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生まれ変わりがあるのなら

生まれ変わって、たとえば

 私の顔は会ったことはない人に似ている。父方の曾祖母に。
 私が生まれた時には亡くなっていて、だから一枚の白黒写真でしか知らない人。でも似ている。年を重ねてなおさら。あの遺影を撮った頃の曾祖母の年齢に、近づいているということなのかもしれない。
 

 それはそうと、インド映画を近頃よく見る。かの国で大衆娯楽の頂点に君臨している、派手なアクションと分かりやすいストーリー。
 よくあるらしい親の無念を晴らす復讐モノの主人公は、親子両役をスターが演じることが多い。そして、実に分かりやすいストーリーのまま、子ども主人公は親主人公の生まれ変わりのように、何の葛藤もなく全てを背負う。それが似合うし、出来る。物語のなかのスターはいつだって、無敵なのだ。

 別にインド映画のせいでもなく、過去の時代、今よりも遥かに女性の人生の幅に限りがあった時代を生きた祖母や母に向けて、ふと、想う…顔が似ていなくったってそうなのだから、言わんや曾祖母には。

 『…貴方が叶えられなかった願いを叶えよう。貴方よりは自由に生きよう。それが、ちっとも可愛くなく育った娘で孫で曾孫である私ができる…せめてもの弔いならば。』




 な〜んてことを。たまに考える。

 自分でもアホだなぁと思う。素直すぎるぜ、俺。

 考えるままにしておくと何処までも放浪しはじめる思考を、こうやって、書くことで飼い慣らす。書けるって、ありがたいことです。

 私はね。誰の代わりにもなれないんじゃ。

 とはいえ身代わりに生きることを子孫が申し出たら、涙を浮かべて喜びそうな面々ではある。死人を喜ばせたいなら、悪い選択肢ではない。
 そんなんだから、一緒にいられないんじゃん、ね。


 でもさ、…生まれ変わってきてほしいよ。叶うなら。同じ顔で生まれて来てくれたら分かりやすくて助かる。タイムスリップでも良いね。


 そうして、逢えたなら。

 一緒に飲み屋さんに行こう。お互い、弱い酒でヘロヘロになって、どうしようもない身内の男達をけちょんけちょんに言葉でなぎ倒して、ウソみたいに色とりどりの甘いデザートをいっぱいハシゴしよう、それから狭い我が家に泊めてあげる。猫達を時々ベッドから落っことしながら、でもウチの猫達は気立てがピカイチ優しいので文句も言わずに温めに戻ってきてくれるから、猫に、あのこ達のゴロゴロに包まれて、抱きしめてあって眠ろう。きっと優しい夢を見れるよ。
 そうして目覚めたら狭い台所で、肩とか手とかぶつけあって、(ケガはしないように気をつけよう、お互いに)賑やかに朝ごはんを作ろう。一緒に食べよう。
 めちゃくちゃカッコいい人が出る映画をたくさん一緒に観よう、普段はお化粧しない私も、人をおめかしさせる楽しさは知ってるの。一緒にコスメを買いに行こう。鮮やかな色の、肌に纏うだけで嬉しくなっちゃうような服を選ぼう。

 あなたがここに、いてくれるなら。

 私はそんなことをしたい。ふと思いつく程度の発想、『あなたの代わりに生きる』なんて程の時間の余裕は私には無いし、あったってそんなことはしてあげない。だってそんなのちっとも、「自由」じゃない。不自由を差し出す愛なんて、愛じゃないって、私は思うから。

 だから。生まれ変わっておいで。
 ひいおばあちゃんもおばあも、ついでで悪いけどおじいも、おじさんも。その人生に、歯を食いしばるような想いを持ってしまった、みんな。

 生まれ変わっておいで。友達になろう。あなた達は映画スターじゃないから、誰があなたかをきっと私は見つけられない。だから、私は、友達になってくれた人に、めいっぱいの自由を贈ることに、する。
 あなたがあなたでいてくれて嬉しいよ。いろんな話をしよう、私が聴けることがあるなら。楽しいことをいっぱいしよう、嬉しくて仕方のないことを。そんなことだけを想って、友達の傍にいることに、する。
 
 生まれ変わりがあるのなら。
 そんなふうに幸せになろう。

 すれ違う、友達になれるかもしれない人々に、そんなふうに、眼差しを送る。夕暮れ、誰にとってもただ一度の、2024年3月。
 もうすぐまた、春が巡る。

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