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第十三回 「家族に世界に、何が起きているのかを夜な夜な知る」の巻 中篇

二〇一八年 二月 ヴェネツィア

「ヴェネツィアカーニバルを調査せよ」

 そういえば二月のヴェネツィアと云えばカーニバルが有名である。仮面舞踏会のイメージ、あとは何だろう。僕の中ではキューブリック監督、トムクルーズ主演の「アイズワイズシャット」だろうか。街中には一年中ヴェネツィアンマスクが売られているお店も多数あるけれど、(トムクルーズが使ったマスクを作ったお店も大学の近くにある)そんなに売れるもんなんだろうかとの疑問もあった。学生たちや地域の人にカーニバルについて聞くと、「あれはもはや地元のお祭りではない。クレイジーよ」という声が多い。祭りも大事にするイタリア人が、ここまでクールなコメントするのはなかなか聞けるものではない。嘗て、ヴェネツィア共和国時代のルネッサンス期にはとても意味のある行事で二ヵ月に一度くらい開催されていた。(ゲーテがヴェネツィアに巡礼の旅で来ていた「イタリア紀行」にもその時の雅で淫靡なその様子が記されている)。もともとヴェネツィアは「自由と平等」意識が強く、身分や素性を超えて「人と人とが出会う」ためのツールとしてマスクやマントは用いられていたのだと云う。しかし十八世紀に行事自体が禁止されて二十世紀に復活される頃にはその精神性は消えてなくなり、単なる「バカ騒ぎイベント」に成り下がってしまったようだ。だから「ヒロキ、あんなものは地元の人は参加しない。コスプレ祭りみたくなっているものに意味はないわ、私は大嫌い」とロベルタ教授にもぴしゃりと言われた。とはいえ、折角ヴェネツィアに住んでいて参加しない手はないし、自分の目で見て確認しないことには、帰国してから何も語れなくなってしまうと、家族でちょこっとだ覗きに行こうということになった。


「だったら、これを貸してあげよう」

 隣のファビオがふざけながら動物の被り物を被りながら言った。子供たちは大喜びで身に着けてファビオたちに見せにいく。そこにはアパートの住人たちも集まっていてひと盛り上がりの場が生まれた。そして、

「カーニバルのスタート地点はカンナレッジョだ」「今年のテーマは「映画」だからヒロキも楽しめるかもしれない」「近くのおすすめのレストランはビーニ・ダ・ジージョ!そんなに高くないし美味しいから行ってみるといいよ」などみんながアレコレとアドバイスをしてくれた。そして当然ながら、いつものように食べきれない程の料理やドルチェ(お菓子やデザート)を貰ってくる訳で…。「イタリア生活において子供の存在は実に大きい!」といつもながらに感じる瞬間だった。

「世界に生き続ける映画道」

 カーニバルの本番、そのオープニングは暗くなってからだが、もちろん観光客用に昼間からレガッタや仮装パーティ、様々なイベント用の店舗も軒を並べていた。ヴェネツィアが他と違うのは、その出店の人気店が「船上にある」ということだろう。普段から青果店が小船で営業していたりはするが、開催エリアでは様々な趣向を凝らしたお店が出現する。かつては、船を浮かべてその上でオペラや演劇なども上演していたというから驚きしかない。

 さて、僕らは今回は「ちょっと覗き見」として参加しているので仮装をしている訳でもなく、日常の買い物をしたり、図書館に本を返したりしながら祭りの雰囲気を味わっていた。ただ、メインのオープニングはどうしても観たかった。今年のテーマはイタリアの誇る「映画」であり、しかも「監督」がモチーフになっていたからだ。その監督とはあのフェデリコ・フェリーニ(アカデミー賞を四作品五回受賞)。監督がモチーフって一体どういうことなんだろうと不思議に思った。映画の世界観を演出するとしても通常は裏方の監督などではなく、その作品の内容になるだろう。ちょうどその時、僕は人に頼まれて「フェリーニと黒澤明」「一九五四年の映画界」について調べていたところだったから尚更興味があった。


 この二人の監督。年齢的には黒澤が十才年上であるがいろいろと親交があったようだ。その他に、世界的に引き合いに出される日本人の監督としては黒澤の七つ年上に小津安二郎監督がいる。この小津と親しくしていたのはアメリカを代表する監督のウィリアムワイラーだ。そして「一九五四年」というのは映画の歴史的に極めて大事な年であり、調べれば調べる程それはもはや事件というに近いと感じた。この年、フィリーニの代表作の「道」と黒澤明の代表作である「七人の侍」の公開時期が重なっている。小津の代表作「東京物語」が世界に向けて公開されたのもこの年であった。更に先述のウィリアム・ワイラー監督の「ローマの休日」、「宮本武蔵(稲垣浩監督)」(後のアカデミー賞外国語映画賞)の公開、カンヌ映画祭の最高栄誉とされるパルムドールを衣笠貞之助監督が「地獄門」で受賞。あの「ゴジラ」が初公開されたのも一九五四年である。

そしてこの年のヴェネツィア国際映画祭の金ではなく、銀獅子賞に選ばれたのは「道」と「七人の侍」、溝口健二監督の「山椒大夫」が選出されていたりする。

 歴史は後から見ると面白い。当時の映画界や映画祭での反響はどうだったのだろう。もし今年がそうだったらと想像するだけでワクワクするのは僕だけだろうか。現代にも変わらぬリスペクトを集める作品群が結集してはいるが、当時は「興行収入という人気と、作品としての評価」は一致していただろうか。時代の流行りに翻弄されないと云われるヴェネツィア国際映画祭、そしてアメリカアカデミー賞の結果、日本の劇場興行収入、それぞれの国の姿勢と文化の潮流が浮き彫りになってくる。そんな当時のヴェネツィアに僕もいたかったなと思いを馳せる。

余談だが映画生誕五十年、そして百年の時に行われた「世界の映画監督、批評家が選ぶベスト」においてどちらも一位は小津安二郎の「東京物語」であり、二位はフェリーニの「8 1/2」なのだそうだ。特にヨーロッパで日本人の好きな監督として声が上がるのは、小津と僕も大好きな成瀬巳喜男、後は大島渚。アメリカではアカデミー賞名誉賞に黒澤監督が選ばれ、溝口健二の研究に注目が集まっていると云う。それから五十年以上が経ち、日本は経済的にも技術的にも豊かになったけれど、(自分も含めて)今はどうなんだろう。当時のあの熱量の高さで世界を席巻した日本映画のパワーはあるのだろうか。また映画を愛し、強い誇りを持つイタリア人が、今は殆どイタリア映画を観なくなっていると聞く。自分も少年時代に映画に魂を揺さぶられ、果てしない映画道を真剣に歩んで来たつもりではいるのだけれど、これでは、このままでは…、という想いを引き起こされるのは至極当然の流れだった。


「なぜ今、イタリア人はイタリア映画を観なくなっているの?」

 僕はハンディ・カメラを片手に聴く。じっくり腰を据えたコミュニケーションをとれるほどイタリア語が出来る訳でもないから、インタビュー形式を使って時々彼らに向き合うことにしていた。そういう問いを投げるとみんな一様に困った顔をした。自国の文化に対して誇り高き彼らが恥ずかしそうに、戸惑っている様にさえ感じる。普段はどんな質問に対しても持論をぶつけてくる彼ら彼女らにしては極めて珍しいリアクションだった。

「僕らも本当は、(本当の)イタリア映画を観たいんだ。ヒロキだってアメリカ映画を観たい訳じゃあないだろう?でも今は無理だ。とても残念だけれど…」

 そういう彼らは幼少の頃からイタリアの文化(文学・映画・音楽・歴史・ファッションなど)を「古典からしっかり学ぶ教育」を受けていることを僕は知っている。イタリアのかつての映画を愛している。しかし、イタリアのみならずヨーロッパでは国際配給が前提・マーケット重視の制作なくしては企画すら通らないのが今の現実だ。対して日本映画は九十年代のどん底から立ち直り、興行的には奇跡的な(バブル的な)復活を遂げていたりもする。彼らは「ヒロキなら分かってくれるだろう?」と熱い想いで切り返してきたりするのだけれど、もし同じ問いを投げかけられた時に僕らはどう答えられるのだろうか。


 日本は世界で唯一といっていい、国内市場のみで成立してしまう程の極めてレアで強固な壁の中で辛うじて生きている。過去も今もそうやって生き続けている。そんな中で「(本物の)日本映画を本当に観たいんだ」と言えるものがあるだろうか。彼らのように恥ずかしいと思える程の意識はないだろう。日本の教育ではあくまで「古典は古典として知識として暗記する」だけのものである。そこから誇りが持てる様な文化の源泉として、更には「未来を創造していく力になるんだ」などと教えられたことも、感じた経験も残念ながら無い。だから、僕も問い返されれば同様に困った表情で返す。「分かるよ、その気持ち…」と。でも僕の言う「分かるよ」という質の根っこが彼らと違っていていて、いつも後味が悪い想いだけが残る。

「フェリーニ監督の登場!」

 カンナレッジョの水路の脇に人々が群がっている。聞こえてくる荘厳な音楽と空を彩る光の筋が辺りを埋め尽くしていた。

「お祭り、もう始まるの?」

 間もなく二才と四才になる子供たちにも近づいてくるその空気感が分かるようだ。

「うん、イタリアで昔もっとも有名だった偉い監督さんがね、フェリーニという人がやってくるよ」

「監督ってパパのお友達?観たい!」

 死んでしまっていない人がどうやってやって来るのかは僕にも想像がつかなかったけれど、「もう、既に近くに来ている」という雰囲気が僕らを納得させていた。

「やっぱり来て良かったね」

 日奈子が言うその脇で、子供たちが水路を覗き込もうとしている。行っておいでと合図すると、長男のクラは上手にイタリア語で話しかけながら、人込みの奥にすいすい入れてもらっていた。どんな場所でも子供には優しい、それはこの国の美徳だと思う。


 さて、フェリーニの登場だ!一番最初に現れた船には大きなフィルムのカメラと撮影現場の監督の姿があった。フェリーニの映画には自身を投影するような「監督自身」が出てくることがしばしばあるが、目の前の光景がまさにそうであった。まるで映画の始まりの合図のようであり、それそのものが、「今、ここが映画なのだ」と言わんとするような存在感があった。

「映画ってすげえ」

 映画館にいくと今でも感じるあの感じ、そういう憧れ光線の様なものが体に降り注いでくる。そして追い討ちをかける様にズンチャ・ズンチャと音を立てて後から何かが近付いてくる。

 それは闇の中に地底から浮かび上がった魔物のように少年少女たちの心を捉え、脅えさせる。親に静止されようが彼らの好奇心は抑えることは出来ず、結局サーカス小屋のカーテンを覗き込む羽目になる。作りこまれた大がかりなセットたち。究極のアナログな仕掛けたちが、観てる僕らを魅了していく。見てはならぬものをみてしまった後ろめたさと恍惚感。不安の中で潜り抜けた一夜の冒険によって、一瞬で大人になったような気持ちになる映画体験。

 みんな夢中で手を叩き、ブラーボと指笛を鳴らしている。「これぞイタリア映画だ!」「我々の映画は、物語はこれから始まるのだ」と何か大いなる意思が働き、民衆の心を鼓舞するかのようだった。それはなぜか僕らの心も奮い立たせたし、波のように次から次へと押し寄せる映画の場面の登場にチカラがみなぎってくるのが分かった。


 フェリーニはいう。サーカスの中には狂気があり、恐ろしい体験がある。そして「道化師は人間の子供じみた動物的な側面の風刺画であり、嘲笑し、かつ嘲笑される存在だ。道化師は、人間のグロテスクで、ゆがんで、馬鹿げたイメージを映す鏡だ。道化師は人の影だ。だから道化師は永久に存在するだろう」

 彼の作品にはしばしばサーカスが出てくる。そして同じくらい映画の現場が登場する。まるで「サーカスという舞台を撮影現場に置き換えたように」それは確固として存在する。道化が人の影だというのなら、その映画で描かれた「写し御世の世界こそが光だ」

と言わんばかりに。

 ただし、彼の映画に騙されてはいけない。カットを積み重ねてつくる一つ一つのピースは嘘の集まりである。しかしながら、それを集めるとひとつの真実になる。そこからにじみ出してくるものがホントなのだよと語りかけてくるのだ。


(一九九三年 そして釧路へ に続く)


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