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アクロバティック受け身


諸事情でかなり感覚的なことだけ書くよ。仕事のことと言えばお察しですよね。

にこやかには語れないこと。言葉にせずに来たおかげで、ずいぶんと深く心に刺さったままで、もうわけがわからなくなってしまっていること。

テコでも動こうとしない自分の心を、もう一度動かすために。
書いてみる。


パンデミックのあおりというやつがあって。

もう質じゃないんだな、って。
もう、ただなにかコンテンツが有ればいいんだなっ、って。

回すことだけやったのよ。

こんあな上っ面なことを一度覚えたら…もう二度とできないな今までやってきたことは。って思った。
もうあんなに質を自分に要求できない。もうそんな世界じゃない。あんなに自分を追い詰められない、って。

結局、人形にはなれなくて(なれたらそもそも別の仕事をするよね)、ユーザーだけ見ようと、決めて。ユーザーがいたから走れた。やっつけ仕事でも。最低ラインの質でも。幾らでも。一人でも。

そうしていま、すっかり擦り切れて。ユーザーを相手になら、初々しかった頃の自分からは想像できないくらい、ゆったりのんびりと向き合える。関われる。踏んだ場数だけは、心のひだにちゃんと残った。大切なことの芯、その質だけは、磨き抜かれて残った。

……誇れるのはそれくらいだよ。

それしか、なくなるだろうと知っていた。それだけは絶対手放さなかった。


そして今。

今、もう一度、走れと言われてる。

『人手増やすよ、企画も増やすよ、予算の算段もあるから、収入しっかり腰いれてこ。後方支援は幾らでもするよ、ちゃんとバックアップするよ、さぁ。…走り出そうぜ!』って。

パンデミック前と、同じことはできない。いなくなってしまったスタッフの代わりはいない。相手にするユーザーの数は増す一方だ。
でも企画を走らせるのなら、起爆剤も、その後の走行速度も道筋も、自分で仕掛けてゆかないとどこにも行けない。

どこにも行けない。



さてどう走っていたんだっけ?過去を想うと、あおりを受けたあの3年間、片付ける暇もなかった痛みがここにあるのがわかる。

…悔しかったなぁ。苦しかったなぁ。怖かったなぁ。

消されるくらいなら自分たちで幕を閉じます。そう言って、さよならした企画たち。
あんなに持て囃され、幾度も言語化されていたはずの存在のコアが、いともかんたんに透明化されて。(…そうだよ、私たちの価値はそこにあった。分厚いスタッフ層、多彩なプログラム。ひとつひとつ異なるコミュニケーションを慈しんで。形の残らないもの、言葉にされないことを一生懸命、言葉と形にして、その意味を具現化した。)
価値が透明になったら、糸クズみたいにしがらみとこだわりだけ残った。

『それ、意味あるの?』何度も、ご自身を雲の上の人だと思ってらっしゃる層の管理者側から言われてきた言葉は、もう言葉にすらならず、予算とか、関わりのない業務とか、専門性の排斥とかで、内側からジクジクと染み込んできた。彼らの意図は、水が低いところへ流れるように自然に、私たちの最後の足掻きになった。
透明にされるとき、相手もまた透明になるのだと、よく、わかった。
大好きだったよ、さよなら。きれいなすてきな時間と経験をありがとう。そう言って、自分たちの手でおしまいにした、愛しい価値たち、視点たち。


この手のひらに、残っているのは宝物だろう。でももう誰かに見せたいとあんまり思っていない。
伝わっていかないんだなという感覚だけ、言い訳のように立ち塞がる。



言葉は身体中に詰まってる。

でも出てゆかない。

ただしく聴いてくれる人がもう居ないように思っている。

歌いたいのに、歌がない。


求められていることにこたえましょう

『やっていることをちゃんと数字にする。映えるポイントを丁寧に見せる。求められていることのポイントを押さえてしまえば、やりたいことはできる。』
言われてることはわかる。すごく丁寧に、的確な通訳をしてくださってると思う。上層部と現場の間に立つ、通訳。

でもとっくに擦れてグレてる私は思う、「それで、相手の土俵に乗って、本当に搾取されないと言える?思える?虚しさを、ちゃんと“我々自身の”実の有るものに変換できる?」
だって視線を合わせるなら、ユーザーじゃない? ユーザーを騙る管理者じゃなくない?

今の上司を信頼してる。だからこそ、めくらめっぽうには走れない。
彼らが求めるのは本気の走りだ。薄っぺらいフェイクなんかは鼻で飛ばされる。
走って転んで血を流すのも私なら、どこをどう走るか決められるのも私だけで、でもどうにも、もう。
指の一本も動かせない。

傷が残ってる。良いことだけ見ては走れない。そんな無責任な楽観性を私は持っていない。

愛しい場所だ。たくさんの人の愛が詰まってる。同じだけ、たくさんの人の、無念さもある。それをノイズみたいに扱うのなら、私はその先にあるものを希望とは呼ばない。欺瞞だと思う。
『そういうことは、片目を瞑ればいい。塩梅を見て。』私だって大人だもの、そう思わないわけじゃない。これを他人が言ってたら私だってそう口走るかもしれない、けれど。

捌くために数字として眼差したユーザーと、
現場で出逢うユーザーは同じものにはなり得ない。
私は、現場でユーザーと一緒に泣き笑いをするプロフェッショナルなので。
ユーザーが何をどう笑うかを、一番先端に立って受け取らないといけない心と体なんですわ。
彼らから解離した場づくりはできない。
建前だとしてもできない。
口先だけで良い、そう言って、中身が失われてゆくのはもうずっと見守ってきたんです。
口先から、実態は変容してゆくし。
口先にのぼらなくなったら、もうそれは魔法とか伝説と同じになる。信じている人にしか見れないものに。言葉にされないだけで、まだ確かにそこに、存在していたとしたって。

言葉に想いをこめて、幼いやわらかな心を受けとるお仕事です。

言葉をぞんざいに、都合よく振る舞って、ただしく物事を進められる気が、していません。

自分の発する言葉を、一番近くで聴いている、自分自身を馬鹿にしたまま、良い仕事なんかできませんのじゃ。

そうして、走れとおっしゃる上司陣も。
走らせるからには走れるだけの胆力が担当者にないと、それだけのエネルギー込められるネタを担当自身が見つけださないと。
走りとおせないくらいのボリュームの業務がそこに出てくる事はご存じでいらっしゃるわけで。

私だって走りたい。もう一度歌いたい。けれど、ただしく聴いてくれる人がもう居ない。


ただしく聴いてくれる人がもう居ない。

聴く事は話すのと同様に力を持っていることだから。その人の相槌で、話したことの深みは変わってしまうから。聴いてくれる人がもう居ない、と、そう感じていることは致命的だ、真空に向かっては歌えない。

でもまだ。
この体に詰まっている言葉、視点、価値観に、意味があると、まだ私は、信じてる。

『相手に気持ちが届いたか届いてないかなんて、無茶苦茶お互いバレてるじゃないですか。そういうレベルのことを、大人も子どもも関係なく僕ら、共有できちゃうじゃないですか。』

 そんなことを言葉にして、聴かせてくれた場所だから。
 失ってしまいたくない。もう、誰もそんなことをほとんど口にしなくなって、もう、何をしているのかが魔法や伝説みたいに、見えないことになってしまっても。




ここまで書いてみて、ようやく、わかる。

もう、走ってる。とっくに。とうの昔に走りはじめてる。なんならずっと歌ってた。一度だってやめずに、ずっと。

でも走ってみて、ああやっぱりまだ、誰とも言葉が通わないなぁと、思ってる。
まだ誰にも聴こえてない。この歌が。
聴こえてこない、もっと大きな声で!と言われてる。
そうかい、でも歌うよ。ここで歌う。
ユーザーには、しゃにむにピタっと届く、この歌はもうたぶん終わらないんだよ。そうゆう源泉を私はもう掘り当ててる。

これを。この歌を、手がける仕事を、いかにザ・マネーに変換して、いかにインスタ映えするかキメて、いかにそれっぽい数字に並べ直して、なんて、そんなことは。

私の口には、気軽にはのせない。のせられない。この口から出る言葉は、一番に、まだやわな耳しかもたない彼らのために使いたい。
ごめんなさい、だからそういう意味では、私からも。同じ言語は交わせない、同じ釜の飯は食えない。そういうことを、調子よく両立させられる方にお任せしておくよ。


言葉を持っていた。私たちは。
その価値を知っていた。その価値は、私の体に心に入っていたことと一致した。私の中からは、無くならなかった。
この言葉が、私たちがそもそもスタートに持っていたコアが、もう一度“ここにちゃんとある”ことになるために…私は走るよ。そのためになら走れる。道が見える。大丈夫だ、転んでもアクロバティックに受け身とれそうだ。

こっちの方は、だから。任せてもらって良いよ。

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