【歴史・時代小説】『縁切寺御始末書』 その四 おみねの一件始末 10
それを父に伝えると、宋左衛門は、
「そうか……」
と言ったきり、押し黙ってしまった。
父は、江戸に来るとその足でおはまが入れられている大番屋に向かった。
惣太郎は、今夜はゆっくりと休まれてはと心配したのだが、どうしても今日会いたいと、父はまるで駄々っ子のようであった。
おはまは、仮牢に入れられていた。
人の背丈よりも高い場所に格子戸があり、そこから冬の日差しが覗いていたが、板床は氷のように冷たく、おはまはその上にうつ伏すようにして座っていた。
重たい音とともに鍵が開けれ、ふたりが中に入ると、おはまは顔をあげた。
髪は所々解れ、目の下には隈ができて、げっそりとやつれていたが、妙な色っぽさが残っていて、なるほど政吉が言っていたことも満更嘘ではないのかもしれないと惣太郎は思った。
宋左衛門は、右膝の痛みを堪えながらしゃがみ込んだ。
しばらくぼんやりと見上げていたおはまだったが、
「立木さま、こんなことになってしまって……」
と、ぼそりと呟いた。
「やっぱり人って、生まれつき幸か不幸か決まってるんですね。良い着物(べべ)をきて、美味しい物をたらふく食って、歌舞伎役者に浮かれて、良い男のもとに嫁いで、子を作ってその子に慕われながら死んでいく。不幸な宿命(さだめ)に生まれたら、そんな夢も見ちゃいけないんですね」
「そんな宿命(さだめ)などない。幸か不幸かは、己が決めることだ。おはま、なぜ寺へ戻って来なかった。文吉に連れ出されたあと、なぜワシのところへ事情を説明しにこなかった。そうすれば、もう少しやり方があったものを」
「どんなやり方があったって言うんですか。立木の旦那は、あたしに幸せをくれるっていうんですか」
「それは分からん」
「それみなよ、結局あんたもお役人なんだよ。お役だから、離縁だ、帰縁だと言ってるだけで、女の幸せなんか考えちゃいないんだよ。だけどね、文吉は違うよ、あの子は本当にあたしのことを考えてくれてたんだ、あたしを幸せにしてくれるって言ってくれたんだ。だから、あたしはあの子と一緒になったんだよ。だから、邪魔するやつは殺(や)ってやったんだ」
気持ちが昂ぶっているのか、おはまの声が徐々に大きくなり、口調もきつくなっていく。
「それが、お前の望んだ幸せなのか」
「ああ、そうだよ。これがあたしの幸せだよ。それの何が悪い。あたしは幸せになっちゃ駄目だって言うのかい! 散々男に弄ばれた女は、幸せになっちゃ駄目だって言うのかい! ふざけんな! これがあたしの幸せだ!」
おはまは目を血走らせ、唾を飛ばして叫んだ。
宋左衛門は、ただじっとおはまを見つめる。そして一言。
「これが、お前の掴んだ小さな幸せなのか」
すると突如、おはまはわっと伏せて、まるで子どものように肩を揺らして、おいおいと泣き出した。
宋左衛門は言った、「許せ、おはま、最後まで、力になれなんだな」
外に出ると、源五郎が鼻をずるずると啜り上げていた。
「いや~、冷えてきましたな。こういう日は、熱燗でくいっといきたいものです」
その目には、光るものがあった。
おはまは、政吉と正式な離縁をしていなかったので、姦通したうえでの夫殺しの罪に問われた。
本来なら、引廻しのうえ磔だが、源五郎や宋左衛門たちの執り成しもあり、これまで政吉や大澤から散々な目を受けていたということが考慮されて、遠島へと罪を減ぜられた。
遠島のときは、宋左衛門も見送りにいくそうである。それまで、寺へと戻ることになった。
「惣太郎、世話になったな」
「いえ、私が気が利かないばかりに、おはまがあんなことになって」
「いや」と、父は首を振ったままだった。
板橋宿まで来て、口を開いた。
「矢張り、男に女心は分からんな。参った、参った、重荷を降ろすどころか、もっと重たいものを担がされたような気分じゃわい」
呵呵と笑っていたが、見送るその背中は随分寂しそうだった。
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