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インド雑貨屋のおじさんをおじいちゃんみたいに想った話

 昔からあるインド雑貨屋さんへ、やっと行ってきた。インド映画にハマってから1年ちょっとかかった。私のケツの重さをおわかりいただけることと思う。

 けれど重いケツを上げさせたのは、結局インド映画が理由ではない。昔その店で買った猫の顔の形をした革のコインパースが、もしかしたらまだ在庫で残っていたりしないかと思ってのことだった。今よく見かけるデフォルメされたデザインではなくて、もう少しインド絵画寄りの、ちゃんと猫の顔のフォルムをしていて、色もいろいろの。

 小学生だった当時、今みたいには猫グッズは溢れていなくて、とりあえず猫グッズだぜと愛用しつつも、どちらかというと毒舌気味だった私は「こんなキツネっぽい顔の猫いないぜ」と思っていた。ウチにいる猫も野良猫も、あんなに鼻は細くない。目だってあんなに見事なアーモンド型してない。アゴもあんなには尖らない。

 けれど、…いたのだ。実在した。

 私は去年から、見事なベンガル模様の猫を飼っている。インドに程近いところのルーツを持つ彼女の面差しを、なんかどっかで見覚えが…とずっと思っていて、やがて気がついた。昔見たあのコインパースの猫そのものだと。
 それに気づいてから、昔バカにしたインドの職人さん各位に謝りたくなった。あなたの見ていた猫はこうだったのですね。地域が変われば身体性も変わる。幼い私はそれを知らなかった。ベンガル地方の遺伝子をもつ彼女を人間に喩えたら、ディーピカちゃんばりのシュッとした美人だと思う(飼い主の欲目です、ええ)。

 というわけでインド映画を愛するようになった身としては大変危険なそのお店に、愛する我が猫の概念グッズを求めて、遂に。私は足を踏み入れたのでした。



 この店の店主のおじさんはめっちゃ客に話しかけてくる。商店街なんだからお喋りがデフォルト設定なのはしょうがないとしても、本当にずっとロックオンされる。
 けれど、かつてちょっと苦手だったその距離感が、なんだか。

 おじさんは直ぐに聞いてくれる、『何か探しているの?』
 かくかくしかじかで、と伝えれば、『あったねぇ!だいぶ前だねぇ!随分と長いこと来てないんだね?』と店の主らしくにこやかに言う。
 もうないけど、見つけたら入荷するよ、と気安く言うから、じゃあ時々見にこなくっちゃ、とこちらも気楽に答える。気楽だけれどお為ごかしでもないと思った。なんか、見つかりそうもないということは互いに知りながら、けれどもし本当に見つけたら“本当”にそうしてくれる。そういう感じがした。

 とりとめもなく、商品を眺めながら、不思議とつい色んなことを喋る。
 かつて苦手だったこの距離感が、随分と洗練された心地良いものだと感じる。そうしてゆっくりと私は気づく。自分が、精神的な身軽さを、手に入れていることに。
 

 かつて、…たぶんそう遠くない昔は。心をゆるめて喋るということができなかった。抱えて、抑えている感情が体の内側に詰まっていて、握りしめているその指を開いてしまったら多分、コントロールできずに溢れ出てしまう。そういう感覚がずうっとあった。だから、優しく心地よく会話を展開しようとされると、キツかった。
 やめて、解かないで。あなたを傷つけてしまうかも分からないし、大号泣してしまうかもしれない。
 そういう不安が体中の皮膚に貼り付いていた。それはつまり、ちょっと汚い喩えで申し訳ないけれど、ずっと便意はあるのに便秘気味で苦しんでいる状態の人が、おしりをくすぐられるのと似ていたと思う(そんな状況もありえないけれど感覚ね、感覚の話) 。
 ここがそんな場じゃないのは分かってるの、だからやめて、日々この苦しみを誤魔化すために生きてるから。
 …そういう。



 かつての自分が感じていた居た堪れなさを頭の片隅に遠く思い出しながら、なんとなく店をぐるぐるし、商品についてお喋りする。

 めっちゃくちゃしっかり香りのしそうなスパイスのボトル、ヘナのチューブ(初めて見た!)、菩提樹の数珠、インド綿のズボン。おじさんの今一押し、先月買いつけてきたばかりの美しい一点物の工芸品を作った職人の話も聴く。
 もはや心のふるさとであるインドの気配に、あーたまらん!という私の心の声はたぶん表情にはダダ漏れだったろうし、おじさんも私がポロポロ喋る私事をふやふやと、『へぇ?面白いなぁ』と聞く。
 たぶん。全然違う価値観に触れた時に、こうやってただ『面白いなぁ』と面白がれるのはもうそれだけで対人コミュニケーションにおいてハイスキルだ。私は、もちろんその瞬間にはそんなこと考えず、ただ、なんだか嬉しかった。私のことを知らない人に私のことを喋るのが、こんなに不快じゃないのはひさしぶりだった。

 結局私は思ってもみなかった(私からしたら)お宝のような、この店ではなくてネット上で見つけたらこの1.5倍の値段+送料を覚悟しないといけないであろう雑貨や食品を買った。危険地帯だと知っていたよ、でも、めちゃくちゃめっちゃくっちゃ良いお買い物ができてホクホクしてる、私の求めてたインド、なんかとりあえずココに有り!みたいな気持ちでお会計を済ませる。そしたら、ずっと途切れなく続いていたお喋りの延長線上でおじさんが、チャイを飲んで行きなさい、と仰る。
「ひさしぶりに来てくれたからね、奢り。」

 …そういえばいつもこの人はこうだった。

 いや、チャイをご馳走になるなんてのは初だけど、いつきても、お喋りするうちに『ひさしぶりに来るんだね?』と言われる。けれどいつぶり、とか頻度とか、あまり厳密なことは聞かれない。
 つまり彼のこの一言を前にしては、はじめまして以外のお客さんは全て、“ひさしぶりに来たこの店のお客さん”で、そうやって言われると、暗示にかかりやすい私なんかはとっても素直に“ここはひさしぶりに来た私のお店”みたいな距離感へ連れて行かれてしまう。実際、私にとってこの店は、数多くの店が閉まり閑散とした街になってしまったこの場所で、未だに雰囲気と佇まいを変えずに門戸を開いてくれるお店であった。
 そして彼のこの『ひさしぶりだね』と人を迎えるスタンスは、インドのニュアンスにもう身も心も浸っている今の私にとって、そういう心の底にちょっと残っているこの店への思慕をグイと意識の最前列へひっぱってくる力に溢れていた。

(ちなみに、この距離感の縮め方も、かつての息を詰めて生きていた頃の私にとっては、たまにしかこれない不義理感に更に居た堪れない気持ちになるもので…本当に厳しいとこだけを選んで歩いていたな、と今は思う。)

 だから。思わず、入れてもらった…インスタントではなくて、しっかり熱の通ったスパイスの香りが満ちる…チャイを啜りながら、“人と喋るという事”のいろいろについて…訊いてしまった。何故なら、私も今、こんなふうに喋ることで…“場をつくる”仕事をしているから。

 ー おじさん、私ね、今、こどもと遊びながら喋るお店で働いてる。喋るって、とても良いですよね、私、昔は人見知りが酷くて全然人と話すことできなかったから、話せるようになって、うれしいんです。
 ー そうだよ、話すのはすごくいい。楽しみ。気分が変わるしね。心が動くし…知らなかったことが、いっぱい分かるようになる。あなたはそこで何年いるの。9年か。それはもう…すごいことだよ。あなたはもう大丈夫だ。
 ー でもねおじさん、いろんなひとが、来るでしょう。いやな気持ちになることも、あるでしょう。どうしていますか。私は、人と話すのがとても楽しいともう知っているけど、怖くなる時がある。別に何かされたわけではなくても、ああなんか今いやだったなぁ、とても気持ちわるいなぁって、思ってしまうことがある。どうしたらいいんでしょう。
 ー 色んな人が来るよ。お客様は神様じゃない。だから嫌なことはどんどん流してゆく。でもイヤダ、と相手に向かっては言わないことだよ。そして、絶対に自信を手離さない…絶対に目を伏せない。そうしていたら、嫌なことがあってもね。自分の内側が汚れたままにはならないから。

 それを言うおじさんの目が本当に、深くてまっすぐだった。自信という名の、深く揺蕩う柔らかなそれを、私はまだ、一瞬逸らしてしまう弱さが自分にあるのを見た。けれどそれは失礼なことだな、とも思いなおして、示せるかぎり自分なりのまっすぐで、おじさんを見た。そのあと私は、おじさんの奥様との馴れ初めなんかを聴かせてもらった。
 
 温かかったチャイを飲みほして、『わぁ、実家みたいにくつろいじゃった!』と、背伸びした。そんなふうにくつろげる実家なんて持ったことがない割には、私は実に上手にそんなことを言えてしまう。けれど、誠しやかに口にした実家が実のところ“実家(概念)“である点以外には、そこには嘘はひとつもない。私の人生には嘘でしか言えない本当のことがいっぱいあって、これはそういうことの一つだ。
 『いつでも来て良いんだよ。何も買わなくて大丈夫。」おじさんはそんなこと仰るから、『いや逆に難しい。何か買わずにはいられない、たぶん私が(物欲に勝てる気がしねーっす)』と応えて、可愛い蓮柄のタペストリーをくぐって店を出る。布の隙間から振り返ったら、私のマグを持って奥へ下がるおじさんが見えた。

 今日がとってもいい日になったし、おじさんにとってもきっとそうだと思う。店を出てから、あぁ…と思う。オリジナルTシャツのヒンディー語、何て書いてあるんですか?とか。壁に掛かっていたクラシックな刺繍のタペストリーあれ全部ミラー刺繍ですか?とか。話したいことがまだまだ出てくる。人に懐いてしまうというのは本当に、素晴らしくて危うげなことだ。
 嬉しくて、パワーに満ちて、けれどとても儚い。だから私はまだその力に全身で乗っかれない、でも、いつかは乗っかってみたい。今すぐには無理だとしても。
 次おじさんと話せたらまた聴いてみたい。嬉しくてたまらない出逢いがあったとき、どうしたら良いですか。それが永遠じゃないと分かっていてもずっと願ってしまうとき、どうしたら良いですか。けれど、奥様との馴れ初めを伺った時、彼はこんな風に言っていた。
『話してみるうち、分かるでしょう。その人の心が、どんなものか。だから僕はもう決めた、決まっていた。そうやってね。』
 おじいちゃんに、実家で人生相談したみたいだった。『そうやってね。』

 …そうやって。分かった相手の心を、分かったと思う自分自身を。
 大切にしてあげられたら…いいかしら。
 とりあえず、スパイスの香りに膨らんで暖かい体を車に乗せた。



 私は今日、実家(概念)の実体を、得たのかもしれなかった。
 思い返してみれば、いつだって、魂の父(概念)とか、お母さん&お父さんの手料理(概念)とか数多くの、…永遠ではないと知っていて、それでもその後、崩落が危ぶまれた一瞬をしっかり支えてくれた、そういう意味では永遠たりうる(概念)の権化たちに、支えられてきたなぁと思う。今日のおじさんの言葉を借りるなら、そういうふうにちゃんと私も、“決めて”これたのかもしれなかった。
 だから、心のふるさと(概念)とか親友(概念)とか実家(概念)が増えていくのは、そりゃあ。
 …これだけ、光に向かって生きてみていれば、そりゃあ。

ーーー なんてったって、インドだしね!

 
 

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