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ある木曜日の"診察室"


「それで、今日はどうしましたか?」

「あの、なんだか体がだるくて。」

白衣を着た男が言った。

「そうですか、それではまず熱を測って。」

体温計を差し出す。


「これは、えぇと、どうやって使えばいいのでしょうか?」

「ほう、体温計の使い方を知らない?珍しい。これはこうやって脇に挟む。しばらくすると音が鳴るからそうしたら抜いて数字を見てください。」

静かな空間にピピッと電子音が鳴る。

「ほらこんな風に。」

男は体温計を受け取る。

「36.5 ℃...なるほどなるほど。」


「あとは?咳が出るとか、喉が痛いとか、何かほかに症状は?」

「いえ特には...。ただ、ちょっと胸のあたりから雑音のような音が聞こえる時があります。」

「ほぅそうですか。それでは少し聞いてみましょうか。」

男は聴診器を当てられる。


「どうでしょうか。」

「ふむ、特に異常はなさそうですがね。」

「そんなはずはない。僕にも聞かせて下さい。」

「ははは。聞いてわかりますかな?」

それでも食い下がる男にしょうがないなと、子供をあやすように聴診器を貸してやる。


男は聴診器を自分の胸に当てた。

「本当に大丈夫なんでしょうか。僕にはこれが正常かわかりません。」

「医者の私が言うのだから、大丈夫ですよ。」

「すいません、僕は物事を信じるのにいつも時間がかかるものでして...。あの、先生の音も聞かせていただけないでしょうか。僕だけ変な気がするんです。一緒の音がすればきっと安心できます。お願いします。」

「いやぁ、こんな人は初めてですよ。」

「すいません、それでちゃんと信じますから。」

男は半分強引に心臓の音を聞いた。


「...あぁ、よかった。大丈夫そうだ。ありがとうございます。これで安心できました。」

「それはよかった。熱もないようだし、問題ないでしょう。様子を見て、また何かあったらいらして下さい。あなたはなんだか気苦労が多そうだから、ゆっくり休んで。」

男は優しく言った。

「ありがとうございます。何かあったら、すぐに来ます。それでは失礼します。」



男が引き戸を開けると、ショートボブの白髪を綺麗に整えた女性が、お盆にお茶を乗せ、テーブルに持ってくる。

「先生、こちらにお掛けになって。今日もありがとうございました。主人はどうでしたでしょうか?」

「うん、今日も元気でしたよ。熱も平熱だし、ほんの少しだけ気管支が狭くなっているようですが、まぁ問題ないでしょう。」

「そうですか、よかった。ここ2日ほどよく咳き込むんで、風邪でも引いたんじゃないかと思って。あの人何を言っても病院には行かないし、熱も測らせてくれないし。先生がどうやって主人を診ているのか、いつも不思議だわ。」

「もう一生分、病院には通ったでしょうからね。行きたくないんじゃないですか?」

冗談っぽく言う男に、それもそうねと妻はふふふと笑った。

「いやぁでも、そのおかげでスムーズに診させてもらえて助かってます。ご主人が元大工さんだったら、僕にはどうにもできませんでしたよ。」

男は穏やかに笑った。
どういうことだろうかと少し首を傾げながらも、妻は答える。

「そうですか?きっと私にはわからない世界があるのね。いつもありがとうございます。」


身の回りのことがうまく1人ではできないようになってしまってから、夫はすっかり変わってしまった。
あんなに穏やかな性格だったのに、時々声を荒げるようにもなった。
仕事一筋で趣味もこれと言ってなかったため、仕事をやめてからはすっかり人とも会わなくなり、部屋にこもるようになってしまった。
そんな夫が、彼の訪問診療だけは文句一つ言わず受けてくれるので、妻は深くは聞かず、彼を信頼して任せることにしていた。


お茶を飲み終えた男はそれではと席を立つ。
ぱたぱたと玄関まで見送りにいく妻。

「季節の変わり目ですので、奥様もお体大事にしてくださいね。では、来週の木曜日にまたお伺いします。」


男は頭を下げ、家を後にした。

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