1.「意図」と言うものは、そもそも最も人間らしいものであるのかも知れない。『ヴィジョン・クエスト』と言うものがあるが、「人間的意図の外に出る」体験を深める行なのではないか?と気づく。しかし、どうしても擬人化した世界観に絡め取られる-つまり、人間は人間を超越することは不可能。
3.『有知の知と言う名の-無知』…もしも”ignorant"と言う英語の深いニュアンスを紐解くならば、こう言った状態を日本語で表すのは難しい。と心得る。「白痴」でもないし、「粗忽」でもない。「無骨」でもない。。。
18.その時、この「弱者と強者」と言う「対立軸」自体に「壊れた天秤の軸」しか宿っていない。と言う事実が浮き彫りになる。天秤がどちらかに傾いているならば、「軸は壊れている」と認知する方がいいだろう。従ってそこには。「軸も規律もありゃしない」と言う事になる。
21.ただし、そこで「諦める」のは早い。それでは、「壊れた天秤として」働かなくなってしまう自分に一気にメタモルフォーゼしてしまう。信じる”べきは?”と言う問いではなく、信じ”たい”のは?と言う事に全てが集約されるのだ。染まっていない理想郷の有様こそ、本質的人生の理想の実現を促す。
23.もっと言えば、「他」と「自」と言う概念的追求もまた、強迫性障害レベルの病的追求と似ている。もっと、「大宇宙的-なんとなく」状態になってしまえば、日々、軽やかに。心の赴くままに。気分んをあげたまま。恣意性のかけらもなく。自分も誰かも甘やかせる=ノージャッジ=悟り。となるのだ。
2.それは、人間としての良さでもある。結果、『自然界は言う。鷹は鴉にはなれないし、烏にはならなくていい」。と言う結論に至ったのだろう。人為的な悪意や善意の所在とは「成長を意識化し、意図としてすり替える」これにのみ、依るものであると言える。
4.何故ならば、大自然との共生の中で、『自らこそが大自然』と、負の・刷り込みをしてしまった結果がそこにありありと顕れている。和合しようのないほど厳しい自然世界を生きた人々の中には、しっかりと。自然と人間の境界があったものである。と考えて差し支えない。
19,その時、問題なのが、「そもそも、天秤とは何だったのか?」と言う、愕然とする事実ではないだろうか?歴史的に紐解いて見てもそれほど深い意味のなさそうな存在である。と言うことが分かってくる。あってもなくてもいい。「なんとなく」「こっちが良さそうだ」それこそが指標と言うものだ。
20.恩恵と奉仕・またはtrial&errorの応酬。これもまた「天秤」の軸と論点がはっきりとズレている例である。では、指標と言うもの自体も危ぶまれてこないものだろうか???…ただ一つ。言えるのは「壊れた天秤の上で」陳列される全てに、「信じるべきものはない」
3.結果の獲得を殊更避ける様な「理性性」により、本来あった「独自性」や、「デザイン傾向」が損なわれる人たちもいるのだ。あるデザイン思考の開発に携わる人は講演でこう賜っていた-『思い切って、発想を子供の頃の様に自由に出す。と言うことをする時、とても恐怖心が伴います』
5.だからこそ、ギリシアの文化において生まれた概念は、シルクロードを通り、中国で結実し、日本語(漢字)として輸入され、流布されている。それが「無知の知」である。
6.では、「知恵」とは。そしてその中核にある「知」とは?と言うと。高校時代の授業で、「倫理」と言う授業があった。英語に直すと、「philosophy」と教科書に記されてある。これは「知を愛する」と言う言葉の英語バージョンである。「知」とは、人を害する為に有るのでは無い。
7.では、害する。と言う時人は何を思い浮かべるのだろうか?例えるならば、「底つき体験」が有るとする。これは、「その人の内面には真実はない」とし、周囲が「最もその人が幸せになる生活」を「基底してしまった上での」「ドン底体験と苦しみからの自発的脱却」である。と言える。
8.恐らく、これに導かれるタイプの人-つまり、アルコール依存症になりやすいタイプの人ほど、弱々しい心を補強する、薄くて脆弱な鎧のような心で、威嚇し、自らをガードするしかなかったのだろう。としか思えない生き方をしているし、これは「内面的・弱さ」によるものなのだろうか?と幾度も思う。
9.どん底から這い上がり、従順に大人しくなる。そう言う人たちの一貫性は目を見張るものがある。何故ならば、「力をもってして、絶対に根を曲げない」と言う人たちとは一線を画すからである。つまり-本質に戻った後も、戻る前も、「善意のアウトプットの経路」は全く見失っていない。
10.以前聞いた話でこんな印象深いものがあった。『母は浮浪者にパンを焼いて手当たり次第渡していた。母が言った。「彼らは神様だ。彼らに対しどのように付き合うかを、神様の目は彼らの目を通していつも見つめ・見通している。これは魂の人間力テストなんだ」と。
11.その時。この「底つき体験」と言うのを”導く”考え方とは即ち、「ブラック心理術」であり、「黒魔術」的・背景を持つものである。と言うのがお分かりであろうか?人心掌握術とは即ち「心を掌に握る」と言う言葉である。その基本概念とは-「握っているのだからいつでも潰せるよ(^^)」
12.こう言うことになろうか---と思う。しかし、これはchicken-egg的発想なので、どこまでも最深層にはたどり着かない。つまり、当人同士も、その裏に何があるのかは知らない。と言えるのだが、ごく表層を見るならば、、、「手を組成しているのは、握られる側があるからこそ」である。
13,そうなると、どちらが力が強いのか?弱いのか?永遠に答えが出ないスパイラルの夢幻性的宇宙への飛び込みという無謀な選択となる。「弱者のプライド」とは、逆さまに見続ければ、どちらにも保有される課題である。「強情であること=弱者のプライド」である。
14.と、するならば、、、単純な話。「卵も鶏も、chickenだよね(^^)」と、そうやって外側から見つめるに限る。そこに初めて、平らかなる心は生まれるのである。例えば、取り巻く環境との折衝という時、一番大切なのは。ここでも「善意」である。といえるだろう。
15.善意とは他者が判断してアセスメントするべきもの…な、部分は、ごく0.002%ほどか、それ以下である。と言える。何故ならば、他人と言うのは自分の意識の中の登場人物でしかないからだ。もっと言うならば、「自分が”内なる善”に背く生き方をしていると言う矛盾」
16.これを身につけてしまった時、人は凶暴化する。従って、「心に背きやすい傾向=正直ではない心」を早くに身につけやすい人ほど、根っこから凶暴である。と言う事でもある。「諦める人」とは、「善意の一貫性を早々に折ってしまった人」の事であろう。
17.何が言いたいのかと言うと…?「黒魔術の様に、恐ろしく思える全て」とは、「弱者のプライド」から生まれたものでしかない。その上で、本質的弱者の育成に努めるのが、「諦めさせる」-様に「導く」教育と、暗示である。そう言い切れるのだ。
22.総じて、「自分軸」とは、(誰かが言っていたことに似ているが)他律か自律か?と言う、「外部にある知識としての本質の呈示」から、全く疑う事なく、純粋化する。と言う考え方の中にはない。「求めるところ」を純粋化する事。その時、初めて、「他と自」のバランスが内発的に生まれる。
※連続トークの補足※『結果を取る』と言う事に関して、『野心』で関わるのに長けた人もいる。そして、「遊んでいる様に楽しむ」人もいる。見ていると、そうやって楽しく過ごしている人の方が緩やかに伸びる。前者は苦しい。苦しいから、相手にも苦しみを求める。つまり、愛情とは遊び心より生まれる。
※補足②※総じて、アンニュイな人で、人に受動的に尽くせる人ほど、愛情が深い。計略深いかの様に見えるし、達成感のために人を嵌める様にも見える。けれど、その根底には、愛に溢れた日々から生まれる本当の愛情があるのだ。「プロセス思考」に留まるのも、自分を愛しているからだろう。
※補足③※最後に、このアンニュイ系の人の代表格の様なでも面白みも忘れていない最高に良い状態の人で「坂本龍一さん」のビールのCMでの言葉を紹介したい。『自分可愛いですか?可愛いですよ。もっと。もっと、甘やかしてあげましょうよ…』※目の前の『鏡』に映っているのは他人?自分?(^^)。
1.恩師の文集での記載を見た。「芸術とは、結果ではなく、「プロセス」だ」と言う言葉だった。人生自体も「プロセス」が大事だ。と言えるのではないだろうか?しかし、ここで疑問も生まれる。何故、殊更に・『結果』を避けるのか?ここには正体としてバイアスが存在するのが見え隠れする。
2.結果を得る事を避ける。とは、本能的に「恐れ」があるからである。と言って差し支えない。…今となっては、彼の心中を察する手立てはない。しかし、結果を恐れる。と言う課題は、割とポピュラーなものなのではないか?と私などは思うのだ。
4.そこで何より大事なのは、『やっぱり、大丈夫だった1』体験を重ねて、少しずつ、おっかなびっくりしながら、発想を出しても大丈夫だった。と言う経験を積んで行き、デザインの涌き出る場所を少しずつ間口を広げる様に掘削していく(元に戻す)事で、面白みのある・工夫や遊び心のある発想が戻る。
5.そこで、最初の恩師の言葉である。「プロセス」が大事。とは、結果に執着すると、芸術の醍醐味が見えない。と言うことを言いたかったのではないか。試行錯誤が面白い。しかし、結果を見ようとし続けて、彼は気づいたのだろう。『苦しい』と。だから、その苦しさを避けたのではないか?
6.この様にして、、、『諦め(る人)』は、量産されていく。思えば彼の顔はいつも死んだ様に表情がなく、それが-知性である-と評価され、女性にも人気があったものだ。『アンニュイな雰囲気』とは、もしかしたなら「諦め」から来るのかもしれない。
7.諦めてもいいのだ。結果、彼の様に独特で強靭なアイデンティティが生まれるのなら、その方がいいと言えよう。しかし、彼の様に自我の方向性に漂う人が行うべきは、『自分らしい困難』への対峙と乗り越えではない。と言える。返り道を後ろ歩きするぐらいの中に、本当の答えはあったりする。
8.私に東京のデザイン専門学校を勧めた時の彼の顔は確かに笑顔で心を開いて、はしゃいでいた。彼の「結果」とは、「心を開いて、不用心に、そして、自己イメージも顧みず(=無邪気に)」何かを求めた先にある、「心の繋がり」だったのではないだろうか?
9.面白み。とか、デザイン思考。とか言うけれど、それも人それぞれ。何より大切なのは、「弱みのある部分を出しても大丈夫は愚か、何かの役に立つだけでなく、誰かが喜ぶ。」それそのものであり、「喜び」とは「自分らしく、外に発露し、浸潤していく」事を生む「湧水」の様なものなのかも知れない。
温かみ。暖かみ。温もり。太陽の陽光がいつもそこにあり、私はいつも。その中にある心地よさと共にある事を礼賛しています。
高田純次vs椎名林檎の「僕らの音楽」での対談がひどく面白かった。高田さんは、明らかに「タヌキ」っぽいスルーの仕方をしていて、林檎の方は、明らかに狐っぽい。(←)かりあげクンのアニメOPの歌詞からのパクリだが、「男と女の漫才の様な-化かし合い」みたいで、ゾワゾワした(笑い)
続き---外出自粛のせいで生活保護の早急な対策を!!!と、伝えていたのを見た。平和と安治の維持には従来通りを守る。これも◯(そもそも多くの人は変化を望んではいない-私もそうだ。)または従来の経路や骨子は守りながらも流すものを変える。と言うプロアクティブさも必要。アプリオリは無い。
続き---「油断しない(火に油を欠かさない)」より、「火を起こさない(✖️油を入れる→炎=炎症=免疫の不活性)」これが、根本的では無いだろうか?総じて、何らかの形で、昭和初期から始まる疲労と、回転数上げ続ける習慣を、一旦休んでもらうリセットの仕方-制度の改修。これが必要だろう。