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見えた景色は思っていたものと違ってた

5:15起床。6時には家を出る。

夜明けの空は白かった。

夕方のように夜の青と太陽のオレンジが混ざったような深い空かと思ったら、まばゆい白い空だった。

上野駅で駅弁を買って東京、横浜を過ぎ小田原の先、湯河原へ。地域に根ざした居場所のボランティアへ。先輩からの連絡に二つ返事で飛びついた。

子どもたちと遊ぶのと宿題のサポート。私って子どもたちと相性良いのかな、、?正直に言うと教職取っているくせに子ども好きと言い切れない自分がいる。

子どもが嫌いということでは全く無くて、どう接すればいいのか分からない。去年の学童インターンでも同じことを言っていた気がする。

子どもは大人より賢い。全て見ている。そういうところが少し怖いのかもしれない。子どもはかわいいけれど子どもは子どもだけれど、思っているより大人だと思う。だからこそ大人な子どもへの接し方が分からない。

でも私、やっぱり子どもが好きなのかもしれない。

正直すごく楽しかった。5時間があっという間だった。また来たいと思った。これからも関わっていたいと思った。この居場所が好きだと思った。

そして出会いにも恵まれた、一人の男の子。

今日初めてこの場所に来たと言っていた。私も今日初めてここに来た。わたしたち、おんなじだね。

最初に一緒に人生ゲームをした。お金を数えながら足し算と引き算を学んだ。陣取りゲームをした。陣取りゲームよりマスを綺麗に埋めることがやりたかったみたい。エアホッケーをした。身を乗り出してこれはマジの目だ。私も大人気ないけれど本気出してた。ボートの野球ゲームもした。楽しんでるみたいで良かった。

お昼ごはんを食べて野球ゲームの続きをした。午前中に比べて打ちが悪い。どうしてだろう。ストレート以外にカーブがあった。じゃあどうやってカーブを投げているんだろう。ボードをひっくり返して穴を覗きこむ。棒が動いてた。ストレートとカーブで球の軌道はどう違うんだろう。一緒に軌道を確認した。カーブだとバットが届かないから当たらないね。

大きなパズルで箱をつくってひたすら野球ゲームをやった。同じ2階にいる4年生の男の子たちが気になっているよう。レゴの輪に混じるようになる。他の子とも仲良くやれるようで良かった。

この居場所が救いなんです。○○くんを理解してくれる人がいて本当に良かった。○○くんのためだけに(私)ちゃんと出会えたみたい。

いや、それは私の台詞です。私こそ感謝してます。彼に出会えて本当に良かった。

発達障害、多動性。

じっとしていられずに動いてしまう、ものを壊してしまう、集中力が切れてしまう、そして大人に怒られる。抑えられつけられる。

学校や家庭の大人が完全に悪とは言えないと思う。大人も大人で必死にやっている。大人は大人で必死にもがいている。駄目な大人なんていないと思う。我が子を思う気持ちは親としてあると思う。

でも忙しさだったり余裕のなさから子ども一人一人をじっくり見てあげられない。ルールや常識、型のようなもので判断してしまう。子どもを親だけが育てなきといけないという環境、社会そのものにも責任があると私は思う。子どもも大人も両方追い込まれているのではないか。だから学校でも家庭でもない第三の場所は必要、大切。

私には彼が何を考えているか、発達障害をかかえている方が何を考えているかを理解しきることはできない。普通の人でも同じだ。でも理解しようとする努力はできる。

それでも理解しようとしてもやはり軋轢は生じてしまう。子どもを思っているからこその軋轢だと思う。だからこそありのままを受け入れてあげることが大事だと思う。自由にのびのびとさせてあげることが大事だと思う。温かく見守ってあげることが大事だと思う。

だから年齢とか性別、障害を持ってる、持ってないとかは全く関係なくて、その子ども一人一人の人間性を見る。それを尊重する。ありのままの全てを受け入れる

何がしたい?このゲームがしたい、じゃあ一緒にやろう。遊んだ後の片付け、片付けやりなさいじゃなくて私とどっちが早く片付けられるかゲームしよう、お昼ごはん食べなさい、食べないから食べさせるのではなくて、お腹いっぱい?ううん、そうなんだね、自分から食べるまで待ってる。

大人があれこれ手を差し伸べたくなるけれど、私はあまり差し伸べすぎないようにしている。大人のmustは子どものwillを消してしまう。子ども本人の意思が大切だ。だから意思を汲み取るまで待つ。そしてその意思を受け入れる

子どもが怪我をしない限りで最低限の安全を確保した上では自由にやらせてある程度の痛さは経験させても私は良いと思っている。大人にあれこれ言われるより、自分でどこまでやっていいのか、どこまでやるとマズイのかを経験して学ぶくらいでいいと思っている。たくさん失敗して貪欲に学べ。大人は子どもが困ったときに少しだけ手伝ってあげるだけで良い。先行してあれこれやらない。子どもの成長を見守るのに徹する。

私は○○くんのありのままのみつくんを受け入れるから、だから安心してたくさん遊んでね。楽しんでね。

今日一緒に遊んでいて乱暴になったり動き回りすぎたりしたことはありませんでしたか。

いや全くなかったです。本当に純粋にただただ楽しく遊んでいました。多動性があるのか疑うくらいです。最初他の子どもとは少し違うという話は聞こえていたきがするけれど正直私は全く気にしてなかった。遊び終わって話していてやっとそこで発達障害だったと知った。

○○くんは○○くんでした。

むしろ私が本当に学ばせてもらったというか、最初に発達障害を持っていると聞いていたらどうすればいいんだろうと困惑して変に気を遣っていたかもしれない。先にやってあげたり、これ駄目だよって注意したり。

発達障害だから何か特別ということではないんだ、普通なんだ。

子ども一人一人の人間性を見ることに変わりはない。ありのままを受け入れてあげる。発達障害あるなし関係なかったじゃないか、関係ないじゃないか。

○○くん、気づかせてくれてありがとう。

人間として一人一人みな尊い存在である。

朝の空も、子どもに対する私の思い込みも、発達障害に対する考えも全て見えた景色は思っていたものと違ってた

やっぱり自分の目で見て耳で聞いて手を動かして足を動かして自分で確認しないといけない。知識で学んだからといって満足してはいけない。それは偏見という名の傲慢だ。現場で確かめろ。思い込みは虚像だ。

人間的成長、個性、居場所、これらは私にとって大切なものだ。言葉に加えてもっと大切にしていきたい。

そして私も安心できるところ、ありのままの自分を出せるところ、のびのびと成長できるところを作っていきたい。私は私なりに居場所というものを作り出して行きたいと改めて思った。居場所作りについてはまだまだ模索は続く。

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