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パリ軟禁日記 1日目 静かなはじまり

2020/3/17(火)

今日から僕らが当たり前に享受していた移動の自由が奪われる。ここ、自由の国フランスで。外出禁止令が施行されたのは、時が真昼を告げる刻だった。

午前中、サインが必要な書面を手に、僕は勤務先の社長のアパルトマンに向かった。家が近いというのは以前から聞いていたが、本当に徒歩3分くらいの場所だった。当初はカフェかどこかで待ち合わせてサインをいただこうと考えていたが、生憎すべてのカフェ・レストランは閉店中だった。広々とした中庭がある、オスマン建築のアパルトマンの6階に社長は一人で暮らしている。本好きの彼の性格が滲み出る部屋だった。サインを待っている間、コーヒーを一杯いただいた。近所の美味しいレストランの話をした。ミシュランガイドに載っている店を中心に一人気ままに食事をするのが楽しみだそうだ。サインが終わったのは11時前。正午の外出禁止前に何かしたいことはありますか?と尋ねたら、地元紙ル・パリジャンを買いに行きたい、と社長は言った。聞くと、ここ数日インターネットの調子が良くなく、TVもなく、外部の情報は新聞に頼らざるを得ない、とのことだった。こんなご時世じゃ、修理技師がいつやってくるかわかったものではない。最寄りのメトロ前のキオスクのおじさんとは顔なじみとのことだった。顔なじみの店がある、というのはこの異国の土地で嬉しいものである。角のブーランジェリーの前で別れを告げた。ブーランジェリーの前にはパンを求める人の列ができていて、人と人の間が等間隔に1メートルほど空いていた。

特に号砲やサイレンが鳴るわけではなく、ひっそりと法令は施行された。在宅勤務初日は昨日慌てて導入されたVPNソフトウェアの動作確認からだった。IT担当のフランス人の同僚は週末返上で頑張ってくれたらしい。同じ部署内のメンバー間のグループチャットで、皆が動作確認を報告しあっている。顔は見えないながら、皆パソコンを起動しているようだ。メールを確認して、自分がやるべき仕事にとりかかった。15時を過ぎたころ、日本に住む姉から電話がかかってきた。ウイルス騒動による生活の変化を報告しあった。姉は病院勤務なので、医療関係者ならではの意見や洞察を話してくれた。地元で発症した大学生は、直近フランスを旅行で訪れていたらしい。ウイルスの逆輸入。

18時過ぎにバゲットを買いに外に出た。買い物バッグに「特例外出証明書」なる書面を忍ばせて。「Covid-19ウイルス蔓延防止の一環としての移動制限を含む2020年3月16日付の政令第一条に基づき…」。近所に買い物に行くために外出する、ということを言うために仰々しい前置きが書いてある。この紙を持たずに外出し、当局に見つかってしまった場合、最大135ユーロの罰金になるそうだ。普段この時間だと人で賑わう通りが今日は閑散としていた。マスクをして、足早に歩く人。犬の散歩をする人。バスケットボールを持った少年。複数人でのスポーツをすることは禁止されているから、一人でシュート練習でもしていたのだろうか。バゲットとクロワッサンを買おうと思ったが、クロワッサンがなかった。売り切れたのか、買いに来る人が少ないから焼かなかったのかは聞かなかった。バゲット一本だけ買うのもなんだったので、目についた少し大きめな菓子パンっぽいものを買った。2つで2ユーロ85セントだった。

家について、仕事の残りをやってから夕食の支度にとりかかった。パリの日本人向けフリーペーパーに載っていたレシピでスパニッシュトルティーヤを作ってみた。妻にBGMを流してくれるよう頼んだら、Daft Punkが部屋に響いた。DiscoveryとRandom Access Memoriesがシャッフル再生された。いつ聞いても色あせない。さっき電話をした姉もこのグループが好きなことを思い出した。出来上がった少し型崩れしたオムレツのようなものは、少し薄味で何かもう一味が欠けていた。レシピには「上質なオリーブオイルを使うべし」とあったので、それかもしれない。もしくはもう少し塩気か、ハーブがあっても良かったのかもしれない。まぁ、また作る機会に考えるとしよう。

夕食後、ビデオチャットで去年までパリに住んでいた友人たちとビデオチャットをした。画面越しにする乾杯。彼らの顔もはっきり見えるし、声もよく聞こえた。お世辞にも家のインターネット回線速度は速いとは言えないが、特段音が乱れることもなく、近況を報告しあい、旧交を温めることができた。話題に上がったのは在宅ワーク。すでに様々な職場で始まっている。これをきっかけに、職場に毎日通勤する必要はない、ということが証明される業務があるかもしれない。画面越しの友人のグラスの中にはカラフルな色のアイスキューブ、所謂「溶けない氷」が浮かんでいた。

就寝前、アルベール・カミュの作品群をKindleで購入した。『異邦人』含む5つの作品が原語で入っているお得な内容だった。『ペスト』を読んでみたくなったのだ。同じことを考える人が多いようで、いま売れているらしい。

「ある種の監禁状態を他のある種のそれによって表現することは、何であれ実際に存在するあるものを、存在しないあるものによって表現することと同じくらいに、理にかなったことである」

というダニエル・デフォーの引用から物語は始まった。この軟禁期間に読み終わることができるだろうか。こうやって日常に課される縛りと、緊張感。外に出られないからこそできること、というものはある。この記録がそうであるように。

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