絶望し、逃げた人には、やはり、未来は見えなくなってしまう-いかなる強風も・若木折る力なし-

こんばんは。

マクドナルドでポテトを食べた。

美味しいなあ。と思ったのだが、小学生ぐらいの頃に近くのマクドナルドで食べたポテトの味を思い出した。

ふと、その頃の事を思い出す。

そう言えば、、、

大好きだった女の子も一緒に向かって、仲間同士で食事をしたものだ。

わたしのアピールは何かと言えば、、、

「よく食べる」事だけだった。

話をするのも下手。見た目も普通。

その女の子は、ごく普通でありながら、善意の塊としてカリスマ化していた

これもまた「ごく普通」の少年に首ったけになっていたものだった。。。


フード・コートでポテトを食べながら、

そんな事を思い出した----。


かたや、低学年の頃からいじめられていた女の子がいた。

見た目が”痩せこけた・バングラデシュ人”の様に見えた事から、

(その当時・一斉を風靡していた)”ズームイン・朝!”の英会話コーナーの講師。

”ウィッキーさん(バングラデシュ人)”になぞらえ、

「ウィッキーさん」とか、「土人(たしかそうだったはず)」とまで呼ばれ、

『とにかく不潔な存在』レベルの弾き者扱いをされていたものだ。


わたしもそのいじめに勢いで加担してしまっていた。

しかし、どこか。その女の子は----

「セルフ・イメージ」の高貴さに嘘を着く様な真似を微塵も振る舞わなかった様に思う。


その後、卒業時の広報誌を見て分かったのは、

(当時から児童館の図書室に籠っているのは知っていたが----)

『本の虫』として、小学生にしては驚異の -----


半年で「46冊」読破。を記録し、表彰されていた様だった。


その頃のその娘の哲学性を読み取れる記載があったのを見たが、

「いじめられた体験」から「達観を得ていた」のが分かった。

いつもしれっとした顔と、メランコリックな表情を浮かべ、笑うことも少なかったその女性は、

その後。どんな出世街道を歩いたのだろうか???と、思ったものだった。


こんな風に。『心の根底から』伝わるものとは、

その人の「心の根底からの根こそぎの変化」によってしかにじみ出ようが無い。


正直、私が大好きだった女の子は「世の中に対して嫉んだ」様な、知性しかないのがわかるが、

その嫌われ者女子の女の娘は、もっと次元の違う様な、近寄りがたい-風が吹いてくる様な-

達観の持ち主だった。。。と、気づくのだ。

本当に達観を得るとなると、こんなハイアラーキーがあるのがわかる。


①逃げる-だらしないセルフ・イメージで終わる人<②人心掌握術と、裏を見る目で世渡り上手になる人<③悲しみや苦しみが『意識の側面』で様変わりする。。。と言う事実に気づき、問題と真剣に向き合い、解脱。怒りや憎しみ(のみ)ではなく、笑顔や知性へと変え、人を救おうとする人…。


と、こう言う訳である。。。

②番の人は、総じて、「taker-奪う人」となる。そこには、サイコパスの様な残忍性を、-disfunctional=機能性がない-な冷酷性のみしか存在せず、

-奪うためならば-何でもする。と言う精神性に「孵化」してしまう。


③番の人は、一貫して「giver-与える人-」にしかならないし、「成れない」。

生まれつき、素晴らしい魂だったのだろう。


①番の人は、最底辺を行ったり来たり-横移動はするが、上方にも下方にも移動出来ない。

従って、成長もなく、かと言って大した失敗もない。可もなく不可も無く-かと、思いきや。

ただ情けない雰囲気を露呈して、ジャンクな、もしくは水商売的な雰囲気で生きる事を選んでしまうものなのだ。

②番の人は、①番の人を利用し、操る。

が、

③番の人は、もっと高次の世界を行ったり来たりする。


人相やその他でもその精神性は読み取れるものだ—-


日本には、古来から「呪言-言寿ぎ」と言う言葉がある。

呪いにも、祝ぎにもなる。

「二面性-引用」が、そこには存在しているのだ。


分かるだろうか?

おそらく、そのいじめられっ娘の女性は、

学校ではいざ知らず、どこかで、その存在を「祝がれる」習慣があったはずだ。

もしくは、乗り越える為の何らかのきっかけがあったと言ってもいい。


かたや、その大好きだった女性は—

「呪われる」様な言葉や態度や姿勢が、家族や周囲から常態化していたと言っていい。

-個人の人生のレベルを超えて、そう言うことが起きていたのかも知れない-

ここで、一体。何を求めるべきだろうか?と言う事になる。


言葉の内容によって、大きく全ての反応は変わる。と言っていいだろう。

その場合、「解釈」を、どう帰るのか?

これに尽きる。そう思っていいし、言い切ってもいい。

解釈を変えるのが「言祝ぎ」なのだ。と言い切る事ができる。

ある一連の素晴らしい「言祝ぎ」のワードの中に、

「compassion-愛情」にまつわる言葉が羅列されているのが分かった。


要するに、残忍は人間性にどう付き合うか?と言う事になる。


セルフ・イメージの低い人は、

-それなりの-

禍々しい背景を抱えていたりする。

だからこその。そこから一歩一歩穂を進める必要があるのだ。

そこで腐ってはならない。

言葉や考える事のみは、誰に誘導されることもなく、選べてしまうからだ。

『(全ては)君が決める事』なのだ。そう言い切っていいだろう。


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