見出し画像

なぜ人は、きれいな風景を見ると感動してしまうんだろう(前編)

青い空と新緑の緑、風に揺れる稲穂と水の波紋。なぜ美しい風景は、人を感動させるのだろう?Facebookやinstagram、いわゆるSNSの投稿では、距離の近い情報が目について、そのたびにざわざわしたり…。

日常の情報がたくさん入ってくると、見る側の心は揺れ動いて疲れがち。

でも、そこに美しい風景がすーっと流れてくるだけで、日常から少し心が浮遊して、なんだか落ち着いた気分になりませんか?心が宇宙のスケールにちょっとつながるような、おおらかな気持ちになっていくというか。

画像1

(↑ photo by @cotsucotsu_omu)

どうして、美しい風景は人を安定させたり感動させたりするんだろう?

当たり前すぎて考えもしなかったその理由をあえていまこそ聞いてみたい!

といわけで、滋賀県立大学地域共生センター 講師で風土に根ざした暮らしと文化を研究する上田洋平先生にお話を聞いてきました。

聞き手は私、果てのメディア編集長の亀口がつとめます。

風景と人はシンクロする

画像2

亀口:今日は風景に感動する理由についてお話をお伺いしにきました。

上田:はい、風景ですか。

亀口:私は2012年に大阪から滋賀へ移住したんですが、そこからずっと滋賀の風景の美しさに感動しっぱなしで。なぜ人は、風景に感動してしまうんでしょう?

上田:そうですね、例えば1時間ぐらいずっと山を見ていると、山の気持ちになってきたりするんです。

亀口:いきなり山の気持ち!なんとな〜く、わかるような気がします(笑)

上田:ほら、タコやカメレオンって擬態するじゃないですか。白熊もそう。白熊がなぜ白くなったのかって、白いところに住んでいるからでしょう?

でも、それって何が見てるの?自分の目で見て「白くなってやろう」と思って、なった訳じゃないですよね。

亀口:確かにそうですね。

画像3

上田:タコも、まわりに合わせて体の色を変えますよね。情報が目から入ってくるんでしょうけど、それを見て「よし、あの岩の色になってやろう」というのは多分違うと思うんですよ。じゃあ誰が見てるんだろう?

亀口:ほんとですね。どこの目が見てるんでしょう。

上田:風景を見ているというのも、そういうことなんでしょう。

亀口:というと?

上田:目で見た情報が頭で処理されて、絵具を混ぜてその色を作っていたら遅いじゃないですか。身を守るためにはね。

亀口:はい。

上田:白熊がいつから白くなったのか僕は知らないけれど、たまたま白くなったのが生き残ったのかもしれない。

でも、

「とんぼのメガネは みずいろメガネ 青いお空を とんだから〜♪」って言いますよね。

亀口:あ!なるほど〜!とんぼは青い空を飛んだから、みずいろのメガネになったと。

上田:それを本人はどこで把握してるんでしょうね。ペットが飼い主に似るように、見るという感覚が、どこかで作用しているのかもしれませんね。

亀口:滋賀県で生まれ育った人の感性には、この環境が作用している?

上田:そういうことが不思議なんですよね。見てるっていうのは、本当は何が見ているのか。

目だけじゃなく五感とか、内臓感覚とか、意識していない部分が何かを変えていくんだと思います。

食える風景と、食えない風景

亀口:ところで上田先生は、一番記憶に残っている滋賀の風景ってどんなものですか?

上田:好きな風景は、沖島の千円畑です。この写真ですね。

画像4

上田:千円畑は、滋賀県の離島「沖島」の裏側にあるんです。ここに畑があって、作物が育つでしょう。すぐそばの琵琶湖に真水があって、飲めますよね?琵琶湖ではエリ漁をしている。つまり魚がいてそれを採って食べられる。

パッと見た時に、この風景の中で食っていけるんです。

亀口:なるほど、食える風景‥‥!

上田:一方で、これを見てください。

画像5

亀口:畑も、水も見えないですね。これは、食えない風景だと感じますね。

上田:例えば、大昔の人がさっきの滋賀の離島の、千円畑の中にポンと置かれたら「ここで食える」と思うんじゃないかな。

塩水ではなく琵琶湖の真水、それに森があって、シカやイノシシもいて魚も採れる。直感的に「食っていける!」と感じますよね。

亀口:そう思うと、食えない風景は、直感的に見ても「食える」ものがないですね。

上田:いまは「食う」の意味が変わってきた部分もありますが、風景でメシが食えるというのが、本能的にみても「魅力的な風景だ」と感じるんじゃないかと思います。

同じ空間で違う世界に生きる「環世界」

画像6

上田:「環世界」という考え方があるんですが。

 亀口:環世界、はい。

上田:これは滋賀県立大学初代学長の日高敏隆先生に教わった考え方です。
普通は環境というと「身の回りにあるもの」を思い浮かべますよね。でも、本当にそうなんだろうか?

亀口:環境は「身の回りこと」じゃない?

上田:例えば、私達人間と他の動物達と、生きている空間は同じでも、環境の見え方は全然違うんだと。日高先生は、ダニの話で説明されていますが、ダニは木を登って、ポトンと落ちて、血を吸います。ダニは目が見えないんですね。触覚と、匂い、光は感じることができますが。

亀口:五感で感じるんですね。

上田:それを聞いたら我々は「ダニってなんかみじめなヤツだな」と思うんだけど、でもそれを使って彼らは光のある方に向かって行って、触覚を頼りに木に登って、下を動物が通った時に汗の匂いを感じてポトっと落ちる。

落ちた時に温かくて柔らかい感触があったら、動物の上に落ちたなと判断して血を吸うわけです。

画像7

上田:そして、お腹がいっぱいになったらポロっと落ちる。失敗しても、また光を頼って木に登る。

亀口:その繰り返しなんですね。

上田:これだけ聞くと、機械と一緒じゃないかと思うかもしれません。じゃあダニは機械なのか?と考えた時に、でも彼らは信号を意味あるものとして受け取って、行動している。

亀口:意味あるもの、なるほど。

上田:人間から見たらみすぼらしい世界を生きているように思えても、彼らは彼らなりに確実に生きて増えるために、他の情報は全部捨てて、これに賭けて生きているわけです。

亀口:すべては「生きること」に必要な情報だけですね。

上田:同じ世界に生きている我々は、そよそよと風が吹いて気持ちいいなとか、綺麗な花だな、いい匂いがするな、とか思うじゃないですか。でも彼らにとってはそんなものは意味がないんです。生きていく上で。

亀口:そうですね。

上田:だけど、彼らは確実に食べて、増えるということを選択している。ということは、同じ環境にいても、それぞれに違う環世界を見ている。

亀口:確かに、見ているところは全く違う。

上田:自分達に必要なものを選び取って、その情報でできた世界に生きているということです。

もしカエルがヘビを見て「きれいだな〜、スルスル動いてすごいな〜」なんてのんきに思ってたら、食われるわけじゃないですか。

亀口:そうですね(笑)

上田:カエル達は、ヘビに出会ったら逃げろ!と。それが別に空振りでもいいんです。どんな色をしていようが、どんな匂いを発していようが、関係ない。

亀口:とにかく逃げろ!ですね。

上田:生き延びるためには確実さの方が大事。だから彼らにとっての世界と我々にとっての世界は違うということです。

人間だけが一人ひとり違う環世界を持つ

画像8

上田:例えば犬にとっては、飼い主が座っているソファは、物理的には存在するかもしれないけれど意味はない。例えばハエはもっと小さいからソファが存在しても意味がない。

だから「環境」と単純に言っても全ての生きものが平等に同じ環境に生きているわけではない。この考え方を環世界と言います。

 亀口:はい。

上田:客観的な環境って本当はなくて、みんなそれぞれ環世界というものを生きているんです。ところが人間がおもしろいのは、一人ひとり違う環世界を持っているというところです。

亀口:人間は一人ひとり違う、なるほど。

上田:動物は彼らが持って生まれた身体的な能力の中で環世界をつくるわけです。でも人間ってそれだけじゃなくて、想像力があったり、職業や経験があったりします。うどん屋さんが粉をさわった時と、我々が粉をさわった時では、感じることは違いますよね。

亀口:確かに、そうですね。

上田:そこが人間のおもしろいところなんです。団扇の職人さんが竹を見た時と、私達が竹を見た時に感じるものも全然違う。私達には同じ竹に見えても、職人さんは「これは使えない、これは使える」という目で見ている。

亀口:捉え方がまったく違いますね。

上田:人間の場合は持って生まれた身体的な感覚だけじゃなくて、職業とか経験とかで見えるものが違う。同じピアノの音でも、その人を好きな人が聞けばどんなに下手でも上手に聞こえる。どんなに静かでも、その人が嫌いならうるさく聞こえる。

亀口:あるかもしれないですね(笑)

上田:そういう意味では人間の環世界は一人ずつ違う。それぐらいユニークなんです。

 亀口:同じ風景を見ても、人によって違うものを感じるのでしょうか?

上田:我々の環世界には空気もあるし、光や温度、音もある。コオロギが求婚のために羽を擦り合わせている、あの音を我々はいい音だなと思って聞くけれど、アメリカ人は雑音だと思うかもしれない。なんで人間はそういったものを聞いて嗅いで触れて、味わっているんでしょうね。

亀口:本当、なんででしょう?

上田:だって無駄じゃない?生きるために必要ですか?そういうのって。

亀口:それで思い出したんですが、東京で仕事をしていた時に、夜道をトボトボ歩いて帰ってたんです。その日はなぜかまわりがすごく明るくて。何かな、と思って空を見たら満月だったんです。なんか救われたんですよね。
そういう「味わう」っていう感覚って、都会で働いている時は忘れてたりするんです。滋賀で暮らすようになって、その感覚がまた豊かになってきているのを実感します。

画像9

(↑「総論近江の暮らしと文化」上田洋平資料より)

上田:生き方が変わったので、風景の中に見る"豊かさ"というものも変わったんでしょうね。そういう意味では、我々は昔の人々よりも豊かさを感じる部分が、少なくなっているのかもしれませんね。

逆に敏感になった部分もあって、違うものに細かく反応するようになっているのかもしれないけれど。

亀口:TwitterやFacebookなんかのSNSをずっと使い続けていると、やはり「言葉」に敏感になっているような気はします。

「感覚」がのっぺらぼうになる前に

画像10

上田:例えば、木が何本か植わっているでしょ。同じ種類の木でも、虫がたくさんつく木、つかない木がありますよね。それぐらい繊細に環境の中の違いを感じ分けて生きているわけです。

多分職人さんとかもそう。うどん屋さんもそうですよね。それぐらい繊細に風景のディテールを感じ分けて、そこで暮らしをつくってきたわけです。

亀口:はい。

上田:でも、我々は逆に、環境の方を自分に合わせて変えることができる。
エアコンもそうでしょう?そうするうちに、我々の方が感覚をのっぺらぼうにしているかもしれない。

核ミサイルのボタンを押す感覚と、炊飯器のスイッチを押す感覚。押した結果起こることは全然違うけれど、押す手の感触は同じでしょう?
**
亀口:**なんだか怖いですね。

上田:そういう意味では、我々は感覚を持て余しているのかもしれないし、人間の感覚ってツルツルになっていくのかもしれないですね。

亀口:感覚がツルツルになると危険ですね…。

上田:うちの祖父が、「紙はこすれば破れるけれど、手は使った分だけかしこく、丈夫になる」と言っていました。例えば漁師さんの手や鍛冶屋さんの手は、ゴツゴツした硬い手なんですよ。でも、その人達はおそらく触ったものの違いを僕らよりもっと繊細に感じ分けたりしますよね。

亀口:そうですね。

上田:人間の手は、この一つの手でも、千通りのものを感じ分けることができます。でも、ひょっとしたらその力は、触れる環境が画一になっていくと、貧しくなっていくかもしれないなと思います。

亀口:貧しくなりたくない!って、すごく思います。

上田:だから自然の中で何かを感じるとか、毎日変化するとか、多様性にあふれたものと触れ合うことの中で、そういう感覚が戻ってくるのかも。我々は、快適な環境を人工的に作り、コントロールされた世界を生きています。

でも快適な環境のために、エアコンは排熱を外に出していく。だけど人間としては、ものを感じる力がのっぺらぼうになっていく。

亀口:あぁ、のっぺらぼう…。

上田:それを「自己家畜化」「セルフドメスティケーション」と言うんですけど、そういう方向に向かっているのかもしれないし、でもそれは人間の進歩と裏腹なのかも。

亀口:その自己家畜化から解放されるには、どんなことを心がけたらいいんでしょう?

画像11

上田:心がける?どうしたらいいんでしょう(笑)。自分でコントロールし、環境の方を我々に合わせて変えていく力が大きくなったからこそ、いま、快適なところで暮らしています。けれどもそういった中で四季の変化とか、日々の違いがある環境に身を置くというのは、やっぱり大事なんだろうなと思います。

亀口:そうですね。

上田:今は繊細な違いを感じ分けないと生きていけない時代ではないので、感覚も低下するのかも。でも、我々は「美」という概念を持っている。

亀口:「美」という概念ですか。

上田:はい、「生きる」とか「食う」に直結するものではないけれども、「美しいなぁ」と思う心は持っています。不思議ですよね。私達、人間の環世界というのはものすごく意味にあふれています。

亀口:意味であふれて、おぼれそうになります(笑)

上田:食える、食えないだけじゃなく、ナンセンスを感じるものもある。滋賀県をぐるっと見回した時に、食える風景が広がっているなと思うことはよくありますね。「ここで食っていける」と確信させてくれる風景があるわけです。でもね、我々は食えない風景も美しいと感じるんです。

亀口:なるほど、都市の夜景もそうですよね。

上田:人間って、不思議な生きものでしょう?動物達はやっぱり物理的に存在するものや刺激に反応して生きているわけです。一方で人間は、神様はいるかいないか分かりませんよ?でもそういうものがいると信じて行動する人もいるのは確かです。戦争をしたり、助け合ったり。不思議ですよね。

亀口:何かを信じることで、強くなれることもありますね。

上田:だから我々の環世界には、実際に存在するかしないか分からないもの、自ら作り出したもの、すでに居なくなったものや、過去とか未来の存在なども一緒に生きているんですよね。それが、我々にとっての刺激になるわけ。神様の声を聞いたとかね。

亀口:存在するかしないかわからないもの、過去、未来・・全部一緒にこの今を生きてるんですね。神様も、ある意味では刺激のひとつというのは、なんとなくわかります。

上田:それは自分の中の声かもしれないけれど、それに突き動かされることがある。本当に目の前に見える景色がガラリと変わることもある。
‥‥何の話をしてるんでしょう(笑)

亀口:人が感じる「美」について? だと思います(笑)

画像12

上田:これが鍛冶屋さんの手です。ハンマーを握り続けているうちに曲がってしまって、形もゴツゴツしている。でも、この手は私の手より繊細です。

亀口:見ためはがっしりしているけれど。
**
上田:**千手観音ってね、本当にあると思うんですよ。

亀口:本当にあるというのは?

上田:この手で千通りもの世界を感じることができるじゃない?私でも。それを形で表現しようと思ったら千手観音になるんじゃないかと思うんです。

亀口:人にはそれだけ多くのものを感じる力があるということですね!

上田:インドの神話に、世界原人というのがいるんです。

亀口:世界原人?

上田:「リグ・ヴェーダ」というインドの神話に出てくる“プルシャ”という存在で‥‥あの、こんな話してていいの(笑)?

 亀口:いいんです(笑)。続きをお願いします!

上田:世界原人、“プルシャ”には頭が千、手が千、足が千あるといわれています。でも人間って、考えてみたらそうじゃない?この一つの手で千通りもの世界を感じることができる。

一つのものを見ても、そこからいろんなことを感じたり想像したりすることができる。そういう意味では、もう一度原人に戻りたいなと思ったりします。

亀口:逆に今、それが失われてきている部分もありますね。

上田:そう。あらゆるものが新鮮に感じられて、迫ってくるというか、不思議がいっぱいあるというか。

亀口:原人の豊かさは子どもにも通じているのかもしれませんね。

上田:で、なんだったっけ(笑)。つまり、私が考えるコミュニティとか生きていく目的というのは、「ここで、ともに、無事に、生きていく」こと。それが我々の究極の願いだと思うんですよ。

亀口:「ここで、ともに、無事に、生きていく」。

(後編へ続きます)

取材・文 亀口美穂
写真 鎌田遥香

*このインタビュー内容はローカルメディア「しがトコ」の記事を元に編集・再構成しています。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?