愛し方と「身・口・意」の「三密」。
こんばんは。
以前、あるティールームに寄りました。
そこでは「哲学カフェ」もやっているそうで、その講師の方が製本された「哲学(自己啓発?)書」の短編集が、どのテーブルにも置いてあります。
それを見るたびに純粋な学びがあるのですが、
一つ、シェアしたい内容がありましたので、お伝えします。
…これは、密教で言うところの「身・口・意」と言う「三密」とも似ています。
この短編で書かれていたのは、以下の様な事でした。
”ある人が好きだ。と言う時、
それが愛なのか?恋なのか?で、それぞれ属性も種類も違って来る。
恋とは、ただ好きと言うだけ。
愛とは、「私に世話をさせていただけますか?」と言う、荷物を相手に背負ってもらおうとして、
「良いですよ(背負ってあげますよ)」と言われた時から始まる「試行錯誤のプロセスの全て」だ。」
と言う事でした。
そこで、夢の様なパートナー・シップを見出そうとしてしまうと、
その先には進めなくなってしまいます。
”ティク・ナット・ハン”と言う、タイの僧侶がこんな事を言っています。
『愛し方とは、一筋縄で行くものではない。
愛そうとして、愛する事が出来ず。
でも、めげずに、『愛し方』を学び、ラーニングして行く事でのみ、
初めて成就できる「能力」である。』
”自分のやり方”のみだと、
「相手が受け取ってくれる」と言う現象が起き得ず、
結果。それは「愛している行為」とは言えなくなってしまいます。
ただし、何度も何度も、相手の好みや、相手の趣向に歩調を寄せようとする経過の中で、
相手を愛する。と言う結果は生まれるとの事でした。
…そして更に加筆するならば、
「頭で好きだと「考えている」=言葉で繰り返しがちな事」
と、
「胸=感情で感じるときめき』と、
「腹に落とし、体と一体化している『好き』と言う感覚」
これらを、モニタリングし、データ集積した上で、
束ね上げ、初めてアウトプットする際の参考になる。
と言う、ごく・理知的な短編でした。
ここで、「身・口・意」の「三密」が効いて来るのです。
口で言っていることとは、前述した通り、
「頭で繰り返し口ずさんでいる内容」です、
意の側面でイメージしている事とは、
「感情=右脳的な側面』での、より抽象度の高い概念です。
身とは、
「体の側面で自動化し、一体化している全て」です。
この全てが一致し、
行動としてアウトプットした結果、
より良い自己実現へと繋がる。
と言うのが、身・口・意の考え方です。
一番、カタルシスであり、小気味いいのは、
密教での「悟覚」とは、
「欲求をなくす」のではなく、
「欲求を余すところなく満たし尽くす」事により、超越する。
と言う考え方です。
やりたい放題やればいいのか?と言うと、そうでもなく。
「ブレイク・スルー」するにも、それなりのプロセスが必要です。
積み重ねが必要。と言う訳なのです。
この時、「愛し方」と言うテーマと全てが似ています。
愛したい!ならば、、、
愛し方を学ぼうとする姿勢と、
学んで→アウトプット→学んで→アウトプット、、、
これが必要です。
その時、愛する。と言う現象・行為・言葉。これらの裏にも、
それぞれの人によって、それぞれの。
「ニュアンス」があります。
以前見た事のある人は、みんなに好かれている『感」がありました。
…が、こんなに「表面的な好意の表現」が、なぜ好かれるのか?不思議だったのですが、
単純な話です。その裏にあるニュアンスが、、、
「突き放してやるからね!」
と言う、ごく冷たいニュアンスだったので、
「突き放されると、着いて行きたくなる」と言うブラック・心理術的な側面を
うまいこと前面に押し出していたからこそ、みんな、着いてきていたのだとそう気づきました。
この「ニュアンス」の伝え方が何より大事です。
場合によっては、ニュアンスの根本自体が相手と合致しない為に、
どうあがいても相手に伝わらない。ということも起き得ます。
そもそも、そこにあるのは、
「相手の内面世界への興味」ではない可能性があるので、
当然、相手も。「便宜上の好意=利用される感』を感じてしまう結果となります。
(こんな体験は誰しもあるのではないかと思うのですが、、、)
自動的に行える人は、「あざとい」側面もある人なので、
うまく行きていけると思いますが、
もし、正直に、地道に。
道を積み上げて、うまく人と交流したい(けど、最近出来てないな)という人がいたならば、
是非、この発想を利用されて見てください。
きっと、うまく行くと思います(^^)。
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