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菊地伊織さんが描いたkakutellのVISION ART【制作〜完成まで・アーティストインタビュー】

実際に体感したからこそおすすめしたい【ヴィジョンアート制作で社員がリアルに感じたこと】

疑い----→と、網膜のscreenに映るものと外にいる人の大切さ

女性性の否定から肯定へ~子宮との繋がり。

人前で演奏がしたいか?と言われれば、したい。けれど、、、。(弾き語リストの独り言)

十宮(とおみや)の所在地開拓より住んでおります。

politicianのcian。的な生き様こそ。

-真面目な話を一つ…-インドの習慣で「バクシーシ」と言うものがある。「奪う」事で浄化する。そんな働きです。コソ泥!と思う人がいたとして、よく見て見て欲しい。「乞食」そのものですね。論理を正常化しましょう。彼らに「リソースを一滴。投じた」どこかで花びらが芽吹くかも知れません(^^)

1.「意図」と言うものは、そもそも最も人間らしいものであるのかも知れない。『ヴィジョン・クエスト』と言うものがあるが、「人間的意図の外に出る」体験を深める行なのではないか?と気づく。しかし、どうしても擬人化した世界観に絡め取られる-つまり、人間は人間を超越することは不可能。

絶望し、逃げた人には、やはり、未来は見えなくなってしまう-いかなる強風も・若木折る力なし-

spiritual(-spiral)artistとのほのぼの茶話会の結果---

バカにしたものではない”商人道”の精神性とその重要性。

"戦士”と言う言葉がある。戦う-侍。と言うワードである。その時この人や人たちは『何故?こうも闘い”たがる”のか?」不思議に思った事は無いだろうか?生まれつき、ノルアドレナリンが出やすい。と言えば簡単。しかし闘うまでの”フューズの設定”がそこにインプリンティングされているのである。

私の家庭は食事の作法にとても厳しい家庭でした。テーブル・マナーも幼い頃から教わり、その後とても役立っています(^^)。個人的に、食事についての精神性に学びを深めて来ました。一重に、喜び、美味しく食事をする事。そこに精神性の根幹があります。

3.『有知の知と言う名の-無知』…もしも”ignorant"と言う英語の深いニュアンスを紐解くならば、こう言った状態を日本語で表すのは難しい。と心得る。「白痴」でもないし、「粗忽」でもない。「無骨」でもない。。。

18.その時、この「弱者と強者」と言う「対立軸」自体に「壊れた天秤の軸」しか宿っていない。と言う事実が浮き彫りになる。天秤がどちらかに傾いているならば、「軸は壊れている」と認知する方がいいだろう。従ってそこには。「軸も規律もありゃしない」と言う事になる。

21.ただし、そこで「諦める」のは早い。それでは、「壊れた天秤として」働かなくなってしまう自分に一気にメタモルフォーゼしてしまう。信じる”べきは?”と言う問いではなく、信じ”たい”のは?と言う事に全てが集約されるのだ。染まっていない理想郷の有様こそ、本質的人生の理想の実現を促す。

23.もっと言えば、「他」と「自」と言う概念的追求もまた、強迫性障害レベルの病的追求と似ている。もっと、「大宇宙的-なんとなく」状態になってしまえば、日々、軽やかに。心の赴くままに。気分んをあげたまま。恣意性のかけらもなく。自分も誰かも甘やかせる=ノージャッジ=悟り。となるのだ。

3.結果の獲得を殊更避ける様な「理性性」により、本来あった「独自性」や、「デザイン傾向」が損なわれる人たちもいるのだ。あるデザイン思考の開発に携わる人は講演でこう賜っていた-『思い切って、発想を子供の頃の様に自由に出す。と言うことをする時、とても恐怖心が伴います』

2.それは、人間としての良さでもある。結果、『自然界は言う。鷹は鴉にはなれないし、烏にはならなくていい」。と言う結論に至ったのだろう。人為的な悪意や善意の所在とは「成長を意識化し、意図としてすり替える」これにのみ、依るものであると言える。

4.何故ならば、大自然との共生の中で、『自らこそが大自然』と、負の・刷り込みをしてしまった結果がそこにありありと顕れている。和合しようのないほど厳しい自然世界を生きた人々の中には、しっかりと。自然と人間の境界があったものである。と考えて差し支えない。

19,その時、問題なのが、「そもそも、天秤とは何だったのか?」と言う、愕然とする事実ではないだろうか?歴史的に紐解いて見てもそれほど深い意味のなさそうな存在である。と言うことが分かってくる。あってもなくてもいい。「なんとなく」「こっちが良さそうだ」それこそが指標と言うものだ。

20.恩恵と奉仕・またはtrial&errorの応酬。これもまた「天秤」の軸と論点がはっきりとズレている例である。では、指標と言うもの自体も危ぶまれてこないものだろうか???…ただ一つ。言えるのは「壊れた天秤の上で」陳列される全てに、「信じるべきものはない」

We are livin' livein in eighteeee'th!!!

記憶の色

愛し方と「身・口・意」の「三密」。

Spirituarismと、 Animizmの根源にある関係性-creatorとcreature.この愛ある図式。

ユウサミイさんと言う歌手のYoutubeライブを聴いた。相変わらず、優しいメッセージを、力強い歌声と、グルーヴ感満載のギターでお届けしていた。とても元気が出る。明日からの毎日に勇気を注入してもらった感じだ。私には、あんな存在の証明に近い演奏・・・これは出来ないと、気づく。尊敬だ。

-view point-のレベルの移行

自己実現と-amplifier・増幅機能-

シンプルに考えるととてもスッキリするものです(^^)。複雑に考えがちな人は、是非、ごく簡単に。そしてeasyに。人生を簡素化して見て見てください。答えもactionも、本当はごく・簡単なことのみです。ごく/簡単な行動のみを繰り返すことのみの中に、本当の思考の神は鎮座されています。

1.”赦し”とは-と、考えて見ます。都合のいい様ですが(-と言うより、都合よく考えるのを避ければ、frustrationがたまり、誰かに当たりたくなる。結果、赦せなくなります。)-「そこにある/在る=Be(ing)している」と、認識した時点で、「赦し/手放しています」。

2.対象化-とは、どんなジャッジよりも辛辣な-「反・同一性」の事なのです。結果、そこにかかるどの様なアプローチを取ろうと、「支配行動」でしかない。と言う事実を見逃さず見ることが出来る人こそ、ホンモノの”覚者(目が覚め/見えている人)と言えましょう。

3.支配行動について、ある有名なコーチにこんな話をされました。”ジャイアンみたいに、『本音』を包み隠し包み隠し---、攻撃性のみに逃げ続ける-『とっちゃん・ガキ大将』”---。辛辣な様ですが、それが事実と申せましょう。

4.一つ本当に-大切で本当に気付いた時は夜中まで腹を抱えてしまった事なのですが、「同一化」した全てとの関係性との距離が保てず「刺激-反応-抑圧-自己爆破→∞」と言う系譜をたどりがちな「冷たく燃える様な人々」の姿を鑑みるにつけ「炎を冷たく燃やす」と言う矛盾の膜の向こうにいます。

5.そう言った方々を見るにつけ、私はまだ、ユーモアたっぷりに分離して=統合して見つめられているからまだマシだなあ。と思った時はまだ気が晴れたものです(もう、20年近く前の20代前半の事でした---)。

ministopと言う言葉聞いて、「そうか、”jumbo-stop”は、AEONなんだな」と、思った事がありました。

外に行くと、インコがせっせと巣作りをしているのを見ました。時折、道路をトコトコと歩いているのも見ます。でも、あまり飛んでいるのを見た事がないのです。そう言えば、鳥って、いつの間にか天国に行って、死ぬ時も姿を隠しますよね。霊長類と違うのは自然そのものな生き様という事なのかな?と…。

仏壇を掃除しました。懐かしい品が沢山出てきて嬉しい限りです(^^)。家族はどの様な人であれ、とても大切な人たちですよね。以前書いた通り、とても上品で気高い性質の人ばかりでした。会うととても中身のある会話が出来ます。こう言う人はなかなかいないんです。ウチに生まれて良かったです^^

ナチュラリスト的生活と幸せ

5.だからこそ、ギリシアの文化において生まれた概念は、シルクロードを通り、中国で結実し、日本語(漢字)として輸入され、流布されている。それが「無知の知」である。

6.では、「知恵」とは。そしてその中核にある「知」とは?と言うと。高校時代の授業で、「倫理」と言う授業があった。英語に直すと、「philosophy」と教科書に記されてある。これは「知を愛する」と言う言葉の英語バージョンである。「知」とは、人を害する為に有るのでは無い。

7.では、害する。と言う時人は何を思い浮かべるのだろうか?例えるならば、「底つき体験」が有るとする。これは、「その人の内面には真実はない」とし、周囲が「最もその人が幸せになる生活」を「基底してしまった上での」「ドン底体験と苦しみからの自発的脱却」である。と言える。

8.恐らく、これに導かれるタイプの人-つまり、アルコール依存症になりやすいタイプの人ほど、弱々しい心を補強する、薄くて脆弱な鎧のような心で、威嚇し、自らをガードするしかなかったのだろう。としか思えない生き方をしているし、これは「内面的・弱さ」によるものなのだろうか?と幾度も思う。

9.どん底から這い上がり、従順に大人しくなる。そう言う人たちの一貫性は目を見張るものがある。何故ならば、「力をもってして、絶対に根を曲げない」と言う人たちとは一線を画すからである。つまり-本質に戻った後も、戻る前も、「善意のアウトプットの経路」は全く見失っていない。

10.以前聞いた話でこんな印象深いものがあった。『母は浮浪者にパンを焼いて手当たり次第渡していた。母が言った。「彼らは神様だ。彼らに対しどのように付き合うかを、神様の目は彼らの目を通していつも見つめ・見通している。これは魂の人間力テストなんだ」と。

11.その時。この「底つき体験」と言うのを”導く”考え方とは即ち、「ブラック心理術」であり、「黒魔術」的・背景を持つものである。と言うのがお分かりであろうか?人心掌握術とは即ち「心を掌に握る」と言う言葉である。その基本概念とは-「握っているのだからいつでも潰せるよ(^^)」

12.こう言うことになろうか---と思う。しかし、これはchicken-egg的発想なので、どこまでも最深層にはたどり着かない。つまり、当人同士も、その裏に何があるのかは知らない。と言えるのだが、ごく表層を見るならば、、、「手を組成しているのは、握られる側があるからこそ」である。

13,そうなると、どちらが力が強いのか?弱いのか?永遠に答えが出ないスパイラルの夢幻性的宇宙への飛び込みという無謀な選択となる。「弱者のプライド」とは、逆さまに見続ければ、どちらにも保有される課題である。「強情であること=弱者のプライド」である。

14.と、するならば、、、単純な話。「卵も鶏も、chickenだよね(^^)」と、そうやって外側から見つめるに限る。そこに初めて、平らかなる心は生まれるのである。例えば、取り巻く環境との折衝という時、一番大切なのは。ここでも「善意」である。といえるだろう。