【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第四章「白村江は朱に染まる」 前編 13
紅葉も残り数枚となった頃、百済援軍の第一陣が、家族に見送られ、飛鳥を目指して出発した。
翌日、田来津を将軍とする第二陣がこれに続いた。
「田来津様、先発隊の準備が整いました。出発させます」
「頼むぞ、深草」
高尾深草は、先発隊に出発の合図を出した。
道端から、大きな拍手と歓声が沸きあがった。
本隊では、未だ兵士たちと家族の涙の別れが行われている。
田来津は、その光景を馬上から黙って見ていた。
彼の周りには、安孫子郎女も小倉の姿はない。
見送りは、既に屋敷を出る時に済ませて来ている ―― 将軍の家族が涙を流して見送るのを、兵士の家族が見て動揺を与えたくないという安孫子郎女の配慮からだった。
出立の日、田来津の屋敷では、本人以外は変わらぬ朝を迎えた。
いつものように、安孫子郎女は竈に火を入れ、飯を作った。
飯も、いつもと変わりはない。
そして、いつものように屋敷の戸を開け放ち、朝日を入れる。
小倉も、その光で目を覚ます。
彼女は、いつものように彼の襁褓を取替え、乳を含ませてやる。
―― それは、いつもと変わらぬ朝………………
安孫子郎女は、夫を安心させるために、いつもと変わらず送り出そうと思っていた。
と同時に、それは、夫は必ず戻って来る、だから、いつものままで良いのだと自分に言い聞かせている安孫子郎女の姿でもあった。
『安孫子、家のこと、小倉のこと、頼むぞ』
散りゆく紅葉の下で、田来津は別れを告げた。
『ご安心下さい。さあ、小倉も、お父様にお別れのご挨拶をして』
彼女は、抱いている小倉の顔を田来津の方に向けた。
小倉の両目からは、既に大粒の涙が零れている。
『小倉、泣いては駄目よ。お父様は、大切なお仕事で行かれるのだから。あなたが泣いては、お父様が御安心できないのよ。さあ、小倉』
傍で見ていた深草も、思わず涙を零してしまった。
『そのようなことを言っても、小倉には分かるまい。良いのだよ、小倉、思いっきり泣いて。お前のその大きな泣き声を遠い地で聞きながら、私は戦おう。そして、お前の泣き声を道標に、再びお前たちの下に戻って来よう』
田来津は、安孫子郎女とともに小倉を抱いた。
安孫子郎女は、この時初めて大王を恨めしく思った。
―― なぜ、この人なのかと………………
一時の後、田来津は馬に乗った。
『……行って来る』
その言葉以外に、田来津には思い浮かばなかった。
『お早い、お帰りを』
安孫子郎女の目は真赤であったが、泣いてはいなかった。
山風が大地を吹き抜ける。
紅葉が踊っていく。
子を抱く妻の後れ毛が、そっと靡く。
田来津は、その光景を死ぬまで忘れないであろうと思った。
田来津は、本隊に出発の号令を下した。
道端には、多くの人が見送りに出て来ていた。
皆、兵士たちに大きな拍手を送っている。
そして、田来津がその前に現れると、住人たちからは一際大きな拍手と声援が起こった。
村首たちは、田来津の姿を認めると、頭を深々と下げて彼を見送った。
彼も、これに頭を下げて答えた。
兵士たちは、意気揚々と進んでいく。
その胸中には、夫々、如何ほどの思いがあるのだろうか?
田来津は、彼らの自慢げな表情を見て複雑な気持ちであった。
―― 二度と生きて、この道を帰れるとは限らないのに………………
何が、彼らをそこまで奮い立たせているのか………………
『田来津様、あちらに』
田来津の傍を歩いていた深草は、他の兵士たちに知られないように、小さい声で田来津に言った。
後ろを振り返っている深草の視線の向うには、小高い丘がある。
田来津は、そこに小さな布切れが舞うのを見た。
それは紛れもない安孫子郎女の打ち振る領巾である。
彼女の胸に、小倉の姿も見える。
田来津も、兵士に見られないように、そっと手を振り替えし、すぐに向き直った。
もうすぐ丘が見えなくなる。
彼は、もう一度、振り返る。
そこには、まだ領巾を振り続ける安孫子郎女の姿があった。
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