッチなどは、人のユニークな部分を強調するテクニックだ。だからある程度は真似できる。でも、それらを優先していくと、どうしても「正解」があるように感じてしまう。写真に正解があると考えるのは、つまらないと僕は思う。人の生き方も一緒だ。

人の内面と写真の話を絡めると、消そうと思っても消せない、直したいような部分にこそ、ユニークさがあるのではないだろうか。この消せないものは人それぞれ異なるし、決して真似できない。

「偏愛」「キモさ」みたいなものが、実は他の人からすると興味深くて魅力だったりする。というか、僕は人のそんな部分が見えると、その人をもっと知りたくなる。

だから、僕の写真では「距離感の遠さと自己愛」が消せないユニークな部分の一部であると思う。テクニックを磨いても消えてくれなかったもの。たとえ、他の人には伝わらなくても、現状のユニークさを自分は受け入れたい。

写真じゃなくてもそうかもしれない。メンタルヘルス的には、自分の多面性を認めるみたいなことだろうか。写真について考えていたら、内面を振り返ることとなり、生きやすさにも繋がったわけだ。

ちなみに個性とか自分らしさじゃなくて、ユニークと表現するのは、英語話者の友人がその単語をよく使っていて、素直で素敵な言葉だと思ったから。言葉として腑に落ちたからである。

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溢れ出る「自分のため」の変換作業

ようやく、作品と溢れ出る内面に対するモヤモヤした霧が晴れつつある。

思うに、もう充分なぐらい、自分で考えて自分の感覚を大切に生きてこれている。これからも大切にしつつ、そろそろ「自分のため」以外の未知の領域に足を踏み入れたい。「誰かのためにしなければならない」のではなく、自分がしたくなってきたからするって感じ。

思い付いた方法としては、「自分のため」から「人のため」への変換作業を行うこと。どうしても自分という思いが先行してしまうなら、「どうしたらこの結果が人のためになるだろう?」と少しでも想像するようにする。俺は楽しいから、ついでに他の人も楽しめる方法考えようぜ、みたいな(アホな感じでしか表現できない)。

というか、恐らく人のために動ける皆さんは、そんなこと無意識でやっている。だけども、自分の場合は変換作業が必要だ。訓練は必要だが、これだけ感覚を大切にしているのだから、もがきながらも自分なりのやり方を徐々に見つけていくと信じている。

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自分と誰かの融合

この変換作業を実践してみたくなった。最初の取り組みとしてアーティストインレジデンスのプロジェクトに応募したところ、無事採用となった。

選ばれたアーティストは、最終的にその施設に作品を寄贈する。自分の写真がその施設や利用者のために使われる。作品が「人のため」になるわけだ。

事前にその地域に旅して、最適な写真を考察しながらシャッターを切ってみたところ、これが思いの外楽しかった。どんな人が使うのか想像して、その施設の人に話を聞いて、どんな気持ちになってほしいか願いを込めて、考え抜く作業に夢中になった。

この感覚を味わえるなら、自分のユニークさを転がせそうだと思ったところ。写真について考えてみると、いつも自分の内面や思考に辿り着く。

ユニークさに直面すると、ときに見ないふりをしてしまいそうになるが、それでは苦しさは拭えない。ひとまず、こんな感じでやってみようと思えたので、素直に書いてみました〜

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