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生きづらさの原因と自由からの逃走

「自由から逃走しようとすることってめっちゃあるな…。」
これが私がエーリッヒ・フロムが書いた「自由からの逃走」を読んだ感想でした。

個人的にやりたいことがあるのに目を背け、無理に他人に合わせようと疲弊する。このような自由から逃げる機会は自分の生活で山程あります。

本当は別の夢があるのに、安定のために仕方がなく仕事をするとき。別に行きたくもない飲み会に参加するとき。このようなときに、自発的に自由を捨てています。

では、なぜ人は自由から逃走したがるのでしょうか。本記事では、エーリッヒ・フロム著「自由からの逃走」をもとに、人が自由から逃げたがる理由と生きづらさについて考えていきます。

人はなぜ自由から逃走したがるのか

人が自由から逃走したがるのは、自由が孤独を生み出し、その孤独は人が本能的に嫌悪するものだからです。

自由は孤独を生み出す

まず自由は孤独を生み出します。このことは、実家暮らしとひとり暮らしを比較するとわかりやすいでしょう。

私は今年の3月からひとり暮らしを始めました。ひとり暮らしは自由です。実家暮らしのときには、家族がいるため、家に人を呼ぶのもなんとなくはばかられました。しかし、今はいつでもだれでも家に招待できます。同時に生活リズムも自分で決められます。休日には好きな時間に起きて、食べて、風呂に入り、寝ることができます。このようにひとり暮らしでは、全て自分が決定権を持っています。まさに「自由」と言えるでしょう。

一方で、ひとり暮らしでは、言いようのない寂しさを感じることがあります。実家では楽しいことや苦しいことがあると家族に話して共有でき、家に帰れば誰かがいるという安心感がありました。しかし、ひとり暮らしでは、いつでも誰かがいる状況ではなく、孤独です。嬉しいことや辛いことがあったときでも、ひとりで受け止める必要があります。

このように、ひとり暮らしでは、自由であると同時に、孤独と向き合い寂しさを感じることがあります。自由と孤独は表裏一体のものであると言えるでしょう。

孤独から逃れようとする本能

そして、人はひとりで生きていけないため、孤独から逃れ、どこかの集団に所属したいという本能があります。

フロムは「自由からの逃走」の中で、以下のように述べています。

人間は他人となんらかの協同なしに生きることはできない

エーリッヒ・フロム「自由からの逃走」p.27

どこかに帰属しないかぎり、また生活になんらかの意味と方向がないかぎり、人間はみずからを一片の塵のように感じ、かれの個人的な無意味さにおしつぶされてしまう

エーリッヒ・フロム「自由からの逃走」p.28

この孤独から逃れたいという本能のために、自由が生み出す孤独から逃れようとするのです。自由それ自体から逃走しようとするのではなく、自由を得るための代償である孤独から逃れようとしていることが重要になります。

生きづらさの原因は「自由への欲望と孤独への回避の対立」

人間関係の中で生きづらさを感じる人も多いのではないでしょうか。私もそのひとりで、人と話したり集団の中にいるだけで疲れ切ってしまうことがあります。そんな自分に対して、なぜ多くの人ができることを自分はできないのだろうと思い悩むこともしばしば。

この種の生きづらさは、「自由への欲望と孤独への回避の対立」が原因です。

自由を求めてひとりになるけれど、孤独に耐えられなくなって人と会おうとする。しかしその関係の中でまた自由になりたくなり、一人に戻る…。この繰り返しでは、自由でもなく孤独でもない中途半端な状況になってしまいます。結果的に、人との信頼関係がうまく築けず、自分の自由も大切にできないため苦しむことになってしまうのです。これが私を含め、人間関係に悩むときの仕組みです。

生きづらさの軽減にむけて

では、人間関係の中で「自由への欲望と孤独への回避の対立」が生み出す生きづらさを軽減するにはどうすれば良いのでしょうか。

大切なのは、「孤独の意味を捉え直す」ことです。

自由を求める限り、必ず孤独は必要になります。それならば孤独のネガティブな側面ばかり注目せず、孤独は自由を主体的に享受し、人との関わりを健康的に保つものとして捉えることが必要です。

孤独に耐えられないのは必然です。とはいえ、人との関わりがつらいときもあります。そんなときこそ、孤独は自分を癒すために必要なものであると捉え直し、自分だけの孤独を作っていく必要があるのではないでしょうか。

[参考文献]エーリッヒ・フロム(1952)「自由からの逃走」東京創元社

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