【歴史・時代小説】『縁切寺御始末書』 深厚之宿縁浅薄之事不有私 (完)
おはまの遠島の日が来た。
惣太郎は、父母と連れ立ち、見送りに行った。
舟は、永代橋の桟橋から出る。牢を据えつけただけの簡素な舟である。船尾に、白木綿の幟が立てられ、ひがらなで〝るにんせん〟と書かれている。
本多源五郎の特別な計らいにより、おはまと直接会うことができた。
もうひとつの特別な計らいがあった。
おはまの想い人文吉であるが、おはまとともに遠島、しかも同じ島となった。
満徳寺へ押し入った罪は重いと、寺社奉行所の用人御手洗主水は、極刑とするように主張した。
だが、もともと北町の大澤に唆されたことであるし、将軍家ご縁の寺に押し入ったのが同心の指示だったなんて公になれば、町方の面目が丸つぶれである。
一方の寺社方も、将軍さまのご位牌が安置されている寺に押し込み強盗が入ったなどと世間に流布すれば、大恥を掻くことになる。
双方の御奉行が話し合って、死罪のところを、これまた罪を減じて遠島となった。
ならば、おはまとできるだけ一緒の島にしてやってくれと嘆願したのは、宋左衛門である。
彼は、おはまの顔を見ると、
「すまなかった」
と、謝るだけだった。
「何言ってるんですか、立木さま、あたしは十分良くしてもらいましたよ。あたしこそ、立木さまを裏切るようなことをして、申しわけありませんでした」
逆に頭を下げられて、宋左衛門は恐縮していた。
「おはまさん、あちらでは色々と辛いことがあるかもしれないけど、元気を出してね。行いを良くしていれば、きっとこちらに戻ってこられますから」
「奥さまにも、色々とお世話になりました。なにね、いままでの生活を考えれば、楽なものですよ。それにね」
おはまは、舟に乗っている男を見た ―― 文吉である。
「あの人がいますからね」、おはまはにこりと笑って言った、「奥さまの言うとおりですね。人生、いつかは春がくるものです。それでは、おふたりともお元気で。立木のお坊ちゃまにも、お世話になりました」
おはまは、遠ざかる舟からいつまでも手を振り続けていた。
その帰り道、惣太郎は父と、いや義理の父とともに歩いた。
「さて、これでようやく、すっきりとお役目から身を引けるわい」
と、宋左衛門は歩きながら、うんと背伸びをした。
「お前も、十分仕事に慣れたであろう」
「はあ、しかし、まだ少し……」
「なに、心配はいらん。お前はワシの子だ、きっと上手くやれる」
「しかし、私は……」
その言葉が、口をついて出ようとした。
自分が父の血を引いていないと知ったときから、惣太郎の胸にはつねにそのことがあった。
それを、宋左衛門が止めた。
「惣太郎、満徳寺の離縁状の書き出しを知っておるか」
何件か縁切りを経験したが、まだ離縁状に関しては携わっていない。
「いえ、まだ見たことはありません」
「必ず、深厚之宿縁浅薄之事不有(私(しんこうのしゅくえんせんぱくのことわたくしあらず)と書く。前世では縁が深いが、この世でたまたま縁が浅かっただけのこと、別に妻が悪いわけではない、だから縁を切るという意味だ。夫婦とは、そういうものだ。離縁する男女はたまたま縁が浅かっただけ、仲の良い夫婦は幸いなことに縁が深かったということだ」
「はあ、つまり……」
「親子の仲も同じだ。おぬしとワシは縁が深かったのだ」
「ち、父上……」
宋左衛門は、春風のような柔らかい笑みを見せた。
「波江の子は、ワシの子じゃ。もちろん、ゆりもな」
それで、十分であった。
父と母は、その数日後、お役目を完全に退き、近くの屋敷へと移っていった。
女がひとりいなくなると、駆け込み女の世話が大変になる。それで、おゆりが母の代わりに入ることとなった。そして夫の寅吉は、嘉平が惣太郎の父と母に付いていったため、その後釜に就いた。
清次郎夫妻は、相変わらず静かな生活を送っている。夫はいつもどおり真面目で厳しいが、妻はそんな彼をよく支えている。
花畑は、彼女の植えた福寿草が見ごろである。
新兵衛は、将軍さまへの拝謁も無事に追え、意気揚々と戻ってきた。
「いやいやご活躍だったようですね、立木殿」
と、相変わらず賑やかだ。
「いえ、そんな。それよりも、すみませんでした、何もお手伝いできなくて」
「いえいえ、何とか無事済みましたので」
「しかし、大変だったでしょう」
「まあ、その分、美味しい思いをさせてもらいましたから」
新兵衛がひとり笑みを零していると、
「美味しい思いって、どんな思いですか、あなた」
と、妻のやえが耳を引っ張りあげた。
「いてぇぇぇぇ! ちょ、ちょっと、お前、それは……」
娘のおたえとおさえは、久しぶりの父の顔を見て、喜んでいる。
「父様(ととさま)、母様(かかさま)にごめんなさいしてください」
「父様(ととさま)、ごめんなの」
可愛い娘たちにそう言われては、新兵衛も妻に平謝りである。
「全く、相変わらず煩い夫婦だ」
清次郎は、それほど煩そうな顔もせず、むしろ、薄らと笑みを零している。
和やかな正月である。
これで、駆け込み女が来なければ、もっといいのだが。
その願いも虚しく、
「あの……、女が駆け込んできました」
と、寅吉が報せにきた。
「全く、正月早々」
清次郎が立ち上がろうとしたので、惣太郎が止めた。
「ここは私が……」
調所に入ると、女がいまにも消え入りそうな蝋燭の炎のように、ひっそりと座っていた。
驚いたことに、年は惣太郎の母と同じぐらいだ。ただ、母よりも白髪が多く、肌には脂っけがなく、染みや皺も多い。手先はしもやけとあかぎれで酷いありさまだ。
惣太郎が席につくと、不安げな視線を向ける。
惣太郎は静かに言った。
「苦労なさったのですね」
すると女は、背中を丸めて泣き始めた。
「よろしいですか、深厚之宿縁浅薄之事不有私(しんこうのしゅくえんせんぱくのことわたくしあらず)といいまして、満徳寺の離縁状は必ずこの言葉を使いますが、これは前世の深い縁があっても、現世では縁が浅かっただけのことで、あなたにはなんら非はないのですと言っているのです。つまり、女であるあなたが悪いのではありません、あくまでも縁の問題で……」
惣太郎は滔々と語る。
この仕事、まだまだ未熟だが、少しは好きになれそうな気がした。
それは、春の温かい日差しが、冷たい床を照らしつける、そんな日のことであった。
(完)