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ひかりのあなたへ

 とあるココとは別の場所に言葉の塊を置いている。いわゆる“同好の士”という、仲間内でさざめくように、他には見せられない創作物をひそやかに交わしている場所で。基本的には穏やかな凪のような空間で、ただ受けとって滋養を得る側だったのがいつしか、狂わないために書きまとめた癒しのための言葉の塊をそこに、送りこむようになった。
 そうしてみれば当然誰かが読んでくれる。さらには実に稀有なことに、感想までいただくようになった。贈る方からすれば他意のない、シンプルな言葉の花束なのだろう、けれど受けとった私は、そこで七転八倒などしている、実は。

 伝わるのですか、読めるのですか、私の書く言葉は?

 そのような言い方になる、この感慨を言葉にするなら。何度か繰り返してみて、なお馴染めない。

 伝わると知っているから文章公開などしているくせに、なぜ、人からそれへの反応を指し示してもらった途端に、そのことに恐れ慄いて焦ってしまうのか。この言葉が伝わる筈などないと、自分に言い聞かせようとしてしまうのか。そうやって自分の深部に向ける言葉と、他者への感謝の言葉が真逆のベクトルを向くから、言葉のボリュームとスピードばかりが肥大して、私はそこからふり落とされてしまう。

 トラウマのように甦るのは姉や母からかつて向けられた言葉だ。あの暴力の渦中にあって、互いの言葉など無造作に反響するばかりで会話などできないに等しかった、だからこの記憶のひだを後生大事に抱える価値など何処にもないと、解っているのに。

「あんたの言ってることがわからない。」

 その時、何について自分が話していたのかも覚えていない。地層のようになっている日記を読み返せば探せるのかもしれない、探せるだろうその気になれば。その時の傷つきについて私は自覚を持って確かきちんと、書いたから。けれど内容はなんにも重要ではない。重要なのは…言葉を尽くそうと踠いた幼い私が、はしごを外されて落下した、その落っこちてゆく感覚が、まだ体の奥に染みついている、ということ。

 だから永遠に欲しがってしまう、自分の発した言葉への応答を。
 永遠に続いてほしいと願ってしまう、この会話の熱よ冷めないで、どうかずっと話をさせて。私の言葉が分かるともっと聴かせて、もっと響かせてほしい、私の言葉への応答を。


 …まるで底のないこの渇望を、

 私はようやく見つけることができた。


 丁寧なリスポンスを…私の“言葉”しか知らないくせに、人懐こくあっけらかんと向けてくれた、やわらかくて優しい人たちの“言葉”に照らしだされて。


 落っこちた私が見たのはまっくらしんとした黒だったな。
 不思議だけれど本当に暗い黒い色を見た。それは夢でもなければ現実でもない、精神的な色だったということの筈だ。その光景が何処とも知らないのに、落っこちてゆく感じのその黒さははっきりと身体感覚に残っている。

「あんたの言ってることがわからない。」

 私の言葉はおもに自分の解離性障害のことを叙述するために発達させた言葉だ。だから非常に感覚的だし、かつ一般的な感覚的経験には属することができない叙述になる、なっているのだと想像して、理解した。伝わらなさに納得をした。
 だから私の「わかってもらえない」という感覚は「わかってほしい」という渇望と表裏一体だ。言葉を尽くしても伝わりはしない、けれど言葉を尽くすより他に方法がない。
 言葉を尽くした先、誠実にそこにいて、耳となって聴いてくれる人たちがいたから言葉にするのを辞めずにこられたのだ。そこに耳になってくれる人は、いた。だから。

 今、ここに、私を知らずに、私の書く、私の選ぶ言葉だけしか知らずに、ただその一点だけに向けて言葉を返してくれる人がいる。その他者を、私はやはり光だなと思う。

 言葉を選びながら、並べながら、私は落下し続けているから。

 そんな独りよがりな表現では届かないよ、そんな言葉選びでは繋がらないよ、ざわざわと耳元をかすめてゆく声は別に脅威でもなんでもない、そして言葉を重ねることはそのまま、落下し続ける自分に櫂を持たせ、少なくとも落下し続ける自分にも何かしらの決定権が残っていること覚えておくための手段に他ならない。
 言葉は。
 私を自由にし、私を黙らせる。私を安心させ、私を苛み続ける。けれどそれでも書きたい、書き続ける限りは私は落下しきらない。

 「あんたの言ってることがわからない。」

 言葉を重ねるかぎりは、私は選べる。

 何処に落ちるのか。


 …私の言葉は伝わりますか、読めていますか?
 あなたに、あなたの脳内に、私の言葉の絵筆でもって描いて見せたかった景色が見えていますか、見てくれるのですか?

 見てくれるの、ですか。

 まだ、しばらく。
 しばらくは阿呆みたいに泣いてしまいそうです、まだ信じられなくて。
 だってこれは私の頭の中にしかなかった風景、私の脳内でしか交わされなかった会話。
 この身の内側で、まるで生きているように微笑んだり泣いたりする愛おしいイメージたち、その残像。
 あなたも慈しんでくれるのですか。

 世界はこんなに優しいのですか、そうですか。

 アカウントネームしか知らない、ただ幾つかの感想を寄せてくれただけの優しい人に、世界のすべてを背負わせるような暴挙をはたらきながら、私はもう少し。もう少しここにいたいと思っています。
 落下してゆく自分に、やわらかな大地を与えられる日が来るのでしょう、きっと、いつか、生きていれば。それはもしかしたら目と鼻の先にあるのかもしれない、そういう楽観的態度を取れる程度には私も年をとり、良い想いもしてきました。
 辞めたくなったら、続けることなどできっこない。それくらい、私自身の内側にしか動機のない事です。そして、この歳になってそういうものを持っているというのは、かなり幸福なことだろうと、なんとなく、そう、何の根拠もなく、思います。

 消えてしまった友情も、失ってしまった感慨も、まるで見送った恋と同じくらいの質量で記憶に傷跡をつけていった。今のこの猛りもいつか、変わっていくのかもしれない、それでも。
 それでも、書いています。この言葉が誰かに届くはしごとなるかぎり。その、言葉の本質への疑いが、この身体から解かれる、いつかのその日まで。

 

#わたしの標本
#書く


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