ひがさや

ここは訪れたい人しか来ない場所なので わたしはずいぶんと安心しているのです わたしの脳みそと体から出た声をここにこうして置いておけることに。 ここにあるのは生身の体ではありませんが 言葉になることで生きることができるなにかです なかのひとは『あしてあとれ』という架空の場の住人。

ひがさや

ここは訪れたい人しか来ない場所なので わたしはずいぶんと安心しているのです わたしの脳みそと体から出た声をここにこうして置いておけることに。 ここにあるのは生身の体ではありませんが 言葉になることで生きることができるなにかです なかのひとは『あしてあとれ』という架空の場の住人。

最近の記事

あなたと会ったって、さびしい

 私の名前のなかには「さ」という音があって、「さ」でよかったなと思う。「き」でなくてよかった。「きびしい」よりは「さびしい」がいい。  猛烈にさびしくて、もう我が人生からこの種の欠落を消すことなんか叶わないと思いなおして泣いた果てに、ポツリとそう思う。  私は、そういう、要するにたぶん、ひとりぼっちが好きな人間である。  なんだか特別な人に会ってきた。  直接お会いするまで、その正体がよく分からずに、それでもこの人と言葉を交わすと感じるサーチライトでまっすぐに照らされるよ

    • この、空の下 どこかで

      それは たとえば 信号が赤から青に変わるまでの無音 たとえば 手もち花火にはじけた光が 消えてゆく闇の色 さびしさはやわらかい音をたてて しあわせはよい香りをふるわせて きみの一部になるよ、と声がする きみの一部になるよ きみの一部になるよ 特別な一瞬ではなくて きみの骨に肉に血に熱に 涙に汗に願いに夢に 溶けてここにいるよ ずっとここにいるよ そうして 遠く空を渡っていった鳥たちが 帰ってきてくれる いってらっしゃいとおかえりを 交互に、交互に繰り返して 空は澄

      • お金の数え方みたいに

        もう夏休みもおしまいということで、アルバイトさん達が続々と最終勤務日を迎えている。 向かいの席の同僚が、彼女にとっては初となった我が部署の夏休みについて、「来年のために覚え書きを書いておかなくちゃ。高校生のアルバイト生は、お金の数え方から教えなくちゃいけない、とかってこと。」としみじみと言う。 そういえば私もこの夏、三人くらいに教えたな。小指と中指の間に挟んでゆるく折り曲げて、お札の顔がお客様に見えるようにして…っと思い浮かべたところで、かつては私も教えてもらった側だった、

        • 触れる

          私の丁寧さのなかには 臆病さも流れているけれど 慈愛も含まれていて だからこそ私はその一瞬のためらいのような指先を ひとつも余さず味わいたい 一事が万事そういう感じ あなたは熱いだろうか 冷たいだろうか やわらかいだろうか ざらついているだろうか 想像して、美しいものを夢見て 現実の豊かさに裏切られては愛される 手を伸べるのをやめられない もっと、触れられる。そう思う 指先に触れたものがいとしくて仕方がない そのくせ もう次触れるもののことを考える 息継ぎのように 深呼吸

          アクロバティック受け身

          諸事情でかなり感覚的なことだけ書くよ。仕事のことと言えばお察しですよね。 にこやかには語れないこと。言葉にせずに来たおかげで、ずいぶんと深く心に刺さったままで、もうわけがわからなくなってしまっていること。 テコでも動こうとしない自分の心を、もう一度動かすために。 書いてみる。 パンデミックのあおりというやつがあって。 もう質じゃないんだな、って。 もう、ただなにかコンテンツが有ればいいんだなっ、って。 回すことだけやったのよ。 こんあな上っ面なことを一度覚えたら…

          アクロバティック受け身

          独眼竜ではないマサムネの話

           年を取ると良いことがある。これは、私ではなくて猫の話。  我が家には7匹猫がいて、うち4匹が10歳を越えている。後期高齢猫社会だ。どの仔も道に落ちているのを拾った。今保護しなければ十中八九死んでしまう、だから保護する方を選択する。そんな出逢いばかり。  でもそのうち一匹だけ、私が彼らと生きるのを選んだのではなくて、結果的にこの仔に選ばれた、という個体がいる。名をマサムネ、命名の元となった独眼竜政宗に恥じない、武士道を地でいくみたいなちょっと珍しい性格の猫。彼を保護したのは

          独眼竜ではないマサムネの話

          金色の一週間

           もう明日にはソレが迫っている。  私の勤める事業所では一年の収入の三分の一を掴む連休。子どもの体験学習をメインとした教育普及施設が迎え打つGW。そうつまりソレは、いつもの三倍から五倍の来客数を、いつもの二倍のスタッフ数といつもの八倍くらいのテンションで捌かねばならない期間…良く言えば祭り、正直に言えば嵐。  今年のソレは四日間と短めスパンなので、息もつかずに走り抜ける所存。  顔色の悪い、けれどテンションのハイな群の一員になって私も走る。その経済的理由も走らなければなら

          金色の一週間

          幸せに、なるよ

           今日は私の記念日だ。  これだけ生きていればちょっとキーポイントになる日付というのは増えていく一方で、けれど今日はその中でも大切な、友人の日。  彼はアメリカ人なのでそしてたぶんクリスチャンだったのでセレモニーはない。訪れるべき場所もない、私の住むこの島には。だからかつて彼の住んでいた家に、もう新しい家族が住んでいるのを確かめながら、その家の前の路地に少しのあいだ車を停めて、彼のことをなんかちょっと考える。幸福になることでしか恩返しなんかできないなぁ、とか考える。  午

          幸せに、なるよ

          「好き」は別れの言葉じゃなくて

           たまにしか、ちゃんと「好き」って言わない人生でした。  だから、好きって言うとまるでお別れの言葉みたいに、自分の内側に響く。  …ほら、たまにしか言わないと、どうしても今言っておかなくちゃ!という時にしか言えないじゃないですか。  例えば、まさに今ですよ。年度末。  大好きだった仲間が、新しい場所へと旅立ってゆく季節。  例に漏れず、今年も見送ります。大好きだった先輩。一生ここにいるんじゃないかと思うくらい空気みたいにそこにいた人。  今、ほぼ毎日会えてるのに。  望

          「好き」は別れの言葉じゃなくて

          生まれ変わりがあるのなら

          生まれ変わって、たとえば  私の顔は会ったことはない人に似ている。父方の曾祖母に。  私が生まれた時には亡くなっていて、だから一枚の白黒写真でしか知らない人。でも似ている。年を重ねてなおさら。あの遺影を撮った頃の曾祖母の年齢に、近づいているということなのかもしれない。    それはそうと、インド映画を近頃よく見る。かの国で大衆娯楽の頂点に君臨している、派手なアクションと分かりやすいストーリー。  よくあるらしい親の無念を晴らす復讐モノの主人公は、親子両役をスターが演じるこ

          生まれ変わりがあるのなら

          インド雑貨屋のおじさんをおじいちゃんみたいに想った話

           昔からあるインド雑貨屋さんへ、やっと行ってきた。インド映画にハマってから1年ちょっとかかった。私のケツの重さをおわかりいただけることと思う。  けれど重いケツを上げさせたのは、結局インド映画が理由ではない。昔その店で買った猫の顔の形をした革のコインパースが、もしかしたらまだ在庫で残っていたりしないかと思ってのことだった。今よく見かけるデフォルメされたデザインではなくて、もう少しインド絵画寄りの、ちゃんと猫の顔のフォルムをしていて、色もいろいろの。  小学生だった当時、今

          インド雑貨屋のおじさんをおじいちゃんみたいに想った話

          さよなら、おばぁ

           蒸した黄金芋とサマハンティーが冷めるのを待っている。  痛いのは喉だけなのに、腰を中心に体のあちこちの重量を、普段なら意識されることもないその単純な重みを、感じる。鼻の奥だけグズグズと賑やかに、「祭り祭りだ」と主張する。それでも熱は出ない。この体は、もう熱を発するのが難しいのかもしれない。切れ目のない眠気が遠くから私を呼んでいる。  昨日祖母が死んだ。  亡くなったらしいよ、と家族で唯一同盟を組んでいるすぐ上の姉から連絡が来た。神の御加護か、この流行り病のおかげで、私は

          さよなら、おばぁ

          ここにね、この手のひらに

          子守唄のように この手のひらに、手灯り 子守唄のように やさしい、例え話 おおきくおおきく息を吸って ああこんなことが、と思う ああこんなことが、 こんなふうに どうしたら大切にできるかわからない まるでわからないままに、けれど なんてこった本当に?正気で? わからない ままに こうして言葉を 信じてみようと、している かんたんに告げてしまえること なんでもないみたいに届いてしまうこと どうしたって不安になること ぜんぶひっくるめて、だから 誰のためでもない言葉で

          ここにね、この手のひらに

          見えない獣の世界で

           うぉーん、うぉおーん、と、私の内側で獣が哭く。  こんなに鳴り響いているのに、その哭き声は、あなたには聴こえることがない。こうして獣を哭かせてしまうのは他でもない、あなたがくれた言葉であるというのに。  良い聴き手は良い演奏を生む。今、私の言葉が際立つのだとしたら、光るのだとしたら、それは良い読み手のあなたがいらっしゃるからだ。ただただ虚空に書きつけるのとはもうまるで違ってしまったことを、この指は知っている。  画面上のキーボードにサラサラと指を滑らせながら、この指は考え

          見えない獣の世界で

          ひかりのあなたへ

           とあるココとは別の場所に言葉の塊を置いている。いわゆる“同好の士”という、仲間内でさざめくように、他には見せられない創作物をひそやかに交わしている場所で。基本的には穏やかな凪のような空間で、ただ受けとって滋養を得る側だったのがいつしか、狂わないために書きまとめた癒しのための言葉の塊をそこに、送りこむようになった。  そうしてみれば当然誰かが読んでくれる。さらには実に稀有なことに、感想までいただくようになった。贈る方からすれば他意のない、シンプルな言葉の花束なのだろう、けれど

          ひかりのあなたへ

          音が流れてゆく台所で

          家事を、日常生活という信仰の儀式だと考えたら  多くの点でその時間が楽になる 家事の有用さというのは理解していて、 それはもう単純に生活の質の話なので 手心を入れるほど居心地は良くなるダイレクトに自分に返ってくる …よね、わかってはいる   ただこれは、あくまでライフハックで、 時間をとめてしまいたいと願っている自分を置き去りには できないのだ お腹はすく 頭は痒くなる 床はザラザラする 猫のトイレが臭う 猫は、彼らはご飯がなければ死ぬので  私は文字通り自分の命を分けるつ

          音が流れてゆく台所で