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幸せに、なるよ

 今日は私の記念日だ。
 これだけ生きていればちょっとキーポイントになる日付というのは増えていく一方で、けれど今日はその中でも大切な、友人の日。

 彼はアメリカ人なのでそしてたぶんクリスチャンだったのでセレモニーはない。訪れるべき場所もない、私の住むこの島には。だからかつて彼の住んでいた家に、もう新しい家族が住んでいるのを確かめながら、その家の前の路地に少しのあいだ車を停めて、彼のことをなんかちょっと考える。幸福になることでしか恩返しなんかできないなぁ、とか考える。




 午前のうちに髪を切ってパーマを充てた。

 すうすうする首元、私にとって初めての“いきつけ”と呼べるサロンのヘアデザイナーは、私が自分で後頭部の仕上りを確認できるように大きな鏡を掲げながら「えりもと、出ているから…。日焼け止め、塗ってくださいね」とおっしゃった。
 美容師という存在の美意識には本当に頭が下がる、ありとあらゆる細やかなケアが苦手な顧客だってことは、きっとバレバレなのに。


 中学に上がるまで髪を切ることを許されなかったせいか、壁のように聳えたったヘアサロンへの敷居を大事に抱えたまま大人になった。
 そして下手に小器用なおかげで、三十代もなかばになるまで、ずっと自分で鏡を駆使して髪型を整えることになる。
 時折勇気を奮ってサロンに行っても、人見知りだし、人に触れられるのが居心地が悪すぎたし、無理に続ける空虚な会話が苦痛だったし、たいていその後は肌がかぶれた。とにかくデメリットの数が多すぎた。
 サロンに行くことが『ケア』であると思えるようになったのは本当にここ最近のことだ。心地良いコミュニケーションとはどんなものか理解して、どうしたら、そういうコミュニケーションを選べるかのスキルを磨いて…こうして理想のヘアデザイナーの店を予約するまでになった。
 自分の進化に「ブラボー!」を贈りたい。
 

「軽く濡れた状態で、ハード系のムースで整えたらスタイリングはおしまいだから…このスタイルなら。」とか、「わけめ、自然と分かれるとこで良いですか?」とか。遂に見つけた理想のヘアデザイナーは、私にプレッシャーがかからない程度の温度感でそんなふうに、スタイリングの合意点を探してくれる。
 そうやって、相手のレベルに合わせて添えてくれる言葉の居心地が良くてここに来るのに、こうしてチラッと…彼本来の、肌や髪への美意識が覗くのがなんだかかえって嬉しくて、私は『塗らないだろうなぁ日焼け止めは。かぶれるので…』と思いつつも、つい、人の良い顔で頷いてしまう。

 この人は、ヘアデザイナーでありながらも顧客の容姿に一言も触れない。
 リクエストについて伝える時は「私」という素材を集中して観察し、リクエストに応えるための方向性の確認とか、髪質や生え方についてとか、そのままリクエストに応えられる点と要望の整理が必要な点の説明をしてくれる。
 仕上がった時も同じで、私のリクエストに答えられたかを問う。かわいく、美しく、とかそういう、答えがあるようでいて結局は無いことじゃなくて、顧客が叶えたかったことが叶えられているか、という一点にただ眼差しを注いでくれる。

 ただただ顧客自身を受けとめて付き合ってくれるその誠実さが空間を満たしているから、私はこの人を信頼して、身を任せて瞼を閉じて、言葉のない音楽が心地よく刻むリズムと、たぶんそれに呼応しながら運ばれるハサミの音や、髪のひとふさひとふさを繰る彼の指、集中している静謐な眼差しやなんかをただ、感じる。
 シャワーの湯加減。流しそびれがないように、心地良いようにと丁寧に何度も添えられる手のひら。他者に体を任せられる状況がシンプルにもたらしてくれる、優しい感覚。
 誰かが見守ってくれる場所で、瞼を閉じてぼんやりとしていられる時間。それはこの歳になると本当に稀有なひとときだ。いつだって、多くの責任と多くの判断材料が知覚を満たす、日常の中では。

 「スタイルがもつのは…3、4カ月ってとこかな。」ハラリとケープを取り払ってくれた瞳に、鏡越しに微笑み返す。ずっとハサミの音と手指の心地良さを与えてくれた人と、交わす言葉はいつもそう多くはない。僅かの会話の話題はたいてい、互いの家の猫の話だ。きっとお互いに、喋ろうと思えば幾らでも会話できるけれど、そうしなくても…良い。
 そういう空間で二時間、たっぷりとケアを受けて過ごした。

 こんなふうに幸福に生きてる。



 友人のお父さんは、私のことを「君は彼にとって天使だった」と言ってくれた。そう言ってくれるお父さんの想いをしっかり受けとって大事に胸に刻んでいる。
 そしてねお父さん。あなたのちいさな息子、彼こそが私にとっては天使です。ずっと、天使です。こうやって、定点観測みたいに、私を見ていてくれる存在。

 “もう一度あの日に戻れるなら”。
 これだけ生きてみて、心底願うのはやっぱりただ一日、あの日だけだ。

 あの日のあの後悔を越えるために、私は随分強くなった。けれどそうやって強く逞しくなって、結果、一番幸せになってゆく。

 彼は、「ブラボー!」なんて言わないだろう。
 きっと、“そりゃそうだよ”みたいな顔をして、まるで幸せにならない方がおかしいみたいに笑うだろう。仮に私が何かしらとんでもない失敗しても、変わらず笑ってそこに、いるだろう。
 幸福へと、近づけてくれたのは彼だった。もう何処にもいない彼の、その存在、その眼差しだった。

 4月11日、17年目の今日が巡る。
 幸せになるよ。幸せになって、もっとマシなほうへ行くよ。見てて。
 今年も、そう言う。そう言える相手がいる幸せに、空へと微笑んで。
 

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