ケアと演劇。コロナ、戦争、でも続けるために。

はじめに

演劇は確かに不要不急だ。パンデミックの中で、わたしはある面でそれを認めざるを得ないと思った。さらに、ロシアの攻撃全面化を受けて、わたしは更に、それを認めざるを得ないと思った。演劇は理不尽な攻撃に対して何の抗力も持てないと実感している。今この瞬間にも命を脅かされる誰かを尻目にわたしは演劇をつくっている。なんと特権的なんだろう、と感じられ眩暈がする。

わたしにとって演劇を作るモチベーションは、基本的に「生きづらさへの抵抗」というスタンスにあるのだと最近、考え至った。わたしは、現代日本がかかえるさまざまな病理の、政治・経済・教育・社会・文化・家族・地域など多岐にわたる領域における諸問題の、その水脈をたどれば、国際的な不均衡や摩擦に行き着くと考えている。つまりわたしは「生きづらさ」を解消するために世界が平和にならなければならず、そのために何ができるかという理論で演劇を構想している。

しかし、もはや、たった今、わたしたちはその銃口がまさに向けられんとしているたった今、これまでに実践してきた平和へのアプローチとしての上演とその意味や価値が細胞レベルで無に帰していき、バラバラになって、わたし自身が演劇の「抗力」を信じられなくなりつつある。こうした自我のバランス崩壊についても、わたしは、「こわい」と実感している。そんな中、わたしはある作品のための情報収集の過程で、「ケア」という概念と出会った。ふと、わたしは演劇にケアの可能性を感じていたのかもしれないと直感した。

とある演劇祭の協賛者のツイートで、「演劇を反権力の呪縛から解放したい。創作の自由を取り戻してほしい。」といった趣旨の発言があり、議論が起こった。わたしはその協賛者のいわんとすることも理解できた。たしかにわたしは今まで、わが国の舵取りが武力主義に傾きつつあることを注視し、前述の理論に基づいて反権力的な作品を作ることが多かった。

しかしわたしは演劇を、反権力の"ために"作っているわけではないという点において違和感を禁じえなかった。"結果として"反権力というスタンスを取らねばならない、というのがわたしにとっての実感であり、これはむしろ、創作の自由があるからこそ掲げられるスタンスなのではないだろうか。わたしは今までもこれからも、きっと演劇という方法を用いて、わたしや誰かの「生きづらさ」を解消するために、そのケアのために演劇をつくる。反権力はその道程に過ぎない。そう考えると、わたしはやはり、いまリスクに震えているわたしたちのために、そのケアのために演劇を続けられるではないかと思えるのだ。

これはわたしの、わたしによる、わたしのための、演劇をつづけるための口実を補完するべくまとめた、ケアと演劇の密接なつながりとその抗力を明らかにするための総まとめ的な書き残しである。

1 ケアに満ちた社会

ケアとは、ある一人の他者を敬い、いたわり、扶け、対話し、畏れ、その者を脅かす存在を退けることである。私たちは生まれてから死ぬまで、必ず誰かにケアされ、そして誰かをケアしている。人間は相互依存的な生物だ

当noteでは、この前提を基盤に、現代社会の男性中心主義・資本主義・新自由主義を批判し、かわりにケアに満ちた社会、つまり対話主義・反差別主義・持続可能性論への展開をたどる。この論題は最終的に、戦争のない地球の平和をいかにして築くか、についても言及することになる。さらにわたしたちが「戦争反対」を訴えねば"ならない"理由と責任について描写する。そして結びとして、私は演劇作家なので、ケアと演劇、その可能性について想像する。

まず、漠然としているがゆえ蔑ろにされがちな「ケア」という概念について、明確にしつつ、その精神と実践についてまとめ、その重要性を描く。

▷ケアにまつわるパラドックス

パンデミック以降、不要不急の自粛要請にはじまり、現実的な感染拡大による止む得ぬ影響に振り回され続けるわたしたち。演劇界においても、公演の中止や延期、企画段階での頓挫、回収不可能な支出、齟齬を起こし続ける行政支援と実際問題のギャップ、重くなっていく客足、などなど、数え出したらキリがないほどのハードルを抱え、その解消の兆しはいまだ見えない。「もうコロナ飽きた」という空気さえ蔓延する社会の中で、行政の示す曖昧なガイドラインの破線のすきまを埋めながら、わたしたちは事業単位の匙加減、つまり現場判断によって自己責任的に集まり、恐る恐る仕事にとりかかる。仕事をしなければ生活ができない、あるいは仕事とは生きることでもありうるからだ。

曖昧で不完全な線引きによって、現場は絶えず混乱している。たとえば日本では濃厚接触者を経済的に支援する公的な制度は存在しない。暴論だが、無症状感染で仕事を休んで手当をもらうのが一番得するとさえ思えてしまう。濃厚接触者の定義は「15分以上マスクせず会話する」などが設定されているが、実質自己申告的であり、名乗り出たら損するのが実際である。どれだけ感染対策を講じようが罹患者の周辺人物はそれだけで不利益を被る。これはパラドックスだ。

罹患者の周辺にいる人物とは、すなわち親やきょうだいなどの同居人、身体的な介助や精神的な支えとなって当事者を「ケアしている存在」であることが多い。ケアラーがケアを提供しなければ「要ケア者」が健康や文化的生活を損なうにもかかわらず、ケアラーに降りかかる厄災は外部から見えづらく、救済するシステムも多くない。やさしきケアラーがケアのやさしさを受けられない矛盾が起こるのだ。こうしたケアラーが抱える構造的なパラドックスは、パンデミックによって今まで以上に浮き彫りになったといわれている。

▷ケアレス・チェーン

ケアにまつわるパラドックスは、資本主義や権威主義という社会契約と密接に結びついている。例えば医療や福祉を受けるにはお金や時間などの資本が要る。つまり持たざる者は十分なケアを受けられない。そして、持たざる者が従事する仕事の多くは「持てる者」へのサービスであり、広義でのケアを提供する側であるといえる。皮肉な構造だ。

持てる者の暮らしは、持たざる者たちによるサービスで成り立っている。持てる者は、サービス提供者を失うと暮らしが後退してしまう。しかし持てる者は、持てるが故にサービス提供者を"すげ替える"ことができ、その一方でサービス提供者は、乗り換えされることを恐れ、持てる者に従わざるを得なくなる。それどころか、競争に勝つためであれば自分や自分より地位の低い誰かの労働力を酷使してまで「安く・早く・良質な」サービスの実現化を地の底まで追求してしまう。平日昼のバラエティ番組で「激安!高見えコーディネート対決!」なるコーナーで興奮するタレントなどを見ると目を覆いたくなる。さらに、仮に提供者たちが力尽きていき供給が減る事態になった場合、当該のサービスは価値が高騰するが、そのサービスはより持てる者のみの手に渡り、持たざる者への供給は一層遠ざかってしまう。

持てる者と提供者の間には権力関係が生じている。持てる者は、自らの資本が資本主義という平等なルールのもと築いたものであると信じているためこの権力を必然視する。ところがサービス提供者も、あまつさえ資本家に憧れ、敬い、この権力関係を信奉する者さえいる。このような資本主義に根付いた歪な構造は、わたしたちの間にある格差を、後戻りできないところまで引きずってきた。

こうした負の連鎖(ケアレス・チェーン)は、国境を越え、安くて良質なサービス提供を追求するベルトコンベアに組み込まれた持たざる者たちの搾取へとつながり、国際的な問題に発展し不買運動などの形で炎上する展開が後を絶たない。世界的に成功している大きな企業で、こうした搾取や人権問題とまったくの無縁でいるということはまずあり得ないだろう。しかし不買運動は、企業の力を弱め、皮肉なことに労働の場を奪ってしまう面も合わせ持つ。八方塞がりだ。

話は飛躍するが、近年勃興する働くAIやロボットの開発・実用化も、ある意味では持たざる者への迫害といえる。現在従事している労働者に、適切な異動や技術向上のための教育を怠ってはならない。ケアの本質とはその点にある。ケアとは、ある一人の他者を敬い、いたわり、扶け、対話し、畏れ、その者を脅かす存在を退けることである。つまり労働者の働く環境がなくなってしまう可能性がある場合、仕事がなくならないように調整しなければならない。北極の氷が溶けて住処を失うシロクマに対し、地球温暖化を防ごうとするのと同じように。

一人の他者(=ミクロ)をケアするためであれば、ある社会の構造(=マクロ)に働きかけなければならないことは、むしろほとんどのケアの現場において必然のことである。こうした発想は、後述する反権力的なスタンスへとつながっていく。

▷ミクロとマクロ

ケアとは、単に概念・観念・精神のみのことを指すのではなく、実際はもっと身体的な、実践の中にあるものだ。例えば介護ひとつをとっても、要ケア者が求めるケアの形や量は人それぞれに異なる。子育ても同様である。そしてまた、恋人やきょうだい、生徒や部下など、さまざまなシーンに登場する他者と接する諸ケースにおいて、わたしたちはつねにケアの必要性に出会い続けており、その点からケアとは流動的で暫定的な実践であるといえる。ケアには恒久的で普遍的な正解は存在しない。つまりケアとは、ケアの現場ごとに必要とされるケアが変化する、緻密でミクロな実践なのだ。

わたしたちの体調やメンタルは日々変化する。ケアラーは、要ケア者と常にコミュニケーションをとりながら必要なケアの形や量を相互作用で"見つけて"いく。昨日は痛まなかったある部位が今日になると痛いことなどはよくある。それなのに昨日と同じ方法でケアされてしまっては痛みは取り除かれず、むしろ悪化する場合さえある。第一言語が共通しているケアラーと要ケア者であれば意思疎通はしやすいが、そうでない場合(身体的・脳神経的ハンディキャップがある等)には円滑なコミュニケーションは簡単ではなくなる。ミクロな視点を持って、つまり個人と個人の間や小さなコミュニティにおいて適宜最適化された方法でケアは実行されるべきだ。そこには緊密で繊細な「対話」が必要不可欠だ。

しかしケアとはミクロな存在であると同時にマクロな課題を抱えている。そもそもわたしたちは私という「個」でありつつ、同時に社会という「公」と接続し続けており、その境界は曖昧だ。わたしを私たらしめているのは社会でもあり、社会とは私の集合によってのみ成り立つ。個と公は相互関係にある。

たとえばバリアフリー化されていない最寄駅を利用しなければならない車椅子使用者をケアする場合、長期的な視点で、駅のバリアフリー化を訴求していく必要がある。しかし駅員に直接(ミクロなレベルで)相談しても解決までの道は遠い。地域のコミュニティを通して多くの人を巻き込み、自治体や鉄道会社などにアプローチしていくことになるだろう。場合によっては署名活動をしたり、意見交換会を開くなど、多くの人が困っている、あるいは構造的な課題であるという現実が存在していることを周知し、マクロの課題として理解してもらった方が解決が近づくことは想像に易い。しかしこの、要ケア者がケアを受けるために更なる努力を課されること自体もまた、マクロな課題なのである。

わたしたちはこうした訴求を、「みんな困っているので」と自粛あるいは無力化したりしてしまう。ある程度の問題はミクロのレベルでそれぞれ解決できるはずだ、という道徳的な直感によるものである。確かに、各人の努力や工夫は奨励されて然るべきかもしれない。しかし、この直感によって見過ごされるマクロの課題があってはならない。つまり、要ケア者やそのケアラーが訴求してきた課題解決を、ミクロな問題なのかマクロな課題なのかを、わたしたちはもっと論理的に検討する力をつけなくてはならない。

さらにいうと、わたしがここから展開していきたいのは、ミクロで解決可能な問題というのは、実はほとんどの場合、マクロの課題の解決こそが先んじて叶えられるべきなのではないかという考えだ。

▷ヤングケアラー

たとえば、親やきょうだいなどの同居人を幼い頃からケアするヤングケアラーなど、ケアの提供から逃れられないケアラーも多く存在する。

ヤングケアラーは、ケアのある暮らしを正常視しており、大人が持てるような情報収集手段を持てず、誰かの助けが必要だという想像にすら至らないケースが多いそうだ。また、学校に通ったりアルバイトをしながら、家で過ごす時間のほとんどはケアに捧げるという生活になりがちだ。副次的に、宿題をする時間や、友達とのコミュニケーションが減っていき、置き去りにされ、学校や地域との接続も切断されていく

もっとも痛ましいのは、日本の減点法の教育システムが、ヤングケアラーの心を蝕んでしまうという点だ。要ケア者の一部は進行的に「できることが減って」いく。しかし学校では「できることが増える」ことが善とされ、評価される。ヤングケアラーたちは、ケアを与えている存在に価値がないわけではないことを肌で感じながら、宿題やテストを周囲と同等にこなせなくなっていき評価が下がっていく自分に矛盾を感じ、やがて生きる意味を見失ってしまうのだそうだ。

このような状況にいるケアラーに対し、自分で誰かに助けを求めないのが悪い、とあなたは言い放てるだろうか。わたしは、このようなケアラーを救うことは、マクロのレベルで、社会のシステムの変革によってでしか成し得ないと断言したい。

▷逃れられぬケア

しかし、ヤングケアラーだけでなく、実はわたしたちはほとんど、差し迫るケアニーズへの応答必要性から逃れられないのではないだろうか。育児や介護をはじめとした、身体的または精神的に不安定な要ケア者をケアするうちの、「わたしがケアしなければ」と一時でも自覚する全ての瞬間において、わたしたちはそのケアから逃れることはできない。手を離したら崖から落ちてしまう誰かを、そうと知りながらわたしたちは手を離せない。

しかし、わたしたちはその掴んだ手を掴み続けることを「選んで」いるとも言えてしまう。手を離してしまってもあなたに罪はないはずなのに、道徳的または倫理的に、あるいはもっと本能的にその手を掴み続けている。もしくは、手を離すことの罪悪感があなたを絡め取っているのであれば、そこから解き放たれるべく一緒に崖底へ落ちることもできるだろう。何を選んでも良い。それはあなたの自由意志によるものだから。

わたしたちには元来、両極端の自由(殺す自由と死ぬ自由)があるといえる。しかしこのような解釈での自由は、再びあなたをミクロな世界へと押し込め、自己責任論によって「公」から切断し始める。わたしたちは基本的には自死や殺害という極端な選択を好まないはずだ。そうなると、やはり手を掴み続ける以外に方法はなく、程度はさまざまであれケアから逃れることはできないだろう。そうしたケアラーたちは、自己責任的に他人の手を借りられず孤立化しているのではないだろうか。自己責任型社会の深淵は、ケアから逃れられないケアラーの足元に影を落としている。

崖際のケアラーたちが救われるためには、当事者たちだけの自力の改革では限度がある。「気づいた者が当事者だ」という言葉が示すように、また「障害者でなく障がい者」と呼び方が変化することのように、わたしたちはひとりひとりが社会を変える小さな力を持っている。実際にデモや活動などに行動を移せなくても、社会は人々の連続の中にあるものであり、小さな意識の変化は誰かの意識を変える。それはやがてマクロでの変化をもたらす。

日本においてもっともマクロの課題解決にアプローチできる存在は、いわずもがな法律を変える力を持つ国会だ。国会とは国会議員であり、舵を取るのは衆議院議員であり、また与党である。政権を誰に握らせるかを選べるのはわたしたち国民だ。この国に国民主権の概念がなんとか生きているうちに、わたしたちは「わたしたちのための政治」を求め、連帯し訴求していかなくてはならない。わたしたちが目指すべき社会像は、ケアに満ちた社会である。みんなを救う政治などあり得ないと思うかもしれない。しかし考え直してほしい。時間がかかるだけで、長い時間をかけて実現できるかもしれないという可能性について。

▷ケアに満ちた社会

まずわたしたちは、生まれながらにしてケアを要し、死に至るにおいてもケアを要する、つまり一生をかけて他者に依存して生きる生物であるという根本から認めなければならない。この理解は、ケアなき社会に苦しむ全ての人の解放を助ける。いわんやこの発想は、現在のグローバルな社会を覆う新自由主義・資本主義の考え方と逆行する。ところが、ここまでで述べてきた「ケアの必要性・ケアへの応答不可避性」に思いを馳せれば、新自由主義や資本主義の過ちに気づくことができるだろう。

ケアを中心に回りだす社会は、環境や労働の持続可能性を最大化し、資本の分配で格差を是正し、人種やセクシャリティーにまつわる差別を根絶し、身体的ハンディキャップやニューロンダイバーシティーへの理解と支援を進め、戦争や兵器の一切を破棄し、わたしたちの人間らしい生き方を保障するだろう。

以降では、ケアがどのように資本主義や新自由主義、ひいては男性中心主義、権威主義や武力主義への対抗力になりうるか、さらに差別の根絶や究極のバリアフリーを実現しうるか、その、長くはあるがシンプルな道筋を描写していく。

2 対話主義がもたらすケア

今日のわたしに必要なケアと昨日のわたしが必要だったケアは異なる。ケアは漸次変化し、一般化または普遍化できない現場的な存在であることは先述の通りだ。つまり、つねに対話を怠らない姿勢でいなければ、わたしたちは他者に十分なケアを与えることはできない。そこからわたしは、現在の資本主義・個人主義に変わる対話主義の必要性を提唱する。

そもそもわたしたちは皆、異なることばで会話している。仮に同じ第一言語を話す者同士であれ、隣町の学校の流行語を知らないことと同様に、地域やコミュニティによって流通する共通言語にはズレがある。人は嘘をつけるし本音を隠すこともできる。それに、まだ出会っていない単語を知らなければ伝えられない概念や感情が、心の中にはたくさん存在する。相手の頭の中を覗き見でもできぬかぎり、真の意味で十分に会話を全うすることは不可能だ。

わたしたちはスタートラインとして、完全な会話が不可能であるという共通認識を持たなければならない。その上で、それでも相手を知るため、同時にわたしを伝えるため、可能な限りの手段を持ってコミュニケーションを図る。これがわたしのいう「対話」の条件であり様相である。そして、こうした対話は、ケアにおいて不可欠であり、また、徹底した対話主義とその連動は、必然的にケアに満ちた社会の形成につながるだろう。

▷アイデンティティとポジショナリティ

まず対話の下地として、人が纏うペルソナをアイデンティとポジショナリティに分ける方法を見ていきたい。

わたしがわたし自身を説明するための方法には大きく分けて二通りある。単体で存するわたしという「個」の説明と、社会に生きるわたしという「公」との関係性を用いての説明だ。前者はわたしのアイデンティティに関する説明であり、後者がポジショナリティへの言及である。

例えばわたしはピーマンが嫌いだという説明は、アイデンティティの説明である。これは絶対的で不変の、しかし本人にしか真偽の分からない、他者にとって不可侵な領域の開示だ。一方ポジショナリティが明らかにするのは、教師をしている、であるとか、日本で生きている、などの社会とのつながり、つまりポジションによって浮かび上がるわたしの性質のことである。

警察官と思しき人物Aが、商店街でひったくりを目撃したとする。Aがひったくりを追いかけるべきといえるのは、警察官には治安を守るという役目が社会的に負わされているからである。これはポジショナリティによって説明されるAの性質であり、Aのアイデンティティへの言及ではない。しかし、ひったくり犯がAの知人で、知人が経済的に困窮していることを知っていて、それゆえに追いかけなかったとする。Aは日頃から、経済困窮者を支援するボランティア活動をしていたらしい。Aが追いかけなかったのはAのアイデンティティによる倫理的な判断であり、ポジショナリティによって迫られる道徳的な責任は無視している。

ここで議論されるべきなのは、Aが犯人を追わなかったことについて、ポジショナリティによって付加される責任を放棄したことは問題視する一方で、警察でありながら困窮者をたすけようとしたAの矛盾したアイデンティティへの攻撃は不要だということである。

SNSで炎上する多くのケースは、こういった、社会的なイメージとそこから逸脱した人間像とのギャップに対して起きるアレルギー反応であるといえる。だが本来、イメージはわたしたち「見る側」の中で立ち上がるものであって、当事者のみに責任があるわけではないはずだ。

▷切り分けて対話する

先述のように、アイデンティティとポジショナリティを切り分けて対話することはさまざまな場面において非常に重要だ。普段の会話でも、会社の会議でも、あるいは公の場での答弁、バラエティ番組、また国際的な議論においても不可欠である。この手法は自らのアイデンティティの崩壊を防ぐためだけでなく、相手のアイデンティティをいたずらに損傷しないためにも必要だ。そして最も重宝するのは、立場や環境の異なる者同時が対話する場面である。

部長が部下の相談を受けるとき、例えば職場で嫌がらせを受けているなどの報告などで部長に相談があったとき、部長の言葉には「本人の意思」とは別に「部長としての見解」が混在する。「小さいことは気にするな」と言った場合、部長本人は一人の人間として、つまりアイデンティティによる言葉としてアドバイスを送ったつもりでいたとする。しかし部長は会社の中でその部下より上位にいるため、「気にするな」という業務命令としても発話され、またその背景に、「波風立てるな」というサブテキストを読ませる力さえ持ってしまう。これは部長というポジションによって付随するポジショナリティの問題だ。部長は、自身に権力があることを自覚し、自らの言葉がポジショナリティ的にどういう意味を持つのか考えて発言する必要がある。

話の規模を大きくしてみよう。日本は現在、多くの国際的な課題を未解決のまま抱えている。領土問題やそこに絡みつく歴史の認識にまつわる議論は特に混迷を極めている。日本軍が過去に犯したいくつもの歴史的な罪もある。攻撃や侵略を受けたという傷もある。わたしたちはこれらの罪や傷を分有している。これはわたしたちが日本人というポジショナリティによって私に付加される属性である。わたしたちは、良くも悪くも、このポジショナリティから逃れることはできない。どれだけ自分は戦争や国際情勢と無縁だと思っていても他者(=諸外国)から見れば日本人は皆同じ日本人なのだから。

だからと言って、日本軍の罪を全て背負わなければいけないというわけではないはずだ。ここから、アイデンティティとポジショナリティを切り分けて考える対話を実践していきたい。わたしたちは、国際的な対話の場において、今を生きるわたしたちが犯す罪と、過去に先祖が犯した罪を、切り分けて、代弁者として引き受け、建設的に対話していかなければならない。つまり今を生きるわたしたちのアイデンティティを守るために過去を正当化したりする必要はなく、また同時に、過去に受けた傷で今の他国の人々を責める必要はない。ただし歴史の正誤については、アイデンティティやポジショナリティをかけて話し合ってはならず、互いに第三者的な目線で確認することが理想の対話だ。

人は本来、危険を感じなければ、わざわざ自分から他者を攻撃したりしないはずだ。どんなに破壊的な行動も、その根本にあったはずの自分や近しい人々の平穏のためのアクションの連鎖の成り行きによって生じてしまう。負の連鎖を止められず、現代まで連綿と引きずってきた怨恨が歴史にはある。報復は次なる報復を生む、これは何度も歴史が証明してきた。平和のために残された道は、対話の他には残っていないのではないだろうか。

▷全員と対話する

わたしたちは対話を重ねる先に、平等で平和な世界を夢見ている必要がある。いわんや、対話の精神は、平等や平和と表裏一体になっているはずである。対話主義によって導かれる社会は、何かの決定において必ず全員の納得を必要とする。まだ全員が話していない(意見を表明する機会が用意されていない)状態ではいかなる決定も下されてはならない。そこにいる全員にマイクが回ってきて、発言するにせよしないにせよ、その権利が平等に行き渡っていないければならない。

これは非常に非効率的な方法である。しかし、ケアを必要としている要ケア者が「自ら名乗り出てケアを要求することのハードルが高い」という真実がある以上、わたしたちはケアを必要としている可能性がある他者に対してマイクを向け続けなければならない。さらに言うと、マイクを"向ける側"の人は特に、この点において極めてセンシティブでいなければならない。マイクを向ける権利を持つ人は、ケアを必要としている人を見過ごすこととが、間接的に要ケア者を抑圧し攻撃していることと同義になるという点に自覚的でいなければならない。この自覚とは、言い換えると自己の特権性の自覚のことである。そしてこの特権とはポジショナリティにおいて生じるものであり、アイデンティティに関わらず与えられてしまうものである。

わたしたちは生まれや育ちなどの、環境に起因するポジショナリティから脱することは難しい。同時に、それによって背負い得るポジショナリティによる特権性に気づくことはさらに難しい。だが、生まれながらにして誰かの足を踏んづけながら生きていることが、現に、グローバルで複雑化した今の社会では、むしろ当たり前に起こっているのだ。わたしたちは過去のさまざまな国際的な相互関係によって享受した利便性や、譲ってきた不利益から逃れることはできない。

人は生まれながらにして死ぬまで他者に依存する生物だ。それは単に家族や地域などの小さなコミュニティに限らず、現実問題として、わたしたちがファストファッションやファストフードのサプライチェーンを享受して生活を送る以上、地球の裏側の名も知れぬ誰かの労働や搾取に支えられて生きているのだ。つまり、わたしが生きるということは、地球の裏側で生きる誰かとの対話をも怠ってはならないということであり、その誰かに対してマイクを向け続ける姿勢を貫かなければならないのだ。

わたしがわたしの特権性に気付いた時、つまりわたしが見知らぬ誰かの抑圧を必然視して生活を享受していることを自覚した時、わたしのアイデンティティは揺らぎ、さまざまな自責に駆られるかもしれない。しかし、重要なのは、これがポジショナリティへの揺さぶりであるということに気づくことと、わたしたちがこうしたジレンマを取り扱い、わたしを含む、サプライチェーン上の全ての人々を救う方法を探すための対話を始めるという壮大な回転を起こすべく奮起することである。その過程で、人権運動や不買運動などが必要になるかもしれないが、それが全てではないし、そうした行動に移れないからといって特権性から目を背けているわけではない。重ねていうが、大切なのは対話する姿勢を貫くことである。いざ自分にマイクが回ってきた時に、抑圧を再生産しないよう準備しておくことは一つのケアの姿である。そして、ケアレス・チェーンを断ち切るための、小さくとも着実な一太刀だ。

ただし、対話主義は性善説的な人間観に立脚している面があることは否定できない。迫り来る危機を前に、わたしたちはどうすることもできず、力に屈してきたという過去の繰り返しを知っている。対話不可能な他者に面したとき、わたしたちは対話以外の方法に切り替えて事態を収集しようとする。しかし、対話不可能であることを真に確認できるまで、対話の姿勢は貫くべきである。真に対話不可能な他者と出くわすまで、対話可能な他者を増やすことが重要だ。対話主義には、対話によって保たれる秩序が大きければ大きいほど強固な民主制を築けるという側面がある一方で、対話主義を重んじない他者に対してはなんの力も持てないというみすぼらしい弱点がある。しかし、だからこそ対話可能な他者を増やすことを目指さねばならない。さらに言えば、77億人の人間すべてと対話する「覚悟」が必要なのである。

▷他者をあきらめない

対話主義は、対話可能な他者を増やす必要があるという"量的な課題"も抱えるが、同時に、他者の底なき深さを知るという"質的な課題"も持っている。質も量も要求するため、効率主義に逆行する。よって特に建設的な話し合いの場では嫌厭されがちな考え方である。しかし、長い目で見ると、じつは入念な対話こそ、本来であれば最も建設的で健全な人間社会のあり方を作ることは言うまでもない。

対話主義は、「よそはよそ・うちはうち」という考え方を否定する。なぜというに、質的かつ量的に十分な対話を積み重ねることは、すなわち自分や他者のアイデンティティとポジショナリティの両方について深く知り、またそれらの曖昧で不可分な境界線を可視化し、了承することだからだ。つまり他人事を自分事にするという考え方を要する。それは当事者意識の芽生えと訳せるだろう。人は皆アイデンティティとポジショナリティを持ち、それらが時に矛盾を起こしながら並走している。人が内面に自己と社会との矛盾を抱えていることは、誰もが認められるべきであり、その相互認知は、そうした矛盾の解消への布石となり、また結果的にわたしたちの間に対等な対話関係を結ぶことにつながる。他者の内面の矛盾に向き合うということは、あまりにも深すぎる、その人の人生の、もつれて絡まった繊維を"共に"解く方法を考えることである。

また対話の姿勢とは、"関係性の変化を許容するという姿勢"とも言い換えられる。自分がボールを投げてみたとき、相手が何を投げ返してくるかは、その何かが返ってくるまでわからない。それでもボールを投げるということ、その実践こそが、対話の精神なのである。

効率をあきらめ、人が内面で矛盾と戦っていることを認め、他者の内面のもつれを見つめ、どんな返答が返ってくるか分からずとも働きかけ続けることが、真の対話主義の実践である。つまり、他者に対しあきらめないという姿勢である。これは到底、人が社会生活を送りながら片手間にこなせるようなメソッドではない。しかし、前述のケアから逃れられないケアラーは、事実このような現実と向き合いながら生きていかざるを得ないと言える。

▷社会を育てる責任の分有

全ての人が、77億人すべての人と対話できる心構えをすることは無謀に思えるかもしれない。さらに、人は絶えず変化する生き物であり、常に対話可能でい続けなければならないことは一層これを机上の空論に押しとどめる。しかし、あなたはこの不可能性に対峙するとき、その責任を一人で負う必要はないのである。わたしたちはこの人類総当たり的な対話の不可能性を、人類が皆等しく「分有」しているのであり、対話が不可能なのはあなたのせいではない。

しかし、かといって真の対話主義中心の世界というのは決して努力目標のような精神論で終わるものでもない。ここから導き出されるのは、そもそも人は「成長し続ける生物だ」というたった一つの真理である。人が成長し続けるということは、つまり社会が成長し続けることであり、わたしたちは社会の成長を促す一員であることを理解する必要がある。そして、その成長をサポートする、つまり社会をケアする責任を、わたしたちは全人類で分有しているのだ。

育てるということは、あらゆるシーンにおいて至極途方もない実践である。それは、分からないものと対峙し続けるという対話の根幹と向き合わざるを得ない行為だからだ。わたしたちは、わたしたちが現在抱えているさまざまな複雑すぎる問題から目を背けてはならず、総当たり的な対話を通して人類全体で対処していかなければならない。

問題なのは、われわれには時間や資源が限られており、総当たり的な対話をすることが実質不可能と思われていることだ。対話を実現するには当然自分と相手が対話の精神を分かち合っている状態が必須であり、こちらがいかにボールを投げても投げ返されなければ対話にならない。これはケアにまつわるパラドックスと相似しており、やはりこの矛盾の解決にはマクロへのアプローチが不可欠である。

しかし、総当たり的な対話を不可能にしているのは、われわれが「効率的に」なにかを成し遂げなければならないというイドラ(複合的要因による思い込み)である。対話主義による社会を実現するには、このイドラをかき消さなければならない。それはつまり、対話を嫌厭し効率を優先する行為や精神、さらには効率主義によって成り立っている社会を衰退させることである。

わたしたちはなぜ、あまりに非効率的すぎるものに対して不可能だと断定してしまうのだろう。その思考回路の形成には、資本主義に則った社会のシステムや教育システムが大きく関与していると私は考える。

▷資本主義と自己責任論

先にあげたヤングケアラーの例で、「できなくなっていく」人の価値について言及したことを思い出したい。だが人は「できること」だけでその価値が決まるわけではないし、そのことは誰もがよくわかっているはずだ。人は「よい人生」をどのように定義しようとしているのか。「長く生きる」だろうか。「健康に生きる」だろうか。あるいは「豊かに生きる」だろうか。実際、よい人生にはその全てが備わっている必要があり、また同時に、かえってどれもどれかが備わっていさえすればいいという場合もある。

しかしこれは決して単に矛盾しているというわけではない。人は「人生」という比較的長いスパンのものを測ろうとするとき、無意識でその尺度を切り替えて測定しているのだ。病気で若くして亡くなった人がいたとする。しかしその患者は、「いい人生だった」と言い、また周囲も同様に感じていたとする。この場合、「長さ」での測定をあきらめ、「豊かさ」の視点を用いている可能性が高い。では、貧しい生まれで、財運に恵まれず亡くなった人がいたとする。その場合、「豊かさ」ではなく「健康」や「長さ」で人生の良さを語れるかもしれない。そのどれもが肯定的なポジショニングであり、一つの価値基準に固執せずに人生を語ることができている。これは別に悪いことではない。

ではそもそも、「長さ」や「健康」とはなんなのだろう。人は大なり小なり病を抱えながら生きるし、いつかは死ぬ存在であり、どれだけ長く生きても100年程度の命だ。長さや健康は相対的にしか語ることができず、「一般的な人の一生」と比べて劣ったり優ったりする点で人生の価値を測ろうとする。しかしこの「一般的な人」というのは、あくまで統計学的な存在であり、理論上にしか存在しない生き物だ。こうした方法で人生の質を測ろうとする世界観を、統計学的人間観と呼ぶ。

一方、他者と比べるまでもなく個人の中で自分の価値が定まっている場合もある。「自分らしく」生きることがつつがなく実践でき、かつ充足しており、統計的な価値基準とは一線を画した領域で歩む人生だ。こうした見方を個人主義的人間観と呼ぶ。

上記のような、統計学的人間観と個人主義的人間観という二つの尺度を、わたしたちは無意識で切り替えながら人生の価値を見定めようとする。しかし、これらの世界観では、他者との関わりにおいて漸次変化する人間の姿を真に評価することが難しいことを想像してほしい。統計学的に割り出された「平均人」との偏差から見る人間の価値は、ご想像の通りハンディキャップを抱えた人の価値を見出すことが難しい。「できない」がマイナスになる世界観だからである。個人主義的に突き通す自己の価値は、確かに確固たる強さを見出せるが、その人のありのままの姿で社会に参画した時に、絶対に摩擦が起こらないとは言い切れない。かつ、今までに挙げたいくつものパラドックスの例に倣って、いかに自己の中で完結した「善いらしさ」であれ、社会から認められない「らしさ」は排除されてしまう

人が社会と繋がりを持ちながら暮らし、他者との関わりを受け入れながら生きるという世界観は、関係論的人間観という言葉で説明できる。前述の通り、真の対話とはどんなボールが投げ返されるかわからなくてもボールを投げるという実践のことである。平均的なボールを投げれば均一化された返答が返ってくるわけでもないし、自分らしさを押し通して時速200kmのボールを投げればいいわけでもない。相手との距離や関係性を常に意識しながら、思いやりを持ってボールを投げるというコミュニケーションが不可欠なのである。このことから、真の人間の価値とは、この「変化し続ける人間関係と向き合いながら生きる」という観点から測るのが、最も正しい人生を測る尺度なのではないだろうか。わたしたちは数字として生きているのでもなければ、個々が単に個々として生きているわけでもない。わたしたちは社会に「共在」して、初めてわたしたちを生かすことができるはずだ。

だがそもそも、人が人を測るということ自体が間違っているのであって、こうした人間の価値測定の哲学は暴走すると優生思想に傾く危険がある。そして、行きすぎた資本主義は、常に人間の五体を可算的な価値へと変換し、統計学的な世界観へ引きずり込もうと迫ってくる。優生思想と資本主義は表裏一体だ。また現在は全体主義や資本主義への傾倒と独走に対するブレーキとして個人主義の正しさが広く信じられている。個人主義は確かに、全体主義的なイデオロギーによる支配からの逃走を助けるが、「よそはよそ・うちはうち」の発想は、ともすれば水面化で進む全体主義化に対し見て見ぬふりを決め込むための口実にもなる。これまで上げてきたパラドックスへの対抗策として、わたしたちは、わたしたちがいかに個人主義信仰と個人主義強要によって連帯不可能性に脅かされているか、他でもない個人主義推進派にこの危険性を理解させなければならない。個人主義は自己責任論に支えられて立脚している。この自己責任論こそが、ケアラーや要ケア者を孤立に追いやる敵なのである。

資本主義にせよ自己責任論にせよ、その主義主張に誤りはない。しかし、他者への強制力を強く持ちすぎる点は注視しなければならない。なぜなら、資本主義や自己責任論によって作られた社会のシステムからあぶれた持たざる者の孤立は、資本がない故に社会に参加できず、自己責任を強要されるが故にケアを要求できないから発生するからである。さらに、行きすぎた資本主義信仰は優生思想へと接続しやすい面があり、すなわち差別主義者を擁護する力をも持ってしまう。わたしたちは、自己責任論を振りかざしてケアの要求を妨げる、わたしたち自身の内面にいる敵や他者との間にある敵を退けなければならない。そのためには、ケアを中心とした連帯と、敵を退けるべく戦うための鎧や武器を知り、学ばなければならない。

3 ケアが導く反差別主義

ジェンダーや職業、国籍や出身、身体的特徴や脳神経的特徴を持つ要ケア者といった、ポジショナリティにより対等な扱いを受けられずに生きづらさを抱える人が、世界中に数えきれないほど存在する。差別についてはここでは詳述しないが、「アンチ・ケア中心主義者」は、差別という負の実践の形で姿で表すという点について言及したい。つまり、ケア中心主義を批判する精神には、多かれ少なかれ差別主義が潜んでいるという指摘である。

なぜなら、ケア中心主義とは、その根底に他者を理解する精神と大きな連帯を呼びかける性格が据えられており、これを批判するということはそのまま、他者を理解することを拒み、連帯を解体させることを首謀しているということだからである。ケア中心主義は当然、こうした首謀者を退けることを課題解決の道程に含まざるを得ないため、反差別主義的な態度をとっていく必要性に駆られる。親が、いじめにあった子供に無条件で味方をし、いじめの加害者を批判するという構造と同じである。

要ケア者にケアを与え、かつケアラーの暮らしや尊厳も守るということは、結果として差別をはじめとする構造的な問題に立ち向かうことにつながり、そこで初めて具体的なアプローチの方法へと近づくことができるのである。

▷バックラッシュへの対抗

ここで定義する差別主義者とは、差別を擁護あるいは容認する全ての差別加担者のことを指す。差別主義者は基本的に「現状のままでいい」というバイアスに囚われて思考している。社会は変化していくものだという認識が、そもそも毛頭、ないのである。また、差別など存在しないと考えている。これらの点が、最も愚かな過ちであるということを初めに提言したい。

「差別が存在しない」などということは、誰も言うことはできない。そう口にした途端に、それはこの世のどこかにある差別を黙認し、助長し、そして加担している張本人に成り下がるということを、どうか誰もが知っていてほしい。また、「昔ほどはなくなった」という言説で、今ある差別を容認するようなポジショニングも、差別主義者による特権的な行為であることにも自覚的でいるべきだ。

差別主義者に対抗するとき、そのまさに降りかかる火の粉を打ち返すとき、その流れ弾が誰かに着弾し、その誰かによってこの「打ち返し」が非難されることがある。こうしたバックラッシュは、本来であれば火の粉が降らないようすべきところを「打ち返し」を批判するという点において本質を見誤っている。これは結果として差別を援護する行為であり、同様に差別主義者であるとみなせる。いじめにあった子供を救うべく加害者家族に抗議したところ、PTAからモンスターペアレント認定されてしまうのと同じような構造的問題だ。この場合PTAは子供をいじめから守るという本質を見誤り、反射的に抗議者である親を問題視することで、結果としていじめを容認・助長する形になっている。

ジェンダーにまつわる差別の問題も、多くのバックラッシュが議論を複雑化・停滞させる場面をよく見かける。反差別主義的な議論を始めようとしている誰かを見かけたとき、一次反応で反論するのではなく、自らの反論がバックラッシュとして差別に加担しないか注意してみてほしい。あるいは、バックラッシュと捉えられるような差別擁護的発言を見かけた時は、そこに簡単に追随しないよう注意してほしい。そして、自らの反差別的アクションに対してあきらかなバックラッシュを受けた時、決してそこで怯んではならない。味方は必ずいる。そして、可能であればその議論を調停してくれる第三者を巻き込んで、それが差別への加担であることを理解させ、このような無配慮をこの世からひとつ消すことに挑戦してほしい。その苦労は、ケアレス・チェーン(差別の再生産)を断つことに貢献するはずだ。

バックラッシュを無意識的にはたらいてしまうことの心理には、我慢の強要という通念が作用しているのではないかと私は考える。私も我慢しているのだから、あなたも我慢してという強要である。さらにひどい場合は、社会はそうやって成り立っているんだよ、と頓珍漢な教えを説いてくる者もいる。どちらも、統計学的人間観・個人主義的人間観に根ざした非人道的な哲学であり、人が他者との出会いの中で変化していくことや、成長し続ける社会を育てる責任を分有していることを見過ごし、ともすれば非難してさえもいる。これは大きな過ちだ。わたしたちは我慢を強要したりされたりしなくて済むような社会を、みんなで目指すべきである。

それはつまり、真に平等な社会を目指すということである。性別や年齢、国籍や出身、職業や貧富など、ポジショナリティによって生じる格差をなくし、対等に対話可能な社会を作らなくてはならない。これを妨げているのは、権威主義や資本主義によって固定化されたヒエラルキーのある社会構造、そしてこれらを信奉し助長する差別主義者たちである。

▷共通の敵は男性中心主義

バックラッシュの典型例として、フェミニズムに対して弱者男性論を通じた女性蔑視を展開するというシーンをよく見る。あるいは、フェミニズムよりもヒューマニズムを掲げるべきなどといった、「#BlackLivesMatter」に対して「#AllLivesMatter」を打ち出すことと同様な手法、つまり反差別運動を無力化しかねないほどの「支配的な用法での公平論」を振りかざすという手法で、フェミニズムに対するバックラッシュが起こりがちだ。フェミニズムへのバックラッシュとは、男児からの性的暴行を含むいじめを受けた生徒が、いじめをやめるよう加害者に訴え出たところ、教員が両成敗的に、あるいは「事なかれ主義」的に事態を収拾させるような「暴力性を孕んだ誤った公平主義」を振りかざすようなものである。しかもその教員が他でもない男性であるというような恐るべき構造であることは数えきれず存在する。

フェミニズムとは、女性が女性であるがゆえに被る不利益や攻撃に対する反撃の思想、転じて性別によって否応なしに運命を左右されることへの対抗手段としての旗印である。つまり、フェミニズムへのバックラッシュは性別の如何によって人が人権や身体などを侵害されることを容認・助長することになり、いうまでもなく性差別主義者として名乗りを上げる行為なのである。

フェミニズムが打倒しようとしているのは家父長制、つまり男性中心主義による社会の構造とその信奉者たちである。よって男性たち本人を攻撃している訳ではない(明らかで意図的な加害者・差別主義者である場合を除く)。これはポジショナリティとアイデンティティを切り分けた対話法が身についていれば気づくことのできる、明白な違いである。

男性中心主義によって苦しんでいるのは、実際問題、女性やセクシャルマイノリティに限らず、他でもない男性たち自身でもあると私は考える。前述の我慢の強要文化について、男性は男性であるが故に我慢を強要される場面に多く出会う。仕事でも肉体的な役割を負わされることが多いし、持久力や計算力、機械類や工具類の扱いに長けているのが男性的特徴であるとする言説も多く耳にする。

そして、もっとも顕著な例として、戦争になったら派兵されるのは成人男性であるという主張もよく聞こえ、この面をもって我慢強要論を用いてフェミニズムを批判するという、バックラッシュの王道が存在する。しかし、これほどまでに見事な倒錯はあるまい。戦争を奨励しているのはフェミニストではないし、むしろ戦争のようなまさに男性中心主義の権化ともいえるような産物をこの世から無くそうとする運動こそがフェミニズムであるということはもっと多くの男性が知るべき事実である

ケアに話の軌道を戻すと、私がここで提言したいのは、こうした倒錯に溺れる男性たちにも、専用のケアが必要だということである。男性中心主義がなくなり、真に平等な性差別のない社会が訪れるには、彼らが悔い改める必要がある。男性中心主義に染まった彼らが悔い改めるには、まず彼らを男性中心主義に染め上げた社会や先人たちの罪を明るみにしなければならず、ポジショナリティとアイデンティティを切り分けた対話法で対話を重ね、理解させ、彼らをその特権的地位から引き摺り下ろさなければならない。

▷真の平等

真の平等が実現した社会とは、一体どんなものなのだろうか。果たして、そんな世界は実現するのだろうか。

不平等とは、ふとした瞬間に発生するものでもある。国々は大小さまざまな領土を持ち、資源の量には差がある。資源の差とは国力や国民の暮らしの豊かさに直結する。国境を越えたすぐそこに大量の資源があるとき、どうにかしてその資源を手に入れたいと考えるのが普通である。そこで貿易が起こる。しかしそこには、持てる者と持たざる者という格差がすでに生じている。力で奪うことも想像するだろう。現にそうして、戦争の歴史は始まり、繰り返された。

真の平等が実現したら、あらゆる資源は無償で提供される。あるいは等しい価値のものと交換することになるだろう。この交換条件が、どこの誰が見ても公平な交換であることが担保される時、この関係は真に平等であるといえるだろう。地球上の資源を、全人類が分有するということが、真の平等の究極の目的地である。

また、家族や地域などにおいても、同様に、格差が起こらないような完全なシステムが構築される。病気やケガなどで不安がある家庭には無条件で公金による援助が与えられる。地域住民は互いに監視して、不平等を被っている人がいれば行政に報告し、掬い上げる。報告者もインセンティブとして自治体からの支援を受ける。潤沢な資金が、全ての国民にあまねく、要求に応じて支払われる。それでは働かなくなる人がいるかもしれない。しかしそれで何が悪い? 仕事とは生活のために不可欠なものではなく自己実現のためのステージに変わる。働きたい場所が見つからないのは、その人にあった環境に出会えていないからであり、その出会いを行政はサポートする。これが真に豊かな生活というものなのではないだろうか。そして、こうした暮らしを実現するのが政治の本来の仕事なのではないだろうか。

確かに、このような理想郷が、簡単にできるわけがない。しかし人間は数百年前には想像もできないかったようなネットワークシステムを構築し、グローバルに国境を横断し、医療や福祉は加速度的に進歩している。いつか実現したっておかしくはないと、私には思える。

4 ケアの濫用

ここまで、ケアの、ケアによってもたらされる平和的で向上的な面を主にあげてきた。しかしケアを中心とした思考の中にもすくいきれない存在がいることや、ケアとケアによる連帯がもつ力の暴力性についても言及する必要がある。

SDGsと銘打った、持続可能な発展目標を網羅した、国際的な指標リストがある。そこには、このnoteで取り上げてきたような諸問題に加え、地球環境や教育格差など、さらに細かく多岐にわたるマクロの課題が勢揃いしている。わたしは正直、SDGsの存在を知ったとき、この達成は不可能に思えた。それはつまり、このnoteであげた差別や格差にまつわる問題についても同様に達成不可能と感じているということになる。このnoteを読んでいる方も、わたしのこれまでの論述に対し、似た感触をお持ちのことと思う。

ケアを中心に考える世界観では、このようにさまざまな不平等や未解決の問題にどんどん手を伸ばし、重箱のすみをつつくような作法で、この世のどんなに小さなひずみさえも許さない厳格な姿勢を要求する。さらには、ケア中心主義者は同胞との結束を強め、結果としてアンチ・ケア中心主義者を「排除」していくことさえも厭わない姿勢を見せる。これはケア中心主義によって起こり得る最大の矛盾である。

他者と敵対する構造を排斥するはずのケアによる理論が、かえって他者を敵視し、追放しなければならないのはもどかしい矛盾だ。その危険性についても想像した上で、わたしたちはこの諸刃の剣を使いこなさなければならない。

▷数の暴力

ケアなき社会に辟易して立ち上がったケア中心主義者たちが最初に打倒する敵は自己責任論者や権威主義者、そして資本主義に陶酔した信奉者とその取り巻き、特筆するまでもない差別主義者たちである。敵達は数の力をもって、その権威性を保持し、かつ誇示している。数の力に対して有効なのは、同様に数の力である。たとえば間接民主制において選挙で敵を退けることは、言い換えれば数の力の行使である。

わたしたちは民主主義という名のもと、敵とみなす誰かを数の力で追放する力を持っている。これは歴とした数の暴力だ。わたしたちはこの数の暴力を、誤ることなく使いこなさなければならない。大きな連帯は大きな変化を生む。同時に、小さな過ちは大きな過ちに変わる。わたしたちは自らが関与する連帯に対し、ひとりひとりが未来で起こりかねないさまざまなメリットとデメリットを想像しておかなければならない。

そして、数の力は、多くの「流される民」を生むことにも注意したい。いかに連帯がかがけるイデオロギーが正しく、平和と平等に向かうための反旗だったとしても、その構成員たるひとりひとりが反知性的なまま帯同してしまっては本末転倒なのである。なぜなら、そうなってしまえば真の対話による社会は実現せず、単に指導者の首をすげ替えるだけの革命に終わってしまう。そうした歴史は何度も繰り返されてきた。

中身の伴わない連帯は、かえって危険な、さらなる報復を生み出しかねない。わたしたちが掲げるケア中心主義について、理解し、実践できる真のケアラーたちによって運営される社会以外は追及してはならない。かりそめの反権力では、いたずらなバックラッシュを生むだけに終わってしまう。

▷教育や政治の被害者

わたしたちが敵とみなす差別主義者たちの中には、本人が意図せず差別主義に飲み込まれてしまった教育や政治の被害者も含まれている。万引きで暮らしを支える家族があったとして、その子供が万引きに手を染めたとき、あなたは子供を罰することができるだろうか。

差別主義がミクロの課題によってなくならないのであれば、本当の問題は構造にあるのであって、差別主義者はその被害者とも言えはしまいか。これまでの論考において、アイデンティティとポジショナリティを切り分ける対話法を提言したが、その話法をもってしても、結局はそのポジションに"安住せざるを得なかった"その背景や社会実情にまで目を向けると、議論は一旦並行してしまう。

ケア中心主義の徹底による断罪は、そうした被害者を追放し、孤立化させ、新たな差別を生んでしまう危険性を孕んでいる。憎むべきは「構造」であり、わたしたちの間にある「壁」であり、全ての他者はわたしと同様に平和を望んで苦しんでいることを忘れてはならない。そうした社会の副産物的な被害者たちをも、わたしたちはケアによる実践を通して、二次的にケアしていかなくてはならない運命なのだ。

▷ケアの暴走と優生思想

先述の通り、ケアを貶める差別主義者たちを断罪することは新たな差別である。自分と異なるイデオロギーを持つ他者を排除してよいとする免罪符にもなりうる。つまり、ケアによる対話主義の原則であったはずの、他者をあきらめないというステートメントに反して対話の可能性を自ら閉ざしてしまう。さらにいうと、優生思想を否定していたはずのケア中心主義者が、気づけば「ケアこそが正義」という悪しき一元主義に陥り、「ケアを中心に考えられない者」を貶め、劣ったものとみなすだろう。そして次にやってくるのは、人間の脳に、他者へのおもいやりを強制的に発生させるチップを埋め込もうといった過激なケア強要主義者たちであり、その姿はまさに優生思想に堕ちた危険思想の信奉者である。

対話主義という考え方は、そうならないためにも重要である。多様な考え方を持ち、関わり合い変化し続けるわたしたちは、いつまで経っても「答え」にたどり着くことはできない。つまり、全人類が真に平等で平和な社会をめざしつつも、反面で、強制的に理想的な社会を建築してしまうことは自らの対話主義に反するのである。対話こそが唯一の平和への道であることを信じながら、唯一の方法など存在しないことを知っているのが真の対話主義を遵守する者の姿である。

わたしたちはこの難儀で孤独な道を、生まれてから死ぬまで歩まなければならない。なぜなら人は互いに依存し合う生物だからであり、それはつまり77億人分の孤独や自分との闘いについても平等に背負い合っているからである。

▷過度なケア

過度なケアも問題である。わたしは、人間には他者を「ケアしたい」という欲求があると考えている。食べたいという欲求が満たされないとお腹が空くことと同じように、ケアしたいという欲求が満たされないと自らもケアを受けていないような錯覚が起こるのではないだろうか。

他者を育てたり助けたりすることは、じつは人間にとって強い養分なのではないだろうか。権威主義者は、権威を振るうための口実として育ててやっていると言いのける。実際、本人は本当にそのつもりでいるのかもしれず、それはケアしたいという過度な欲求が抑えられないことによって発生しているのではないだろうか。簡単に言えば「おせっかい」である。

過保護な親や、祖父母による孫への過干渉、そしてストーカーなども同型の過度なケアしたい欲を抑えられないパターンといえる。オーバーケアは、それがケアという土俵で行われるため拒んだり指摘したりするのは難しい。

しかし、本質的には、過度なケアは対話主義によって否定することができる。ケアとは、要ケア者とのたゆまぬ対話によって量も質も形も変化していくものであり、一方的に与えるものではない。ややこしいのは、オーバーケアに陥るケアラーが、本人は対話しているつもりでいる場合だ。

そういった問題行動にケアを用いて対処していくとすれば、そのオーバーなケアラーこそがケアを要していると考えるべきである。過度なケアを与える根源には、他者からのケアが足りていないという初歩的な問題があるかもしれない。あるいは、壊れた満腹中枢のように、ケアを受けてもそれを感知するセンサーが働いていない可能性がある。その場合は、専門的な治療が必要だろう。

5 戦争反対というケア

冒頭で述べた通り、わたしは戦争をなくし、世界を平和にすることが間接的にわたし自身や大切な人たちを生きやすくすると信じている。つまり、戦争をなくすことはわたしたちをケアすることであり、戦争をなくすための諸実践はケアの実践といえる。いわんや、このnoteでは国際的な摩擦というシーンを想定した例を多く上げながら論考してきたことも相まって、なおさら、ケアが反戦的な思想と結びつきやすいイメージを形成している。男性中心主義批判はまさしく反戦主義へと接続し、対話主義の推進はそのまま反戦主義へ流れ着く。

ロシアの過激化する武力行使は、遠く東京にいるわたしさえも震え上がらせている。わたしは恐怖している。この恐怖を、どうにか取り除けはしないだろうかと日々考えている。つまりわたしはわたし自身をケアする方法を探している。戦争から逃れるためではない。戦争を憎み、消滅させ、真の安心を勝ち取るための、対話主義による非暴力的な方法を探している。

そしてわたしが辿り着いたのは、むしろこの、怯え、震えているわたし自身こそが、戦争反対を唱え、連帯を呼びかけ、ケアし合う現場を構築することに目覚めるべきなのではないかというポジションである。さらにそのポジショニングと、自らを立たせる意志こそ、わたし自身へのケアとなるのではないだろうか。

▷殴り返してはならない

私たちはこれから、きっと遠くない未来で他国からの侵略や攻撃を受ける。その時、反撃や先制攻撃を選んではならない。刃を向けられても、刃を向け返してはならない。たとえ、その刃がすでにこの喉元に触れ、皮膚に食い込んでいたとしても。そして、脅され、愛する家族を人質に取られ、罵倒され、魂までも殺害されたとしてもだ。なにがあっても、核爆弾を保有したり敵陣に兵士を送ったりしてはならない。これがこのnoteに残したい一番大切なことだ。

その理由はただひとつ。わたしたちの愛する子供たちが生きる世界から戦争をなくさなければならないからである。それ以外に何か理由が必要だろうか。確かに無謀かもしれない。遠すぎる道のりだ。子の世代でも間に合わないかもしれない。それならばせめて、孫には戦争のない世界を生きてもらおう。

わたしはふと思ったことがある。世界は確実に複雑さを増していくが、これは過渡期なのではないか、と。わたしたちの歴史は2000年以上前に小さな農村から始まった。幾度とない領土の拡大や武将たちの領土争いを繰り返し、日本列島は統一され、ひとつの国になった。現在、痛ましい事件や事故は絶えずとも、日本国内で領土をめぐる内乱は起こっていない。争わなくていい領域が、日本列島という範囲を覆ったということだ。つまり、この列島に生きるもの同士は、基本的にケアし合うことを前提に社会を築くという共通認識があるということだ。超長期的な目で見ると着実に、対話可能な領域が広がっていっているとも捉えられるではないか。

そして、国際的で巨大な戦争をいくつも終え、日本には核爆弾が2度も落ちた。戦争は痛ましく、許されない、というこのミームは日本人の心象風景に刻まれているが、実践としての反戦主義はなぜか白い目で見られがちだ。つまり実感がないということだ。わたしたちには、戦争を憎み、戦争を妨げるためなら犠牲を払うという実践をイメージすることができない。しかしそこで、わたしたちはひとつの覚悟をしなければならないのではないだろうかと提案したい。それは、今生きているわたしたちがひとり残らず侵略によって命を奪われたとしても、これから生まれてくる子供たちには、せめてその思いをさせないと、今、ここで約束することはできないだろうか、ということだ。

▷生まれてくる子供たちへのケア

戦争は連鎖し、簡単には止められないということを、わたしは、北朝鮮のミサイルでは実感できなかったがロシアの侵略では実感することができた。そこに他者を説得できるだけのなにかの理論など必要ない。ただ、怖いと感じている、それだけで十分なのではないか。わたしは怖い。尖閣諸島が、北方領土が、沖縄が、わたしに呼びかけているような気がする。これだけで十分なはずだ。わたしたちは脅かされている。

ケアとは、ある一人の他者を敬い、いたわり、扶け、対話し、畏れ、その者を脅かす存在を退けることである。わたしはこの恐怖を取り除いてほしいという意味でケアを求めている。しかし、それよりもっと、わたしは、私がこれから生まれてくる子供たちのケアラーであるという点を自覚したい。それを妨げる存在を退けるためなら手段は問わない。これが真の意味での、民主主義国家の、民主的な「私」の在り方なのではないか。

しかし同時に、わたしたちは対話主義にのっとり、暴力ではなく対話で、平和を妨げる敵を退けねばならない。暴力の連鎖はケアレス・チェーンであり、その連鎖を断つことは難しい。だからこそ、なおさら、その難儀な課題を、これからの世代に遺してはならないのだ。強弁だろうか。理想論だろうか。だが、わたしたちはそもそも、一人の誰かをケアすることにおいて、難儀な課題と向き合い続けているではないか。もし、そうした実感がない場合は、気付かぬうちに実践しているか、むしろあなたにこそケアが必要か、そのどちらかである。

▷日本人というポジショナリティを活かす

日本が世界平和に貢献できることは、何においても今ある憲法を保ち、改悪の手から守り抜くことである。戦争に参加しないという平和の憲章を磨き上げ、わたしたちは再度歴史に学び、これからの平和をいかに強固なものにするか、ひとりひとりが考えることである。そして、核爆弾や原発の廃絶を訴えていくことである。わたしたちは、そうしたメッセージを発する使者として、十分すぎる説得力を背景に持っている。はずだ。

同時に、愚かな侵略や攻撃も繰り返してきた。いまも隣国との境界線はつねに揺れ続けている。国土の上空を飛翔物は通過する。わたしは、もっと知りたいと思っている。本当のことを。知ることができない、あるいは捻じ曲げて理解させられていることは不自由だ。

戦争をタブー視する戦後日本と日本人の文化的価値観は決して悪いものではない。しかし、現に戦争と無縁で生き続けることはできない。わたしは、義務教育の中で、第二次世界大戦周辺の歴史をなんだか駆け足でおぼろげにしか教わらなかったことに違和感を感じ、それをずっと覚えている。なぜきちんと教えてくれないのか。なぜ過去に侵略者だったというポジショナリティも抱えて生きることがわたしたちには不可能だと思われた上で教育が作られているのか。ゆとり教育の世代だったからなのかもしれないし、今はもっと教えているのかもしれない。わたしたちは食卓や職場でも、戦争や国際政治に関する話題を口にしても場が凍りつかないような、そもそもの文化的土壌を築き上げなければならない。

▷反戦主義というケア

寺山修司の映画『書を捨てよ町へ出よう』の中で、好きなシーンがある。「誰のため?」と若者たちが連呼するロックオペラのシーンだ。東京キッドブラザースというミュージカル劇団の俳優たちが演じる若者たちは有り余るエネルギーを新宿路上のゲリラ撮影で爆発させていた。その歌の中で「反戦運動は誰のため?」というフレーズも飛び出し、続く「あなたの解放のため」によって反戦運動は個人主義的に自己の精神を解き放つツールへと変換され、最後には「捕まるのが悪い 捕まるのは誰のため? それはドジだから」との結びで歌は最高潮に達する。

わたしははじめ、安保闘争周辺で起こった学生運動の熱量やただならぬイデオロギーのぶつかり合いを、ファンタジーのように思えた。わたしが寺山作品と出会った当初、国会前では集団的自衛権への抗議運動が日夜繰り広げられていた。いまリアルで起こっていることと、過去に起こったことの近似性と、わたしの実感のギャップとが、いびつに混ざり合って、わたしはわたしのスタンスがわからなかった。SEALDsと呼ばれるその抗議団体は、「戦争したくなくて震える」とラップ調に連呼し、プラカードをかかげていた。あそこに集まった人たちも、逮捕されることをある種ひらき直りつつ、むしろ自身の解放としてあの場に参加していたのだろうか。わたしが当時感じていた違和感の中には、世間のSEALDsに対する批判的な意見が目立っていた(ように感じた)ことだ。

前述の通り、わたしは「戦争反対」を掲げなくてはならないと考えている。日本にいるほとんどの人がそう思ってはいるだろう。しかし、目に見える形でデモや運動となってテレビに映ると、恐怖を感じ、むしろ異端であるとして嫌煙してしまうのだろう。そこには、わたしがわたしの立つべきスタンスを明確にわかっていないことによって生じるモヤモヤが関わっているのではないだろうか。

戦争反対は日本人にとって「倫理的な」ものなのかもしれない。倫理とは「そうあるべき」状態や精神をいうが、道徳とは「そうでないものは不徳だ」とする罰則的な一面を持っている。倫理には答えのない追求としての懐があるが、道徳には体系化され論理化された基準がきちんと設けられている。つまり、こう言い換えることもできる。日本人にとって戦争とは「してはいけないもの」という認識はあるが、「反戦を訴えないものは不徳だ」とまでは考えない

確かに人間には考え方の自由がある。しかし、こと戦争において、これほどまでに憎み、断じ、拒まなければならないものは存在しないのではないか。議論の余地はないとわたしは考える。核爆弾の保有について議論することは自由だ、などという武力主義者に与えられる自由など認められるわけにはいかない。わたしはケア中心主義に即して、反戦を訴えない人とはつまり戦争を容認し共同し称揚する人だと言い切ることができる。こうした断定によって被るような自由の侵害は、むしろあってはならない自由をひとつ是正したことに過ぎない。わたしたちは今後、こうした決意を持たなくてはならないのではないだろうか。

反戦主義とは、未来の子供たちを戦争から守るための完全なるケアであり、そして、スタンスをすぐに見失い彷徨えるわたしたちを、きちんと平和への道に戻してくれるわたしたち自身へのケアの表明だとわたしは提言する。

6 ケアと演劇

ここでようやくわたしは、演劇に感じたケアの可能性について言及することができる。まず前提として、わたしにとって演劇とは「集うための場」であることをここに記す。そして「観客との対話」であることを付記する。つまり対話主義の実践の場として演劇の場があるということができる。

また演劇には、作品の幻想リアリティと観客が生きるリアリティとを貫通する強力な「同時代性」という引力があるとわたしは考えている。なぜ「今」なのか、なぜ「そのことば」を観客に向けて今語るのか、そういった同期が本能的に求められ、そこから抜け出すことができないのが演劇の特異性だとわたしは考える。

今、共に生きているわたしたちは、多くの社会的な問題を大なり小なり背負い、迷い、日々の暮らしを通して課題を乗り越え続けている。社会や他者の育成やケアへの責任を分有している。悩みが一切ない人はいないだろう。そのさまざまな生きづらさを、演劇の幻想リアリティの中でいたわり、現実に再び対峙できるよう背中を押してあげること。それこそが演劇の持つ最大の力なのではないかとわたしは信じている。

つまり、演劇の持てる効力とは、まさしくケアの力なのではないだろうか。観客へのケア、観客が日常でケアする誰かへの間接的なケア、演劇を作る私たち自身へのケア、そして、その小さな連動がやがて社会全体へのケアへとつながる、そういったポジティブで力強いケアの可能性を、わたしは今、強く感じている。

▷ケアのための劇場

言わずもがな、劇場とはそもそもケアのための場所だった。古代ギリシア時代まで遡ると、かつての市民たちは、星の下で松明をともし、悲劇を歌って舞い、観客たちは浄化を受けた(コロッセオなど、処刑や決闘なども娯楽とされていたので今とはだいぶ価値観が異なるが)。劇場の近くには食事を食べる食堂があったり、温泉施設にも立ち寄れるような劇場もあったそうだ。

今、ケアを中心に劇場を再考することはできないだろうか。現代社会において、市民が癒しを求めて劇場に訪れたくなるような空間の設計である。劇場は現代日本において、やや敷居の高い場所になっている。文化教育の曖昧さによって拍車がかかる「芸術のわからなさ」が、より「ケアたるイメージ」から劇場を遠ざけてしまっている。演劇界が挑んでいる「創客」の多くは、いかに「作品のよさ」に観客が出会うか、という「接続の方法」への工夫に傾倒しているようにわたしは感じる。

しかし、本当に今、市民が求めるケアとは、ケアなき社会で疲弊した暮らしからの「逃げ場」としての機能なのではないだろうか。例えば、劇場の託児システムはもっともっと進むべきだ。子供を一時的に預けるという口実のもと劇場に足をはこぶ観客をたくさん呼び込むべきだ。夢のような話だが、劇場の働きかけによって育休ならぬ「劇休」を企業に求めていくという試みはどうだろうか。

他にも、子供が無料で観覧できる席を作るというのはどうだろう。学校や放課後に居場所がない子供たちが集う「学童」の延長のようなイメージである。こうした居場所が必要なのは子供たちだけではない。日本が戦地になることをわたしは少なからず懸念しているが、そのような有事にこそ、劇場は暴力によって解体される小さなコミュニティたちを一つにまとめる力を持てるのではないだろうか(だからこそ、ウクライナで劇場が攻撃されるというのは非常に許し難く、怒りと悲しみが込み上げる)。

これらの提案が行き当たる先は全て「お金がない」である。であれば、劇場は横で連帯して、行政の公的な支援を求めて、社会全体でこうした逃げ場を作るために公金を注げるような雰囲気を作っていくべきだ。そしてわたしたちはケアの名のもと連帯すべきである。不幸中の幸い、パンデミックによって劇場や劇団の横でのつながりの必要性が今、注目されているとわたしは感じている。この流れを生かして、劇場をケアのフロンティアとして再開発する方向へ一致団結できたら理想的な展開だとわたしは考える。

▷反権力は呪いじゃない

わたしは演劇を「生きづらさからの解放」の手段として捉えており、その道程で反権力的なスタンスを取らざるを得ないことが多い。なぜならばわたしが感じる生きづらさには、政府の決定や見落とされている持たざる者たちの暮らしが、わたしたちの健全な人間らしい暮らしが少しずつ遠ざかっているように感じているからである。できることなら反権力などしたくない。敵を作るために演劇をやっているわけじゃないのだから。

しかし、踏みにじられている誰かを助けるためには、その足をどかす必要がある。その足をどけるというステップが、わたしにとっての演劇に内包される反権力性だ。つまりこれは、わたしが思想や活動において自由が認められており、またこれを発表できる自由があるからなしえるアクションなのだ。

とある演劇祭でにおいて、協賛者のツイッターで「反権力の呪いから演劇を解放したい」のような趣旨のコメントが出され、議論が起こった。現在はその文言は訂正・削除されたが、問題の根本は文章が消えたからといってなくなるわけでは当然ない。演劇祭に参加する某劇場のステーメントには、そうした文言はリリースの際に削除する予定だったが手違いで掲載してしまったとの説明があった。

この問題が複雑なのは、件の協賛企業がもともと、いわゆる「右側」とされるような保守推進派のイデオロギーを掲げていることを、きっと演劇祭側のスタッフたちも承知していたであろう点である。わたしは客観的に、右派イデオロギーを掲げているからといって善だとか悪だとかいうスタンスにはいないが、演劇祭側がそれをどう捉えているかという点においてイデオロギー上の賛否が生じることは当然だと考える。

ここで論題にしたいのは、先に論じたような、異なるイデオロギーを排除するというスタンスにおける是非についてである。某協賛企業のいうように、演劇が今、社会に訴求できる力が落ちていることはわたしの目にも明白であり、その理由の分析として、演劇が反権力的な姿勢に立ちがちという点に着目している点も、わたしは同感である。しかし、ここにおいて本来考えるべきなのは、「なぜ反権力的な姿勢を見せると需要がなくなる」のか、そして「なぜそれが必然視され、その点を問題視しない」のか、というマクロの課題である。わたしが言いたいのは「反権力は演劇の真髄だ!」とか「自由への冒涜だ!」とかそういうことではなく、反権力や表現にまつわる文化的なリテラシーが著しく欠如したTOKYOという町についての嘆きだ。

さらに嘆かわしいのは、本件の炎上を受けて、多くの演劇団体が演劇祭への不参加・公演の中止を表明したことである。これは正直、わたしは間違った選択だと考えている。なぜなら、そうしたポジショニングと表明は、むしろ権力に対する敗北を意味し、かつ権力構造の再生産につながるからである。

演劇祭に参加する予定だった団体は、ツイッターでの状況証拠的に、そのほとんどが協賛にどんな企業が含まれているのか知らなかったようである。そして、件のコメントが出された時に揺さぶられ、団体や作品のイデオロギーと協賛企業のイデオロギーが同化しているよう誤読されることを恐れ、不参加という判断に至ったのだと思われる。しかし、それはつまり、自分と異なるイデオロギーを持つ他者から受け取った資金で作品を作ることは、作品のイデオロギーが出資者の魂に染まってしまうという考えが根底にあるという意味である。果たして、そうした考え方はこれからの演劇を考えるにあたって健全であるといえるのだろうか。

また、イデオロギー不一致による不参加表明は、逆説的に、参加表明者をイデオロギー賛同者であるとみなす行為ともいえる。あるいは第三者からそう見えるよう仕向ける行為とも言えてしまう。意図するところではないのは理解できるが、現にそうした構造を生み出す力を持ってしまう。そして、残った参加者たちが結果として演劇祭に参加するメリットを享受し、協賛側からしたら何らダメージもなく、むしろ「ほら、そうやってチャンスを自分から捨てるでしょ」とふんぞりかえる姿さえ目に浮かぶ。違う! そもそも舞台芸術は競争主義的な論法で研磨されるべきではないのだ! そしてわたしが最も違和感を感じたのは、不参加表明のステートメントのうち、はっきりとこうしたイデオロギーの違いに対する自身の見解が明記されていないものを見た時である。

演劇祭を開催すること、そして協賛として出資すること、それは紛れもなく「持てる者からの供給」である。件のコメントには、参加団体のイデオロギーを無視し、上書きするという暴力(=ケアレス)が含まれていた。曖昧な不参加表明・上演中止にはかえってケアレス・チェーンを保持・助長する効果があった。むしろ、参加しつつ、自身のイデオロギーが操作されかねない危険に晒された点への批判の態度を纏いながら作品を作るべきだったのではないかとわたしは考える。当然、劇団の主催者だけでなく、俳優やスタッフなど、さまざまな意見がある中で、このような歴然とした態度を貫くことは難しいのだと思う。しかしわたしには、ただでさえ上演の機会が危ぶまれるパンデミック状況下で、せっかくの俳優やスタッフの活動の場が減ることを想像するのがどうしても耐えられなかった。

公的な支援を受けながらも権力を批判するというのは一見、自己矛盾かのように思えるかもしれない。しかし対話主義・ケア中心主義を経由した反権力には、持たざる者、すなわち弱者を救済するための歴とした意志がある。それに、政府のような大きな力に「従うか批判するか」という二元論的な解像度でしか目を向けられないのは危険すぎる。本質的に、行政とはわたしたち市民のことであり、市民とは行政なのだ。変わり続ける社会を育てる責任を分有しているわたしたちは、いま生きづらさを抱えるわたしたちや、未来に生きる子どもたちをケアするべく、利用すべきものは利用し、改善を続け、退けるべきものは退けなければならない。それが、市民が行政を監視し、改良を要求し続ける、民主主義のあるべき姿なのではないだろうか。

反権力は演劇に降りかかる呪いではない。演劇における反権力は、演劇がもつケアという風格のひとつの表情、とりわけ子供を危険から守る時の親の表情なのだ。

▷表現者へのケア、職人へのケア

昨今、映画界や演劇界において、創作の現場での福利厚生への関心が非常に高まっている。パンデミックにより、公演や収録に関し、わたしたちの間に口約束しか交わされないことの問題や、現場ごとのさじ加減で労働の重さが測られることの危うさと不信感が表面化した。この点についても、ケアを中心に議論を進めることができるとわたしは考えている。

演出家やプロデューサーという、いわば持てる者側の人間がいて、俳優やスタッフといういわば持たざる者が居合わせるという点において、表現の場とは権力関係の縮図であるといえる。理論上、演出家と俳優は対等といえるが、実際には演出家が作品における最強の決定権と実践力を持っているため関係性は傾きやすい。しかし、むしろ俳優の方に力があって作品の内容を変更せざるを得ないという場合もあるし、演出家がプロデューサーの意向に逆らえず板挟みになることもある。一元的に権力関係を取り出して断罪するのは難しい。

しかし、かといって問題のすべてを各現場ごとの裁量へと再分配するような自己責任的なことではもう、いま問題提起されている根本的なマクロの課題の解決には至らないことは明白だ。とはいえ、プロデューサーや演出家など、表現者を束ねる者たちにすべての責任が還元することは危険でもあるとわたしは考える。

表現の場における契約や労働、賃金にまつわる問題は、突き詰めると結局リソースの不足問題に行き着く。パンデミックによって興行が滞りなく行われ、きちんと集客を叶えることを誰も担保できない中、従事する側にとっては契約という絶対的な担保が必要であることは言うまでもない。対して、興行主側から見ると契約という担保は大きなリスクになる。しかしそもそも興行とは博打なのであり、この点をもって興行側が契約を励行しない口実とするのは誤りである。表現の場における契約の一定の形式を設け、ガイドラインに即した契約を結んでいる興行であるかどうかについて、第三者が簡単に視認できるシステムにする必要があるだろう。ここには、ガイドラインを守らないからといって興行ができなくなるわけではないという自由が残っている。

この自由を残しておく必要性は、表現の場を、持てる者の手だけに渡らないようにする点にある。つまり、はじめて演劇を上演したり映画を撮影しようとするごく小さなコミュニティから可能性を奪うことになるということだ。この自由がなければ、表現は今以上に持てる者たちの独断場になることを促進し、結局はケアレス・チェーンを再生することになるだろう。重要なのは、さまざまなニーズがあり、さまざまな環境があるということと、それらの自由と価値を尊重し、かつ、そのニーズと環境が適したマッチングを起こせるようなシステムを生み出すというビジョンである。

俳優にせよスタッフにせよ、大きく分けて「表現者」としての人格と「職人」としての人格があるとわたしは考えている。わたしの定義する表現者とは「自分が自由に表現することに重きを置き、表現の場がなければ他にできることがないタイプ」であり、職人とは「自らの技芸が一定の基準を通して評価され、また適切に受け継がれるべきと考えるタイプ」であるとする。表現者と職人は、それぞれ適した環境がまったく異なることに言及したい。つまり適切なケアの形も異なるということだ。

表現者としての人格が心配するのは自分の活動の場がなくなることである。逆にいうと、自分の活動の場がありさえすればどうにかやっていくことができるし、自分の生活を担保する経済的な循環は表現の場のほかに用意されえいればよいと考えることもできる。言うなれば個人主義的な世界観である。表現者に必要なケアとは、活動の場が常に開かれ、自由に内外を往来できる環境を整えることであり、表現のよろこびを奪う存在を退けることである。

職人としての人格が心配するのは、世界から自身の作り出す技芸が先細っていくことや、価値が下がることである。逆にいうと、自分が活動の場を獲得できるかどうかは技芸を磨くことによって試されるべきであり、極論、劣った職人が落ちこぼれて行くことは世の定めであると捉えている。競争的または資本主義的、可算的と捉えている面から統計学的な世界観といえる。職人に必要なケアとは、技芸を「磨く」ための環境が保たれることと、適切に評価され、技術の購入者と対等な関係を結べるようなガイドラインを作ることである。

わたしが提言したいのは、両人格ともに並行してケアされるべきであるということと、これらが混同されずに議論が進むべきであるということである。つまり、関係論的な世界観で、対話とケアを中心に表現と労働の最適なバランスを社会全体で探るべく共同すべきである。その一本道を進むためには、二つの人格が対立しないよう注意深く対話を重ねる必要がある。重要なのは、表現者がのびのび活動できる「表現者のための場」と、職人がすこやかに活動できる「職人のための場」が、リクルートの段階で明確に打ち出され、求める環境に適切にアクセスできるような仕組みを整えることであり、適切でない環境に誤って身を置き、悲劇を産まないようにすることである。

「エキストラに謝礼を支払わない現場は恥じるべきで、滅ぶべきだ」などという極端なスタンスをまれに見かけるが、そのとき、持たざる者たちによって営まれる「小さな畑」があることは見落とされている。あるいは、表現者も職人も、それぞれ自分で選んでいるのだから文句を言うな、などの自己責任強要論に従うべきではない。必要なのは「対等」であるかどうかを測るための明確な基準であり、束ねる者と集う者がメリットとデメリットを分有し、いつでもどこでも誰でも表現活動を始められるような社会は、むしろ奨励されるべきである。そのためにも「対等さの測り方」が明記された基準となるガイドラインを設け、ガイドラインに即して創作されたかどうかを、集う者や観客たちが識別できるようにすべきだ。その上で、わたしたちは対話主義にもとづいて同業者同士で連帯し、ケアを怠り、搾取の連鎖によってぬるま湯につかり続ける権力者を排斥しなければならない

それにしても、先にあげたような教育と政治の犠牲者のことを、一度は追放しなくてはならないものの、最終的にはきちんと啓蒙し、対話主義へと導かねばならないことは非常に骨の折れる道のりである。しかし、未来の子どもたちに適切な表現の場を残すためにも、今から、わたしたちは社会を育てる責任に情熱を燃やし、ケアに満ちた社会を、レンガを積んでいくように築き上げなければならない。

▷自由とは何か

結びとして、わたしが考える「自由」について唱えさせてほしい。

自由とは、予定を覆す権利のことである。

覆すことばかりが着目されがちだが、そもそも予定がなければ自由にはなれないのが皮肉である。そして、必ずしも覆すことだけが自由なのではなく、選択できる
という部分に力点がある。わたしたちに予定されている未来とはどんなものだろう。

顔もしらない誰かの見えない大きな力に、わたしたちは日常を演出されている。わたしたちは産声と共に台本を手渡され、暮らしを演じて泣いたり笑ったり、うたったりおどったりする。あなたには明るい未来がみえているだろうか。

わたしは元々の台本から脱線した人生を送りたい。つぎはぎだらけの、メモ書きとテキレジで埋め尽くされてぐちゃぐちゃになった、唯一のわたしだけの台本を読み終えて幕を閉じたい。

未来の子どもたちへ。書架にあるわたしの台本を手に取ってくれ。そして、自由に生きよ。

参考図書紹介

ここにまとめたケアにまつわる知識の多くは、下記の書籍から得た。理論の簡略化や飛躍の間を埋めるために、合わせてお読みいただくことをお勧めしたい。

ケア宣言
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他者と生きる リスク・病・死をめぐる人類学
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ヤング・ケアラー 介護を担う子ども・若者の現実
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わたしたちにはことばが必要だ フェミニストは黙らない
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