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「死なないでくださいね」

こちらに越してきてから、傾聴を主としたカウンセリングを四年ほど受けている。

パニック障害で会社をやめたとき、わたしは自分に価値がないと、社会からついに見捨てられたと心の底から絶望して、号泣し、今までで一番強い「希死念慮」を抱いた。

それをカウンセリングの場で話したとき、いつもなら黙って聞いている先生が、

「死なないでくださいね」

と、静かにひとこと発したのだ。

今思えばこの四年で、ただ一度だけ、先生が傾聴者の一線を超えてわたしの心に踏み入ってきた瞬間だった。

もしかしたら、その時のわたしは本当に死を選びそうなほど鬼気迫っていたのかもしれない。

かつて、ここまでではなくとも、思春期はいつも死にたかったし、自殺未遂も何度かした。毎晩手首を切って血を流したり、首をぐるぐるに縛って寝ることで安心できた。

そんなわたしは、家族や友人、あるいは恋人を悲しませたと思う。今までたくさんの「死ぬな」という言葉をもらったけれど、あまり心には響かず、そしてそれに応えられない自分を責め続けた。

しかし、先生の「死なないでくださいね」は、今までの誰の「死なないで」よりも響いた。家族よりも、友人よりも、夫よりも。

その静かな声は、棘のように突き刺さって、わたしをこの世にとどめおく、くさびのような響きだった。

先生は、とても物静かで、線の細い年配の男性だ。外からはわかりにくいけれど、少し変わった視点を持ち、話していると、深く暗い悲しみを心の裡に抱えた人のように感じる。

長いカウンセラー人生の中で、多くの、重い悩みを抱えた人に寄り添い、先生も自身の心の裡と向き合っていたのだろう。

そして、その人たちの中には、途中で命を絶ってしまった人もいたそうだ。

わたしには想像することしかできないけど、クライエントの死を知った時、深い悲しみがあったのだろう。葛藤もあったし、自身の無力さを嘆くこともあったんじゃないだろうか。

そんな人が、死を仕方のないことと受け入れるでもなく、最終的に出した答えが「死なないでください」だったのだ。

死は絶対だ。誰にとっても平等に訪れる。

生は自由だ。人それぞれで形が違う。生きている限り、可能性は等価だ。

だからこそ「死なないでくださいね」と言ってきたのだと思う。

その先生の言葉を聞いた時、わたしは素直に「どんなに苦しくても、死だけは選ぶまい」と思った。

先生の抱えた絶望と葛藤は、わたしには理解し得ない。しかし、今はそれでもいいと思う。

以前のわたしは、他者とわかり合わなくてはいけないと思っていた。わかってもらわなきゃいけないと思っていた。

先生を親に見立て、身勝手な信頼を押し付けて、求める答えが得られずに、憤慨したときもあった。

しかし、愛着のくびきから解放された今、わかりあえなくてもいいと思えた今。

先生もまた、言葉にはせずともわたしの気持ちを感じているとするならば、先生の目に、わたしはどう映るだろう。

そして、わたしの目に、先生はどう映るだろう。

年が明ければまたカウンセリングがある。

次に会うのが楽しみだ。

今「死にたい」と思っているあなたへ

もし今あなたがとても辛い思いをしていて「死にたい」と思っているなら、どうかこれも何かの縁と思って、この先に目を通してほしい。

そうでなくても、いつか、どうしても苦しくて死にたくなったときのために、溺れたときの藁として、心にとめ置いてくれればうれしい。

わたしも、これまで長い間「死にたい」という気持ちに苛まれてきた。死にたいと思う自分を責めもしたし、家族も夫も友人も傷つけた。

それだけ「死にたい」と思い続けたとしても、やはりわたしも身近な人から「死にたいんです」と言われたら、「死なないでほしい」と思うし、言ってしまうのではないかと思う。

しかしそこに「死にたい」と思うこと自体を否定するつもりはまったくないことをわかってほしい。

「死にたい」と思うことと「死を選ぶ」ことは全く異なるからだ。

「死を選ぶ」ということは、不可逆だ。もう戻れない。とても悲しいことだと思う。

遺された人のことを考えろと言とかそんなことを言いたいんじゃなくて。

その人の「可能性」が閉ざされてしまったこと、そして「そうせざるを得ないほど追い込まれた状況と心中」に対してただ心を痛めてしまうだけ。

「死を選ぶしかないから困っている」
「お前は何もわかっていない」

そう思う人もいるだろう。そんな人に、少しだけ「死にたい」が楽になるといいなと思って、わたしの思う「希死念慮」、つまり「死にたい」と思うことについてしたためておく。

生きづらさを解消したくて、あらゆる知識を求める中で、わたしが最終的に出した答えは「死にたくなるのは生理現象」だということだった。

つまり、誰にでもある、誰でも思うことなのだ。

どのような丈夫な人も、過酷なストレスに長期間晒されれば死にたくなる。これは本当のこと。

過酷なストレスは人によって様々あるし、その人の感受性にも左右される。しかしそのキャパシティを超えてしまえば、形はどうあれ誰しも死にたくなる。

「死にたいなんて思ったことない」と思う人は、そこまで追い込まれたことがないだけ。

それに、細胞だって毎日自ら死んでいくし、動物ですら、悲しみから自殺することもある。詳しい話は主題から逸れるから省くけれど、死にたいと思うことは、生き物に備わっている仕組みだ。

しかしそれを「おかしい」「悪いこと」だと思うから話がややこしくなる。

「死にたいという思い」が生理現象とすれば、そこに善悪も何もない。そして現象には必ず理由がある。そのことに気づければ、自らを苛んでいるストレスに、フラットな気持ちで目をむけることができるようになると思う。

そしてそう思うことで、もし死にたくなったとしても、自分を責めずに済むし、少しでも楽になる。

「こんなに苦しい思いが、そんな簡単なことでたまるか」とにわかに信じられない気持ちもあるかもしれない。

あなたをそう思うまでに追いやった苦しみは深く、闇はあなたを包むだろう。そう思うことで、それが自体がなくなるとは言わない。闇は変わらずそこにあるし、苦しみはすぐには消えてくれない。

わたしですら、いまだに死にたくなるし、自分を傷つける。「生きていればいいことある」なんて言うつもりはないけど、「死んだら元も子もない」は本当のこと。

考え方を変えることで、生きやすくなるならその方がいい。

それに本当は、死にたくないのではないだろうか。本当は、生きていたいのに、八方塞がりで、もうどうしようもないと絶望しているのではないか。

だとしても、どうか、生きて答えを探してほしい。外に目を向け、裡に目を向け、真摯に目を逸らさなければ、いつか必ず、生きたいと思える日が来るはずだから。

その時には、また死にたいと思っても、生きていられるはずだから。

だからどうか、死なないでくださいね。

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