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「黒い皮膚、白い仮面」と日常

 NHKの100分de名著で現在放送されている、黒い皮膚・白い仮面
2020年5月、アメリカで黒人男性のジョージ・フロイドさんが白人警官に殺害された事件でBLM(ブラック・ライブズ・マター)運動が世界中に広がったことで゛差別“というものをより一層考えるようになった人も多いのではないだろうか。

黒い皮膚、白い仮面フランツ・ファノンという思想家が1952年に論文として発表としたものである。その中にはフランスの植民下でフランス人として育ったと思っていたファノンが、戦争をきっかけにニグロとして(皮膚の色を要因とした)疎外的な関わりを受けたり、自分の中にあった黒人差別に気づいていく様、アイデンティティの問題や白人主義の弊害などが書かれています。

 この著書の内容を知ることで、自分や周りの思想を言語化されているような感覚を得てしまう。無自覚の差別的な考えは同じ国の中にいても、同じ町に住んでいてもあるものだなと感じる。支援の仕事をしていてもそうだ。

普通とは、障がい、性差、地域性、学歴、収入・・・

様々な条件で「ニグロ」のような存在を作り出すことができる

 ここでサバイバーとなる側にファノンがいて、その心情の変化などを綴っているのだが、ある時ファノンは白人優位に対立的な考えを膨らませるようになりネグリチュードという運動に共鳴し、”黒人の方が優位だ”という主張に飲み込まれていく。しかし あるきっかけをもとに、対立的な考えは白人優位や黒人差別を解決するものではなく二極化した分断を生むだけだと気付くのである。

 この考えへの気づきは大切だと強く思います。

 例えば虐待をした保護者を見つけた時に、立場の弱い子どもを守るのは必要なことではあります。しかし弁護士や警察でもない限り、加害者/被害者という対立構造を作る第三者にはなってしまってはいけないのです。

 なぜ対立構造がいけないのかというと、ゴールが二極化する為に善/悪という結果がついてしまうからです。そこには対立が必要なのではなく、対話が必要なのです。

 加害者という結果だけを見てしまっては、今度は加害者側にバッシング等の別の被害を生むことになりかねません。これはただ、構造が逆転しただけで解決には及びません。ファノンはそれに気づいたのです。

日常にもある対立

学校に行けない私/行かせたい私 と対立してしまう不登校の問題。

 なぜ行けない・行きたいと思えないのか、なぜ行ってほしいと思うのかを対話していくことで離れた思いを淡く重ねていく時間が持てているのでしょうか。

障害のある/障害のない と診断に揺れる教師と保護者。

障害を受け入れる保護者の気持ちはもちろん大事だが、障害の有無に限らず どんな支援を望んでいるか、障害があったと分かった場合にどんな支援を受けられるか等の子ども側の気持ちも知ることも必要です。その一方で教師のどう支援していくべきかの理想と現実・限界も保護者は理解が必要になる場合もあります。

 これは想像の例ですが、日常の延長に簡単に分断は訪れます。相手の気持ちを知ろうとすることよりも、自分が正しいと思い込んでしまったり、まずは自分の気持ちを理解してほしいという隙間のない気持ちが溢れてしまってそれが言葉や態度で出てしまうものです。

 相手の気持ちがわからない時こそ対話を

誰かを褒めるときに、別の何かを蔑むこと
病んでるからそういう考えなんだろうな と理解できないことに環境的な原因を勝手に作ったり、想像を1人で膨らませるよりも 意見をぶつけずに 互いの意見を置くこと。そして置いた意見を眺めて、様々な角度から見ること。そんな対話が対立を招かない1つの手段であると考えます。

議論は1つの答えを出すために意見を出し、話し合うこと。
会話は言語のやり取りを通じて楽しむこと
対話は1つの話題に対して意見の違いを理解し、質問したり、知識を共有していくこと

なんだかいつも「対話」が大事ってことで締めくくっているようにも、思いますが 本当に対話は大事です。


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