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「つたなさ」への温かいまなざし―那須耕介「つたなさの方へ」を読んだ

素敵な出会いがありました。

まずひとつは人との出会い。ある書店で「ミシマ社フェア」をやっており、そこにミシマ社の営業の方がいらっしゃいました。その方は私に気さくに声をかけていただき、おすすめの本や本の誕生の背景などたくさん教えてくれたのです。自分が買おうとしている本にどんな人が関わっているのかを知ることは、野菜の生産者の人の顔が見える時と同じようになぜか安心しますし、親近感を覚えます。しかも、ミシマ社の方の「本が好き」という思いが伝わってきて、「この人、同じ星の人だ!!!」と心の中で勝手に思っていました(笑)

もうひとつが本との出会いです。自分がミシマ社の方に「心温まる本を探しているんですが、いい本ないですかね?」と雑な質問をしたとき、とても素敵な本を紹介してくれました。それが那須耕介著「つたなさの方へ」という本です。これがまさにドストライクで心が温まる作品でした。本書は、法哲学者の那須耕介さんが書かれたもので、15篇のエッセイが掲載されています。そのひとつひとつのエッセイからにじみ出る人に対する優しい視線が疲れた心を癒やしてくれました。

本記事では、「つたなさの方へ」に収録された15のエッセイを読んで思ったことを書き留めていきます。


理解しあえない前提で、理解しようとすることの大切さ ―「家の中の余白」より

他者とはそもそも完全に理解し合えない存在です。理解できないものは怖い。怖い物は避けたいものです。だから、人はわかりやすい枠に閉じ込めて、理解できない他者でさえも理解しようとします。「あいつは不良だ」とか「こいつは東大卒のエリートだ」とか、人をわかりやすい枠に閉じ込めます。

枠に他者を枠に閉じ込めることで人を理解した"つもり"にはなりますが、その人自体を受け入れられているわけではありません。

その人の存在をわかろうとする姿勢や、その人を枠だけで判断しない姿勢を持ちたいと思いました。

そのためには「わからないことをわからないままにする耐性」が必要になるのだと思います。この人はどうやっても理解できないところがある。それでもこの人を理解しようと思うためには、わからないところはそのままにしておくことも重要です。他者のことは完全に理解できないという前提のもと、他者を理解しようとする姿勢を忘れないことが必要になるのだと思います。

頼るという強さ ― 「『能力』は本人のものか?」より

「ケアすることでケアされる」ということがあります。悩みを持った人の話を聞いたり、人の手助けをすることで、自分の心が軽くなるということはよくあります。

これは逆に言えば、「ケアされることはケアすること」にもつながります。ケアされる人はケアする人も助けている。どうもこの視点は忘れられがちで、「ケアされるのは悪いこと」というような見方があるような気がしています。

この考えが顕著に出ているのが「自立」に対する考え方です。自立とはなんでも自分でできること・ひとりですべて完璧にしなければならないと考えてしまうことがあります。

このような自立に対する考え方から導きだされるのは「孤独」です。自分で何でもできることを善とすると、人は頼ることができなくなります。くわえて、自分の潜在意識の中で、人に頼る人を見下してしまいます。人に頼ることを見下すと、余計に人に頼ることができなくなり、孤独は深まっていきます。孤独になると、人に頼ることはできません。頼ることができなくなると、人はどうしても弱く・もろくなってしまいます。すると、人から頼られることも少なくなってしまいます。この人に頼ったら、潰れてしまうかもしれないと思われるからです。人に頼ることで、人は強さを得て、その強さによって人から頼られるのです。人に頼るからこそ、相手に頼られることができます。ですから、自立とは頼る・頼られるの両方ができることだと思っています。

「準備をする力」と「あり合わせで対応する力」―「ありあわせの能力」より

人生で常に完璧な準備を整えることはできません。人生とは、常にありあわせで対応する場面の連続です。完璧なコンディションで物事に取り組める機会は少なく、その場の環境に合わせて今持てるベストを尽くすしかありません。

私は中日ドラゴンズのファンで、よく野球を見るのですが、野球選手も常に100%のコンディションで試合に望めているわけではないでしょう。どこかに痛みを抱えながらも、それでも打席やマウンドに向かわなければいけないことが多いということを聞きます。大切なのは、コンディションが悪い中でも、どうやってゲームを作っていくのか・どうやって自分のバッティングをするのかということです。これこそ、まさにありあわせで対応するということなのでしょう。

自分はどうしても、準備をきれいに整えてから物事を始めたいと考えてしまいます。そのため、準備が整っていないところ・不完全なところに着目しては、言い訳にしてしまうことが多い。このような姿勢では、完璧な場面が来るまで自分のパフォーマンスを出せないということになってしまいます。そして、基本的にコンディションが完璧な場面は少なく、ほとんどの場面で言い訳を探してしまう。大切なのは、与えられた環境の中で、自分のパフォーマンスを全うするということだと本書を読んで改めて感じました。

もちろん事前に準備するということも大切です。事前準備することとあり合わせで対応することの2軸の能力を大切にしていく必要があると思いました。

「謝罪」の使いどころ ― 「謝らない人」より

「謝罪を求める」という行為は、相手を赦したいという姿勢の表れなのだそうです。本当に赦せない場面に出会ったとき、人は「謝れ」とは言えないでしょう。赦す余地があるからこそ、謝罪を求めるのです。こう考えると、謝罪とは人とわかり合うためのツールであることがわかります。

ただ、世の中にはわかり合えない・わかりたくないという考えも存在します。そんな時に、謝罪をして相手を無警戒で受け入れてしまっていいのでしょうか。謝罪とは人とわかり合うツールであると同時に、相手を受け入れる表明でもあります。その表明を使うとき・使ってはいけないときというのを見極めなければいけません。

人生が「止まって」しまったときにできること ― 「羨望と嫉妬」より

人生には、「止まる」瞬間があります。大好きな人と別れた時、打ち込んでいた仕事を否定された時、誰からも認められないと感じた時、人生は止まります。

止まった人生は諦めを生み出します。諦めは活動のエネルギーを奪い、「まあこんなもんか」という枠に自分を閉じこめてしまいます。自分自身が危険な目に遭ったからこそ、自分にとって安全な場所に閉じこもり、そこから踏み出そうとしなくなってしまうのです。これが人生が止まるということなのでしょう。

安全地帯に閉じこもっているのは心地のいいことです。苦しいことに向き合わなくて済みます。ある意味で、楽な生き方と言えるでしょう。

一方で、この生き方は新しい喜びに出会う可能性も狭めます。他の場所にもっと素晴らしいものがあるかもしれないのに、その可能性に蓋をしてしまうのです。人生が止まっている人は、他者から「もっと楽しいことがあるのに」とか「もっと幸せになれるかもしれないのに」といった言葉を投げかけられることがあります。この言葉を他人から言われた時、そして自分自身に問いかけるとき、新しい可能性は呪いに変わります。「もっと幸せになれるかもしれないのだから、新しい場所に出なきゃ・・・」と焦ってしまうことがあります。ただ、安全な場所で傷を癒やす前に、新しい環境に出るとまた新しい傷を増やし、さらに自分の殻に閉じこもってしまうことになってしまうかもしれません。

たしかに新しい可能性に目を向けることも大切です。しかし、本当に人生が止まってしまったとき、新しさは人を救わないかもしれない。新しい場所でまた新しい傷ができてしまうかもしれない。そんなことを避けるために、新しさではなく深さに目を向けることも大切なのではないでしょうか。立ち止まってしまった人生の中で、その場を深く掘ってみる。具体的には、自分が今感じていることを言語化してみる。そのような行動が、立ち止まってしまっているけれども、別の場所に目指したいときに救いになるのかもしれません。

「人生の受け身」という必須スキル ― 「こける技術」より

「転ぶことを学ぶ」というのは、大切な視点であるように思います。人生は成功するより、失敗することの方が多くあります。失敗したとき、致命傷を負わないようにすることが人生において大切なことです。

しかし、今の社会では失敗しないようにすることに重点を置かれてしまっているような気がします。未来や将来のことを考えて、失敗をしないようにするにはどうすればいいかで思い悩んでしまいがちです。

このように悩んでしまうのは「失敗は許されない」という固定概念があるからなのではないでしょうか。「失敗は成功の母」というように、失敗から得られた学びによって人生は前に進みます。だからこそ、失敗しても致命傷を負わないこと、人生の受け身をとれるスキルが大切になるのです。

では、人生の受け身とは具体的にどんなスキルかというと、狭い視野にとらわれないようにすることであるように思います。ある特定の価値観に凝り固まったとき、その価値を達成できないと負けたような気がしてしまいます。この「負け」の感覚が、自分の存在を疑う原因になり、自分の存在を保てない大きな原因になってしまいます。

本来、価値とは多様なものです。画一的なものではありません。価値は多様であるということを知ることで、ひとつの失敗を受け入れやすくなるのではないでしょうか。失敗をしても、他の価値観があるところに行けばいいと思えることで、失敗は学びに変わります。価値の多様さを知ることが、失敗を致命傷にしないことにつながるのです。常に価値の多様さを自分の中に確保しておくこと。それが人生の受け身とも言えることなのではないでしょうか。

弱さを見せられる勇気 ― 「黒めがね、マスクそして内心の自由」より

サングラスやマスクをすると安心すると感じます。自分の顔の一部を隠せば、簡単に人に心を悟られませんし、コンプレックスを見せないようにすることもできます。マスクやサングラスをするということは、自分を守るために役に立つのでしょう。

しかし、守りの道具は人と理解し合いたいときに邪魔になります。自分の本心を打ち明けない限り、人からは理解されません。自分の顔を隠すことは、相手に本心を伝えないということの意思表示であり、相手も自分のことを信頼しづらくなってしまいます。このことが人と理解し合うことを阻害するのです。自分の弱みや見せたくないところを人に見せるからこそ、人とつながれるということなのでしょう。

弱さを見せるのには勇気がいります。弱さを打ち明ける勇気が人と深くつながるためには必要なのです。自分もこの勇気をなかなか持てずにいますが、弱さを見せる勇気を持てるようにしていきたいと思っています。

つたなさを包み込む優しさ

「つたなさの方へ」に収録された15のエッセイの中から7つのエッセイを取り出し、感じたことを書き留めてきました。本書には心温まる短編がまだ8つも入っています。

このすべてのエッセイに通じることは、「つたなさ」に対する筆者の温かいまなざしでした。どうしてもつたなさに出会うと、人は鼻で笑ったり、見下したりしてしまいます。これは自分も例外ではなく、つたなさを怖れて新しいことに踏み出せないこともしばしばです。どうもこのつたなさを異様に怖れることが生きづらさを生んでいるような気がしてなりません。

つたなさを愛すること、つたなさから得られるものを大切にすること。そんな人生において大切なことを本書は認識させてくれます。つたなさを怖れて、疲れてしまった人にぜひおすすめの1冊です。


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