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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第三章「皇女たちの憂鬱」 中編 3

 間人皇女は、まだ難波長柄豊碕宮にいた。

 安倍内麻呂の娘 ―― 小足媛は安倍氏に、蘇我倉麻呂の娘 ―― 乳媛は蘇我赤兄に引き取られ、采女たちも飛鳥に行くか、実家に戻るかして、旧宮はひっそりと静まり返っていた。

 先月まで宮の建設に多くの職人が出入りし、木槌を打つ下ろす音が響き渡っていたのが嘘のようだ。

 女は1人自室に籠もり、軽大王の歌を眺めていた。

 別に、宝皇女と一緒に飛鳥に帰っても良かった。

 夫の墓の傍にいなくてはならないということはないのだし、彼女がそれほど軽大王のことを思っている訳でもなかったのだから。

 彼女が、難波に残ったのは軽大王の息子有間皇子のためであった。

 有間皇子は巨勢徳太から、ともに飛鳥に行くように説得されたのだが、これを拒否した。

 徳太は、間人皇女に有間皇子の説得を依頼するが、それでも彼は、「私は、父の下に残ります」と頑として受け入れなかった。

 これは、中大兄たち飛鳥派に、反乱の準備ではないかという要らぬ疑念を抱かせた。

 という訳で、間人皇女は、有間皇子を説得できなかった責任と飛鳥派・難波派の衝突を避けるという名目で、有間皇子とともに難波の地に残ることとなったのである。

 が、これはあくまで彼女が難波に残るという表向きの言い訳で、その実、彼女は彼のことが大変気になっていたのである。

 それは、間人皇女がいままで経験したことのない感情であった。

 間人皇女の耳に、庭先から金属が擦れる音と男たちの激しい掛け声が聞こえてきた。

 声の持ち主のうち、1人は有間皇子だと分かった。

 彼女は、その声に誘われるように庭先に出た。

 そこには、有間皇子と皇子の従者である新田部米麻呂連(にいたべのこめまろのむらじ)が互いに剣を振るい、武術の稽古に励んでいた。

 両人とも、上半身露な姿である。

 間人皇女は、有間皇子の時に激しく、時に滑らかに躍動する肉体に目を奪われた。

 彼女の知る男とは、軽大王の50近くの枯れた肉体か、幼い日に見た兄や弟の男とも女とも見分けがつかぬ体だけだったので、有間皇子の若鹿のようにはちきれそうでいて、しなやかな体は、彼女にとって眩しすぎた。

 有間皇子の胸は薄っすらと汗を掻き、照りつける日差しに輝いていた。

 稽古が終わったからか、それとも間人皇女の女としての視線に気が付いたのか、有間皇子は剣を振るう手を下ろし、汗を拭って上着を着た。

 間人皇女は、彼のその仕草で我に返った。

「何用でしょうか、大后?」

 有間皇子は、間人皇女を見つめる ―― その若々しい視線に目を合わせることはできない。

「稽古を見ていたのです。お疲れでしょうから、何か持って来させましょう。新田部、侍女に言って、水を持って来させてください」

 米麻呂は、指示どおり下がった。

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