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【歴史・時代小説】『縁切寺御始末書』 その二 おはまの一件始末 9

 御手洗の言葉どおり、御奉行の決済はすぐに下りた。

〝お声掛り〟の始まりである。

 まず寺社奉行所から、夫婦の関係者に呼び出しがかかる。これを拒むものは、よほどの怖いもの知らずである。

 担当の寺役人も、江戸へ出てくる。

 宋左衛門も奉行所までやってくるという。

 惣太郎は、板橋宿まで迎えに行くことにした。

 板橋宿は、中仙道の第一の宿で、三宿に分かれている。上方から上宿、仲宿、下宿と呼ばれ、本陣は仲宿に置かれた。上宿の入り口が、いわゆる朱引きである。上宿と仲宿の間には、石神井川が流れ、地名の由来となった板橋が架かっている。

 惣太郎は、上宿の茶屋で待った。

 父が到着するまで手持ち無沙汰であったので、おさえ坊の絡まった綾取りをいじくっていた。

 大の大人が、街道沿いの茶屋に腰掛け、真っ赤な綾取りと格闘しているのだから、旅姿の男や女たちが、不思議そうな面持ちで通り過ぎていく。飯盛りだろうか、数人の女が宿から顔を覗かせ、惣太郎を見てくすくすと笑っていた。

 挙句に茶屋の親爺が、

「随分手古摺っておられますな。いっその事、新しい紐を差し上げましょうか。それとも、こいつでちょっきりといきましょうか」

 と、鋏を持ちだし、ちょきちょきと動かす。

「いや、いいんです。これは大事なものですから。どうしても無事に解かないといけないものでして。心配かけました。あの、もう一杯茶を頼みます」

 と、一度は懐に戻したが、矢張り気になるので、再びいじくりはじめた。

 どうも、酷くこんがらがっている。爪の先で、一本一本丁寧に摘み上げようとするが、がっちりと固まって取れない。

「ははん、まるで人の縁みたいなものですな」と、茶屋の爺はしたり顔で言う、「複雑に絡み合って、無理に引き離そうとするとさらに絡み合ったり、切れたりする。まさに、人の縁でごさいますよ」

 なかなか上手い事を言うと、惣太郎は思った。亀の甲より、なんとやらだろうか。

 結局、紐は解けなかった。

 宋左衛門は、右足を引き摺るようにしてやってきた。

「大丈夫ですか、父上。そんなに無理なされなくてもよろしいのでは。御手洗さまや藤田さまも、全ては寺社方で取り仕切るので、無理してくる必要はないとおっしゃっておりますし、私もおりますのに」

 もしかして、父は自分のことをそれほど信用していないのではないかと、宗太郎の胸には疑いの念があった。

「拙者も、そのほうが良いと申し上げたのです。惣太郎殿なら問題はないと。磯野殿より良く働いてくれますと。ですが、立木さまがどうしても行くとおっしゃられるものですから、それでは拙者が付き添いをということに……」

 清次郎が、付き添いとして一緒に来てくれていた。

「いや、別に惣太郎を信用しておらんわけではない。おぬしなら、よくやってくれると思っておるよ」、父は膝を庇いながら茶屋の腰掛けに座った、「しかし、これがワシの最後のお役目になるであろうし、おはまだけは、なんとしても離縁させてやりたいという思いがあってな、まあ、そういうわけだから、中村殿にも迷惑をかけて、こうやって御府内に来たわけだ」

「いえ、私は迷惑などと思っておりません。むしろ、道中色々と立木さまにお役目の事で教えてもらいましたら」

「うむ、そう言ってもらえるとありがたい」

 3人は茶屋で一休みしたあと、奉行所を目指して歩きだした。

「それで惣太郎よ、おはまの〝お声掛り〟の一件、どのようになっておる」
「はい、それですが……」

 早速、北町奉行所が難癖をつけてきた。政吉が、おはまに不義があると訴え出ているのに、寺社奉行所に出頭せよとは何事か。寺社方こそ、おはまをこちらに引き渡せ。

 これに対して寺社奉行所は、政吉が訴えを出す前におはまは満徳寺へと駆け込んだ。これは正当な駆け込みである。寺内のことは、寺社方の管轄であり、町方の出る幕ではない。そちらこそ、政吉の訴えを拒否し、早々に出頭せよと命じよと、強く要求した。

 すると向こう側は、戯言を申すな、おはまの駆け込みよりも政吉の訴えのほうが早い。それに、こちらは不義の証人もいる。そちらこそ、おはまを速やかに渡せと、強く迫ってくる。

「戯言はそっちのほうだ、おはまのほうが早くに駆け込んだ」「いや、政吉のほうが早い」「いや、おはまだ」「いやいや、政吉だ」が繰り返され、現在交渉は膠着状態にあった。

「まるで、子どもの喧嘩のようで」

 惣太郎は苦笑いした。

「いつか来た道だな。まあ、こういうことは焦ると良くない。強行手段に出て、相手を怒らせるのもまずいし、あとあと遺恨を残すようになれば、おはまの今後に差し障ることになるからな。まあ、江戸見物のつもりで、気長にいこうではないか」

 そんなつもりだと、御手洗に嫌味を言われるぞと、惣太郎は思った。

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