十一回 「家族に世界に、何が起きているのかを夜な夜な知る」の巻 前篇
◆2018年 1月 ヴェネツィア
「大晦日の夜に…」
新年が明けた。二〇一八年という年は思いの外あっけなく明けてしまった。イタリアにいるとクリスマスまでの一ヵ月が濃過ぎて、心の準備がうまく出来なかったのだ。日本にいれば、恋人たちの熱い儀式としてのクリスマスが終わると、家族でツリーを片付けて「さぁ、いよいよ新年を迎えるぞ」という気分になっていけるだろう。忘年会は続くし、大掃除や餅つき、おせち料理づくり、そのほか正月の買い出しやお年玉の準備など、やることが多いからじわじわと年の終わりなるものを感じるのだ。
それに比べるとヴェネツィアの大晦日は、とてもシンプルだ。大運河で打ち上がる水中花火を近所の仲の良い家族と眺める。「ブオン・アンノ!(良いお年を)」と言って、いつも通りプロセッコ(この地方のシャンパンみたいなもの)でグラスをぶつけ合えば、それでお終いだった。帰り道をとぼとぼと歩きながら僕は、ふと日本のことを思いだしていた。観れないと思うと「紅白歌合戦」や「ゆく年くる年」、そういうものがなんだか急に観たくなった。随分と前からテレビ自体余り観なくなっていたのに、今さらなぜ紅白なんかが恋しくなるものかという可笑しさで、思わず笑みがこぼれた。
子供の頃の習慣というものは「己の時間と記憶の層」にしっかりと刻み込まれるらしい。そういえば大晦日の我が林家、それは家族水入らずで過ごす大事な日だった。 夜はドラえもんを観た後、父の秘伝のすき焼きをつつきながら、子供たちは紅白の審査員をするのが決まりだった。新聞に大きく掲載された出演者名簿に僕と姉は、それぞれ鉛筆でぐりぐりと勝ち負けを記入していく。「果たして今年はどっちが勝つか!」と、普段は厳格な父も僕らの審査表を覗きこんでは一喜一憂しながら盛り上げる。母の方はというと、これまでの数日間、朝から晩まで数軒分の家に配る為の「お節づくり」をしていたから、「年越し蕎麦は緑のたぬきのカップ麺で済ます」のが林家流だった。お祭り騒ぎで終わる、この国民的歌番組から一転し、急に流れ聴こえてくる除夜の鐘の音。大人になった今でも、妙にしんみりした気持ちにさせられてしまうのは何故だろう。特に信心深い訳でもないのに、一年の振り返りと反省、そして祈りを捧げながら三十分くらいは、静かに時を待つ。そして「新年明けましておめでとうございます」と、父の主導の下で家族がそれぞれ挨拶を交わす。お年玉はその直後、父から大好きな母、そして年長者である姉、最後に僕という順番でそれは儀式のように授けられた。野暮な話だけれど、母へのお年玉は僕ら子供たちの最低でも十倍の金額だったようである。姉と僕の金額については、喧嘩になるのでお互いに隠すことが通例となっていったことなどが思い出された。
「正月になれば…」
元旦から五日くらいまでは、家族の行事、親戚や知人の訪問など予定は全て埋まっていた。多くの人がうちに押しかけて来たし、僕ら家族も何軒もの家を訪ねた。父が病で倒れるまで、幾つになっても基本的にそれらは滞りなく行われていたし、僕も特に疑いもなく家族と共に帯同していた。その中で僕が楽しみにしていた三つのこと。
その一つ目は、「正月だけは子供もお屠蘇を飲んでいい」ということ。幼少の頃はそれを舐めるところから始まり、次第にお猪口で数杯は飲めるようになった。お酒が好きになったのは、この時の特別感から生じているのだと今では思う。
そして二つ目は、「福袋と本は好きなものを買って良し」とお金をもらえたこと。本については、小説だろうがマンガだろうが何でも読めばいいとうちの親は思っていたはずだ。今の林家の家訓の一つである「本に金を惜しむな」というものはこの習慣から来ていて、僕の代でこの文言は「家訓」というカタチまで格上げさせた。
最後の三つ目。「正月なんだから、映画でも観て来なさい」とこれまたお年玉とは別に父から軍資金を渡されたこと。そのせいか「ゴールデンウイークと夏休みと正月は映画館へ」必ず行くようになった。こうして思い返してみると、家族や親戚との過ごし方、趣味嗜好にいたるまで、年間行事を通して無意識にしみついていったものであったのかと今更ながら気づく。
さて、二〇一八年ヴェネツィアの正月をどう過ごすかという話に戻る。ここヴェネツィアでも「明けましておめでとうございます」と家族と挨拶を交わすことから始めてみる。日本との時差は八時間だから、あちらではもうお節料理やお雑煮などとっくに食べている頃だろう。そう思うと無性に食べたくなって出汁の仕込みを始めてみる。こんなこともあろうかと、鰹節は温存しておいたのだし、日奈子にお餅を持ってきてもらったのは正解だった。日本酒の一升瓶や醤油は常備していたから、あとは冷凍しておいた肉とほうれん草を解凍すればすぐにでも出来る。
「今日はお雑煮だよ~」
恐竜アニメ映画を観ていた息子たちに伝えると、わーいオゾウニ!おもちダイスキ~とへんてこダンスを踊りだした。日奈子もなんだか嬉しそうだったので、汁はいつもより多めに作った。残ったらおじやでも何でも使えるので、こちらに来てからは汁は大切にとっておくようにしている。出汁も醤油も日本酒も貴重な品々なのである。
「出来た、食べよう!」
お雑煮一つで幸せな気持ちになれるなんて、やはり僕らは日本人なんだなぁと思う。いつも通り、食前にやる感謝のお祈りの言葉を早口で済ませるとみんなハフハフしながらかぶりつく。イタリアはしばらくお店もやってないから、家でゆっくり過ごそうと話した。餅も汁も結局全然残らなかった。
「関係性がなければ何も始まらない」
一月十六日(火)。昨日は家族で初めて警察署へ行った。懸案の滞在許可証の件で、家族全員を警察の部長や担当者に面通しをしていく必要があった。例のごとく警察署は混沌として段取りなどあったものではないので、朝一番から並んで待っていても早々呼ばれる呼ばれる訳でもないのだが、僕らと同じような境遇の世界各国の人々たちは、みんな一様に辛抱強く待っている。というか耐えているように見える。僕は慣れてきたせいもあり、作って来た弁当を広げで子供たちと一緒に食べている。食べ終われば、そろそろ行ってみるかと呼ばれてもないのに、内の所員がいる部屋に入って話しかける。毎回同じ文言の繰り返し。僕らはどうしたら良いのか、今日も新たな書類を持って来たんだけれど部長に会えますか?と問いかける。今まで何度も通っている成果も出始めたのか、「おお、君たちのことは良く分かっているよ。部長が来たら伝えるから待っていてくれ」と言われる。そこで、そうですかと引き下がってはいけない。話を変えて、妻や子供たちを紹介し始める。そうするとやはり警察官もイタリア人だから、優しく対応してくれるのだった。「女性と子供には優しい国」ここに付け込んで勝負するしかなかった。そして彼らは映画も好きだし、監督というアーティストの職業に対して敬意を払ってくれるのはヨーロッパ共通の反応でもあった。気づけばいつもの担当員が日奈子に出身地を訪ねている。「日本の沖縄という南の島の出身です」と答えると、これに反応したのかおもむろに立ち上がり他の職員と話し始めている。忙しそうに仕事をしていた彼らは手を止めて「MOSUKU、…モズク」と語っているように聞こえた。もしやと思って日奈子が「もずくのことですか?」とイタリア語の辞書で調べて聞くとそうだという。「沖縄は実に美しい島で、もずくもあってベリッシモだ」と彼らは嬉しそうに話してくるものだから、僕らも気持ちが一気に和んだ。どうやらテレビで沖縄を紹介する番組を観てみんな知っているようだった。特にもずくに興味津々なご様子。イタリアはヨーロッパの中では南に位置するが、北イタリアに住むイタリア人はバカンスで南へいくことが好きなことを思いだした。大学の教授や学生たちもソレントやナポリ、シチリアのことを話すと興奮したように語り始めるのだ。日奈子が沖縄出身で、僕も映画をやってて、そして子供たちが小さくて、色々と良かった。どうやらこれで、また大きく前進したこと喜びながら僕らは警察を後にした。今月、そして来月とまだ役所や警察など各所を巡らねばならないことが気を重くしていたが、物語は良い方へ展開し始めていた。
「世界と出会う、映画と出会う」
さて、年が明けてから久しぶりに大学に顔を出す。学生たちも故郷に帰ってリフレッシュしたようで研究室も盛り上がっていた。多くのヴェネツィア人はクリスマスから2月に入るまでゆっくりしている。そして二月に入るとあの仮面のカーニバルがあり、それが終わるとまたバカンスシーズンに入る。とはいえマスターコースは3月の映画祭に向けての卒業制作の仕上げがあり、それによって卒業出来るかが決まるから悠長なことは言ってられないはずだった。
三月の短編国際映画祭の総合プロデューサーでもあるロベルタ教授はとりわけこの時期が忙しい人である。そのロベルタから「ヒロキ、後で私の部屋に来てちょうだい」と呼ばれる。そんな風に呼ばれる時は何かがあるのが通例だ。そしてやはり例によって、例の如くロベルタ教授から軽いノリで依頼が来たのだった。始めは前から頼まれていた映画祭の審査員の件の話から。
ヴェネツィアでは春の短編国際映画祭(こちらは世界の学生たちの作品が集まる最大規模のもの)と夏の終わりに開催される世界最古の長編国際映画祭とがあり、僕はこの長編の方の映画祭にいつか参加するのが夢だとずっと思っていた。
「ヒロキ、審査の方は進んでますか?私はもう4か月前から毎晩たばこを巻きながらみてますよ。(イタリアでは自分で巻くものをタバコといい、市販されている出来上がっているものをシガレットという)もう何百本も観ているんだけど、どう?すっごい作品あるでしょ。でも残念ながらイタリアと日本の作品はダメね。そういえば、イギリスの私の大好きな監督ピーターグリーンウェイ、アメリカからはあのロジャー・コーマン、ディズニーのプロデューサーのロブ・プラットも参加してくれることになったのよ。すごいでしょ!」
楽しいことに夢中になっているロベルタとの会話はいつも元気をもらう。怒ると学生たちとのガチで喧嘩もするが、こうして無邪気に「楽しくやりたいこと」を語る彼女はいつだってチャーミングなのだ。
「あとは、ポーランドのドキュメンタリー監督のマーチンでしょ、イタリアからは今年のドナテッロ賞候補(イタリアのアカデミー賞)のロベルタ・トーレも来るのよー!その中にヒロキもアジア代表の監督として参加してもらうんだから頼むわね」
そうなのだ。僕は映画祭の審査員をやることになっていて、十二月から毎晩夜な夜な短編映画を観続けているのだった。世界の数十か国からエントリーされている作品たち。英語かイタリア語に訳されたプロフィールと作品概要があり、たいてい英語字幕がついているが、中にはないものもあった。英語でもイタリア語でも一回観るだけだと分からないものもあるから、そういうものは何度か観直すことになる。すると、次第にその世界を感じることが出来た。聞いたこともないような国の作品が沢山あり、それらの国々で今、起きている政治や経済、半ば戦争状態のような混沌とした情勢の中で生きている人々の暮らしが刻まれていた。それは時にファンタジーやアニメーション、ノンフィクションだったり、コメディだったりするが、それが例えどんなジャンルの作品であろうが、映画という意識体を通して僕に訴えかけてきた。子供たちの叫びが聞こえ、愛が語りかけられ、大切な親友が命を落としていた。審査をしていると夜はどんどん更けていった。キッチンで独りパソコンに向かいながら、喜びで涙をし、大きなため息をついたり、立ちあがれなくなったりしているのが僕だった。
(前編おわり)
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