心の中で君の手をにぎる。 近く、また。
某日、ゴッホ展を目当てに上野の森美術館へ足を運んだ。
27歳ではじめて画家を志し、37歳で自ら命を断ったゴッホは、短い生涯の中で弟テオに宛て多くの手紙を書き送ったという。
そんな彼が送った手紙の中ですきな一節がある。
「心の中で君の手を握る。近くまた。」(テオ宛 第559信)だ。
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あるときまで、すごく仲の良い友人がいた。
学生時代にひょんなことから知り合った彼女と私はすぐに意気投合した。
コーヒーを片手に共に卒論を書いた朝もあれば、
文学やファッションついて議論を交わす昼も、
仕事やキャリアについて語り明かした夜もあった。
人間関係に関する悩みを話し合う中で、気付けば2時間を超えていた通話記録に驚いたことも、
一緒に合コンへ行き、反省会をした帰り道も、
お互いの得意料理を振る舞い、生活の知恵をシェアした休日も、今はただ懐かしい。
「同じマンションにそれぞれ部屋を借りて、時間がある日は一緒にご飯食べたりしたら、すごく楽しそうだよね」
そう笑った彼女の姿がふと脳裏に浮かぶ。
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5年間、彼女は紛れもなく大切な友人だった。
けれど、些細なことがきっかけとなり、私たちは少し距離をおいた関係を築くことに決めた。
「 ”距離をおく”って、友達というより恋人同士の会話みたいで笑っちゃうね 」
最後に話した内容は、そんなことだったと思う。
距離をおいた関係を築く、といえば響きは良いけれど、実際のところあの日から私たちは一切連絡を取っていない。
私たちが選択した「距離」は関係を再構築するというよりも、断絶させるものだったと考える方が自然な気もする。
だけど何故だろう。
いつかまた彼女と再会し、昔と変わらず笑いあえる日が来る。そんな気がしている。
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「人は出逢うべくして出逢い、別れるべくして別れる」と信じている。
出会いと別れを繰り返す人生において、
必要なタイミングで、必要な人と私たちは過ごす。
その中には予想もしないような出会いもあれば、
願ったような終わりの形ではない幕引きもあり、
それらに心を酷く掻き乱されることも多い。
けれど、その出会いも別れも、
学びを得て、成長し、しなやかに生きる上で必要不可欠なのだろう。
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今この瞬間、自らの人生に登場している人が、今後もずっと存在し続ける確証はどこにもない。
存在し続けて欲しいと願うならば、違いも含めて互いに尊重し合い、相当の努力を怠らないことが必要だろう。
それでも努力の甲斐なく、人生の岐路を迎えてしまうことだって、きっとある。
だけど、今は人生というフィールドで糸が交わらない人も、
今後、道を分かつことを予期している相手も、
時を経て互いの置かれた環境が変化することで、
ふたたび双方にとって”必要な人”となるかもしれない。
あるいは、”必要な人である” と強い意識をもち、
そうした自覚から生まれる行動が「ふたたび縁を造りだす」のかもしれないと感じている。
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また会えるかもしれないし、もう二度と会えないかもしれない。
確かな未来など存在しない。始まりも、終わりも、願ったような形ではないかもしれない。
それでも私は、希望を込めてこの言葉を贈りたい。
「心の中で君の手をにぎる。近く、また。」
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