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【歴史小説】『法隆寺燃ゆ』 第三章「皇女たちの憂鬱」 後編 7

 弟成は、自分と同年代の良民の子供が、あちらこちらに穴の開いた服を着て、泥だらけになりながら、田んぼの中を這いずり回っている姿を何度も見ている。

 人に使われる身だが、まだこの生活の方が良い。

 当時の庶民の生活状況を明確に示す資料はないのだが、奈良時代の庶民の生活を切実に示すものがある。

 山上憶良(やまのうえのおくら)の長歌「貧窮問答歌(ひんきゅうもんどうか)」である。

 この歌は、貧者に対する問いとそれに対する貧者の答え、そして、反歌(長歌の意味を反復・補足・要約した短歌)からなる。


〈貧者への問い〉

 風雑(まじ)へ 雨降る夜の 雨雑へ

 雪降る夜は 術もなく 寒くしあれば 堅塩を 

 取りつづろひ 糟湯酒 うち啜ろひて

 咳かひ 鼻びしびしに しかとあらぬ

 鬚かき撫でて 我を除きて

 人は在らじと 誇ろへど

 寒くしあれば 麻衾(あさふすま)

 引き被り 布肩衣(ぬのかたぎぬ)

 有りのことごと 服襲(きそ)へども 寒き夜すらを 我よりも

 貧しき人の 父母は 餓ゑ寒ゆらむ

 妻子(めこ)どもは 吟(によ)び泣くらむ

 此の時は 如何にしつつか 汝が世は渡る

 (風を雑えて雨降る夜の、雨を雑えて雪降る夜は、

  なすすべなく寒いので、

  堅い塩を少しずつ齧り、糟湯酒をすすりながら、

  咳をして、鼻を啜り上げ、少しばかりの鬚を撫でては、

  自分をさし置いて、私以上の人はいないだろうと、

  しきりに自慢するのだが、

  寒ければ、麻の夜具をひっかぶり、

  布肩衣を有るだけ重ねて着るが、

  寒い夜なのに、

  自分よりも貧しい人の父母は、餓えて寒さに震えているし、

  妻や子たちは、力なく泣いていることだろう、

  こういう時は、どんな風にお前はこの世の中を渡っていくのかい)


〈貧者の答え〉

 天地は 廣しといへど

 吾が為は 狭くやなりぬる 日月は 明しといへど

 吾が為は 照りや給はぬ

 人皆か 吾のみや然る わくらばに 人とはあるを

 人並に 吾を作るを 綿も無き

 布肩衣の 海松の如 わわけさがれる 襤褸(かかう)のみ

 肩にうち懸け 伏廬(ふせいほ)の

 曲廬(まげいほ)の内に 直土(ひたつち)に 藁解き敷きて

 父母は 枕の方に

 妻子どもは 足の方に

 圍(かく)み居て 憂へ吟(さまよ)ひ 竈に火氣(ほけ)ふき立てず

 甑には蜘蛛の巣懸きて

 飯(いい)炊(かし)く 事も忘れて

 鵼(ぬえ)鳥(どり)の 呻吟(のどよ)ひ居(お)るに いとのきて

 短き物を 端(はし)截(き)ると 伝へるが如く

 楚(しもと)取(と)る 里長が聲は 寝屋(ねや)戸(ど)まで 

 来立ち呼ばひぬ 斯くばかり 術無きものか 世間の道

 (天地は広いと言うけれど、私のためには狭くなってしまったのか、

  日や月は明るく照ると言うけれど、

  私のためには照ってくださらないのか、

  誰もがそうなのか、私だけがそうなのだろうか、

  たまたまに人として生まれ、人なみに私も田畑を耕しているのに、

  綿もない布肩衣の、海松のようにばらばらに

  破れてぶら下がった襤褸ばかりを肩に打ちかけて、

  つぶれたような、曲がった家の中に、

  土に直に藁をばらばらにして敷いて、

  父母は枕の方に、

  妻子たちは足の方に囲んで座り、なげき悲しみ、

  竈には湯気も立てず、甑には蜘蛛の巣が掛ったままで、

  飯を炊くことも忘れ、細々とした声を立てているのに、

  特別に短い物を、さらにそのはしを切るという喩えがあるように、

  鞭を持った里長の声は、

  寝屋の戸口まで来て立ちはだかり呼び立てている、

  こんなにも、なすすべなきものなのか、この世の道とは)


〈反歌〉

 世間を 憂しとやさしと 思へども

   飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば

 (この世の中を、つらいとも、

  身が細るような思いだとも思うけれど、

  飛び立ちたくとも飛び立てないよ、

  鳥ではないのだから)(『萬葉集』巻第五)


 これが、奈良時代の庶民の生活の全てだとは言うことはできないだろうが、当時、貧しい生活を送っていた人がいたことは確かである。

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